第五章 最後にいたのは
引っ越しの荷造りは、半分以上終わっていた。
この家に残るものは少ない。
ヒナの服も、リボンも、写真も、全部箱に詰めて、テープで封をした。
でも、まだ何か忘れている気がして、私は最後にもう一度だけ、あの部屋を開けた。
机の上に、一冊のノートがあった。
見覚えがある。
何度も開いて、何度も書いて、何度も涙を落としたページたち。
けれど、いまそのノートを見ても、不思議と何も思い出せなかった。
私は手に取ろうとして、やめた。
代わりに、私は立ったまま、ノートの表紙をしばらく見つめていた。
名前は書かれていない。
でも、この中には、たしかに「ヒナ」がいる気がする。
どんな言葉を残したのかも、何を書いたのかも、思い出せない。
ただ、ノートがここにある限り——
あの子はまだ、誰かの中に“いる”のだと思えた。
私はノートから視線を外し、そっと部屋のドアを閉めた。
廊下を歩く足音が、打ち捨てられた部屋に吸い込まれていくようだった。
鍵を返す日。
最後の一歩を出るとき、私は一度も振り返らなかった。
部屋の中には、何も残していない。
はずだった。
でも、あの押し入れの奥の奥。
誰も見ない隙間に、あのノートだけが、ひっそりと置かれていた。
何の音もしない。
けれど、風もないのに、ページが一枚だけ——
ぺらりと、音を立ててめくられた。