第五章 いなかったヒナ
家に戻った私は、机の上にノートを置いて、その表紙をしばらく見つめていた。
革のようなその表面は、光の角度によってはかすかに波打って見えた。
けれど、乾いている。水気は感じない。
それでも、手に触れていると、まるで湿気が指に染み込んでくるような感覚があった。
ノートを開こうとして、私はやめた。
この中には、“何かの続き”がある気がした。
だが、なぜかページをめくることに強い抵抗を感じた。
触れてはいけないものが、この中に眠っている気がした。
私は代わりにスマホを開き、家の登記履歴を調べ直した。
かつて住んでいた名字、“宗村”。
この町の死亡記録のなかに、その名がひとつだけあった。
「宗村ヒナ」。享年三歳。
記録上の死因は病死。けれど、それ以外の詳細は何も残っていなかった。
私は固まった。
ノートを机の上に置いたままにしていた私は、ふと裏表紙に目をやった。指先でなぞるように触れると、表面の革がわずかにざらついていた。
そこに、うっすらと刻まれていた文字があることに気づく。
『ヒナ』——小さく、薄く、だが確かにそう読めた。
私は息を呑んだ。
そして、初めてそのノートを開いた。
中には、学校の風景や友達の気配、そして“自分の名前を忘れていく”という奇妙な言葉が並んでいた。
けれど、いま照合できる記録の中で「宗村ヒナ」という名前を持つ人物は、たった三歳で死亡していた。
この矛盾は、なんだ?
名前が同じなだけの、別人?
あるいは——
私は静かにノートを開き、机の上でページをめくった。
ページをめくるたび、筆跡が少しずつ変わっていく。
文体も、言葉選びも、文末の癖も。まるで違う人間が、交代で書いていたような。
けれど、そのなかで、繰り返し浮かび上がる名前がある。
ヒナ。
何度も、何度もその名で呼びかける声。
自分で自分の名前を確かめるように、何かにすがるように、その名が書き留められていた。
私はその文字をなぞった。
インクが、指にぬるりと染みた気がした。
思わず手を引っ込める。
光の下で見ると、ノートの紙が、ほんのわずかに波打っていた。
私は再び、あの家に向かった。
何かが、まだそこにある気がした。
誰かが、まだ“書かれていない”。
夕方、家に着いた頃には空が鈍い灰色に沈んでいた。
玄関を開けると、押し入れの前で一度立ち止まった。
床板が、前よりもわずかに軋んだ気がした。
私はそっと、足元の補修箇所を踏んだ。
——コン。
音は、昨日よりも深かった。
私はバッグからノートを取り出し、その上に静かに置いた。
ページが、一枚、音もなくめくれた。
そして、そこには——
> ヒナは、もういません。
> でも、書いている間だけは、たしかにここにいました。
> 忘れられても、その日々は残っています。
手のひらに、冷たい水の感触が広がっていた。
私は床を見た。
フローリングの隙間から、わずかに水がにじんでいた。
私は呟いた。
「……どういうこと……?」