第四章 思い出せない母
ノートを持ち帰ってからも、私はしばらく開く気になれなかった。
理由ははっきりしない。
だが、バッグの奥にしまったままのそれを思い出すたび、背筋にじっとりと汗がにじんだ。
あの家の空気が、まだどこかに張りついている気がしていた。
それでも私は、そのノートの表紙を見た瞬間から、奇妙な既視感にとらわれていた。
革の表面にうっすらと残る小さな傷、手触り、湿り気。
私はそれをどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。
家の中で感じた違和感と、その表紙に残るかすかな湿り気だけが、いつまでも頭に残っていた。
私は市役所の住民記録をもう一度洗い直した。
過去の記録のなかで、あの家の所在地を示す旧住所の欄に目を走らせているうち、ふと見覚えのある姓に目が止まった。
「宗村」。
どこかで聞いたことがある気がした。
その姓は、確か資料や地図など、これまでの調査の中で幾度となく目にしていたように思う。
旧白浜町のその住所には、「宗村」という姓の人物が、かつて確かに住んでいた記録が残っていた。
該当するのは現在別の場所で暮らす女性ひとり。
私は連絡を取り、簡単な聞き取り調査として訪問を申し出た。
出迎えてくれたのは、上品で柔らかな雰囲気を持つ中年女性だった。
彼女は名乗ると、記者である私を快く迎え入れてくれた。
応接間に通され、私は名刺を渡し、旧白浜町の家のことを切り出した。
宗村さんはしばらく考え込んだあと、ゆっくりと口を開いた。
「ええ……たしかに、昔、あのあたりに住んでいたことがありました」
「何年ごろの話でしょうか」
「もう二十年以上前になると思います。でも、長くいたわけではないんです。一年もなかったんじゃないかしら」
「お一人で?」
「いえ……家族と一緒に。たぶん、そうだったと思います」
たぶん?
その曖昧な言い回しに、私は少し違和感を覚えた。
「……宗村さん。この住所に、昔住んでいらっしゃったことはありますか?」
私がそう尋ねると、宗村さんは少し驚いたように目を見開き、頷いた。
「ええ……たしかに。あのあたりに住んでいたことがあります。でも、ほんの短い間です」
「ご家族と一緒に?」
「ええ、たぶん……そうだったと思います」
その曖昧な言い回しに、私は違和感を覚えながら、スマートフォンを取り出した。
「実は、その家の調査をしていて。もし記憶があれば、こちらの写真を見ていただけますか?」
スマホの画面に映したリビングの写真を見せる。
彼女は静かに目を細めた。
そのまま数秒……。
「……あれ?」
私も思わず声を出した。
画面の隅に、小さく写っているものがあった。
押し入れの前の床。その上に、黒い何かが置かれている。
「これ……」
宗村さんの目が一瞬、見開かれた。
私はバッグから、その黒いノートを取り出し、テーブルの上に置いた。
「……これです。見覚え、ありますか?」
宗村さんは少し黙ってから、こう言った。
「……ええ。たしか、うちにあったものだと思います。古い引き出しの奥にずっとしまってあって、どこで手に入れたのかは……思い出せませんけど」
「それを誰かに渡した覚えは?」
「誰かに……ええ、あげたような、そんな気もするんですけど……」
言葉を濁しながら、彼女は小さく笑った。
「誰だったかしら。どうしても、そこだけが思い出せないんです」
その言葉の端々に、どこか空白がある気がした。
ノートを渡した記憶はうっすらとあるのに、相手が誰だったかはまるで霧の中。
私は応接間を見渡した。静かで、清潔で、生活感のある空間。
けれど――そのどこにも、“子ども”の気配がなかった。
宗村さんは、娘がいたとは一言も言っていない。
それでも、私は確信のようなものを覚えていた。
この人は、誰かの記憶を手放している。
忘れたのではない。
抜け落ちている。
帰り際、私は思わずこう尋ねた。
「……娘さん、いらっしゃいましたか?」
宗村さんは、微笑んだ。
だが、その目元は、少しだけ困ったように揺れていた。
「ごめんなさい。……なんだか、うまく思い出せないんです」