補章 音の深さ
私は座ったまま、ノートの最後のページを静かに閉じた。
部屋の中は静まり返っているのに、耳の奥で何かが鳴っていた。
ごくかすかな、ぽとり、という音。
時計でも、蛇口でもない。
私は立ち上がり、リビングの床をひとつずつ踏みしめた。
……コン。
あの場所。
補修された床の一角だけが、他と違う音を響かせる。
昨日と同じ動作のはずなのに、音の深さが違った。
私はしゃがみ込み、指先で床をなぞった。
薄い段差、微かな凹み。そして、その中心に、かすかに濡れた感触。
水。
一滴のしずくが、フローリングの継ぎ目から浮かび上がっていた。
まるで、下から染み出してきたように。
私は口元を押さえた。
この家の下には、何かがある。
ノートに書かれた“ヒナ”の存在は、本当に誰かの人生だったのか。
それとも——
私は床に片手をつきながら、心の底に問いを沈めた。
ここで消えた人たち。
私が忘れかけていた誰か。
あの名前を思い出すたびに、何かが沈むような感覚があった。
音は、もう鳴っていなかった。
でも私は知っていた。
この床の下で、何かがずっと、待っている。
——そして、それを最初に知っていたのは、 この家に“記憶”を置いていった、あの母親だったのかもしれない。