第二章 忘れられた争い
郷土資料館から取り寄せた、昭和初期の地域議会議事録。
その中に、昭和12年のある干ばつの記録があった。
「第七区画水源、単独での供用継続を理由に、村内配給より外される」
「複数戸より異議あり、再三の話し合い実らず」
「不穏な動きあり。記録不要」
その数ページあと、ひとつだけ記名欄のない短い文章が書かれていた。
「例の家については、これ以上の追及は行わない」
「事実の記録は不要とする」
「この名は、残さないことにする」
私は息を詰めた。
“この名”。
誰のことだ?
その名前が、記録から“意図的に”消された。
記録されなかった名。
語られなくなった名。
だが、残されていたはずのその“気配”が、あの家に染みついていたのかもしれない。
地域の古い住宅地に住む年配の男性に話を聞いた。
「……水? ああ、昔、あそこだけ出てたって話は聞いたな」
「不思議だったらしいよ。井戸がある家は、夏でも水が減らなかったって」
「それで、ちょっと揉めたんだ。みんな喉が渇いてたからな」
「でも……その話は、あまりするなって言われててね」
私は尋ねた。
「なぜですか?」
老人は小さく笑った。
「忘れたほうがいいことも、あるって話さ」
ヒナのことを聞こうとしたが、踏みとどまった。
この家にいたはずの人間の名前は、誰も語らない。
名を失ったまま、井戸に落とされた何かがある。
私は、あの家に行こうと思った。
今なら、見つかるかもしれない。
失われた水の気配も、記録されなかった名も。