放置された伯爵夫人は叫んだ
「おらと離縁してくんろーーーー!!」
とち狂ったと思われてもええ。
腹を括って、結婚式以来顔を合わせていない旦那様の執務室へ乗り込んだ。
「田舎っぺに伯爵家の奥様とか無理だべ!!」
もう限界だぁ。
『へ、ヘレナ。……お前は伯爵家に嫁ぐかもしれない』
なんて、おっとう様に言われたのがはや数ヶ月前。田舎どころかド田舎、ペンバートン男爵家の末娘だったおらに、大貴族のノルベルト伯爵から婚姻の申し出がきた。なんでも長年続いた戦争で武勲を立てて、伯爵位を譲り受けた若い当主で、優秀な美丈夫と有名らしい。
おらは言った。
『おっとう様、なぁに寝ぼけてんだ。もう昼前だべ?』
おらは普通の貴族のご令嬢さんとちげえって自覚があった。おらはペンを握る前にクワ握っとったし、馬車に乗る前にポニーに乗っとった。
だから、間違いだと思ったんだ。そしたら間違いじゃなくて、あれよあれよと婚姻の段取りが決まっとって、頭を抱えたおっとう様に見送られてこの伯爵家にきた。
そしたらどうだ。朝起きればメイドが顔を洗う水を持ってきて、着替えさせてくれて、朝飯も用意されてて……。
寝巻きのまま川で顔洗って、畑に水やって、ちゃっちゃと着替えて、朝飯作る生活に戻りてぇ。
「離縁がいけねえなら、メイドでもパン焼きでもなんでもやっから!! だから、お願いだ!」
働かないと気が狂いそうなんだべ。紅茶に刺繍、ガーデンをお散歩だなんて。麦茶に繕い物、畑仕事の生活はどこへ……。
それに、毎日毎日、猫被って、お上品な言葉使って、ボロを出しちまわないように、ほぼ喋れねえで……。心労がたまっちまう。これ以上心労で髪の色が抜けたら、絹糸だべ。おらはお蚕様になる気はねえべさ。
「お飾りの嫁さだったら、もっとええのがおるべ! おらはこんなだし、役に立たねぇ!」
そもそも、嫁いできたのに旦那様は顔を合わせねでおらのこと避けて。初夜も馬糞もねぇ。おらはなんのために嫁いできたんだべ?
「……その、貴女は、ヘレナ・ペンバートン男爵令嬢で間違いがないのか?」
さっきまであんぐりしとった旦那様が、額を抑えて絞り出したような声でそう聞く。
「ん? それ以外誰がいるんだ?」
どうしちまったんだ、この人。いんや初めて会った時からずっと変だけども。真顔だったり、青ざめてたり……。こっちを睨んできたり。
「私の記憶ではヘレナ・ペンバートン男爵令嬢は、もっと濃く短い金髪で顔にはそばかすがあって、日焼けしていたと思うんだが」
え……。
「よく知ってんなぁ! 三年前に拾い食いした葡萄で寝込んでっから畑のことが心配すぎて髪の色が抜けちまったんだよ。お天道さんの下にも出れんかったから肌もこーんな白くなって……って、ん?」
おらがそう言うと、旦那様はまさにがっくしという様子で机に突っ伏した。死んだんか?
*
……初恋の人がいた。
幼い頃、僕は体が弱くベッドからほとんど動けなかった。両親は失望し、見限られるような形で、遠い親類の子爵家に預けられることになった。
田舎がよかったのか、肩の荷が降りたのか、徐々に良くなっていった。それでも両親から手紙は一向に来ない。一度見限られた事実が怖く、自分で本邸に帰るとも言い出せない日々が続いていた。
そんなある日、男爵家の結婚式に呼ばれ、僕もついていくことになった。新婦の弟妹がホストとして働いているくらい貧乏なガーデンでの立食パーティーだったが、それよりも居心地が最悪だった。事情を知っているものからは憐れみの、知らないものからは取り入ろうという視線を受けて。うんざりしていた。
これ以上目立つわけにもいかず、一人で端の方に立っていた時、
『つまらなそうだべなぁ。一緒に遊ぶべ』
彼女は弾んだ声で話しかけてきて、僕の手を引いた。
風が吹いて、木々が揺れる。日差しに照らされて光る金髪が眩しかった。ひまわりのようなそばかすから目が離せなかった。
『貴女は、誰?』
遊ぶなんて言ってない。そもそも遊びたいとも思わないし、抜け出すなんて失礼だ。
そう言わなければならないのに、言えなくて。どこに連れて行かされるのかもわからないまま、ただついていくことしかできなかった。
『ん? おらは、ヘレナ。ヘレナ・ペンバートンだべ』
ペンバートンと聞いて驚いた。こんな農民のように日焼けした人が、男爵令嬢だなんて思えなかった。主催側だというのに、ドレスも着ていない。
『おめさんは? なんて名前だべ?」
『僕はフィン……ノルベルトだ』
家名を名乗っていいのか、少し躊躇った。
『ええ名前だ。白くて綺麗な髪だものなぁ』
ヘレナはそう言って目を細めた。
先祖から取った名前だ。そんな意図は全くないと知っていたのに。なのになんだか、名前をもらった気になった。
ヘレナは、日が暮れるまで僕をあちこちに連れ回した。
森や馬小屋、漁港、海岸、そしてひまわり畑。彼女はどこまでも明るく、眩しかった。まるで、令嬢として育てられていないようだった。慣れたように木に登り、木の実を食べ、馬を撫でた。野良猫と戯れて、釣りをして、波打ち際で遊んでいた。ひまわり畑でのかくれんぼは、年上のくせに大人げなくて、少し悔しかった。
屋敷に戻れば、ヘレナは僕を連れ出したことで酷く怒られた……が、それは一瞬のことで、男爵は忙しそうにすぐにどこかへ行ってしまった。この一幕だけで、今まで疑問に思っていたこと全てが腑に落ちた。
ヘレナはずっとこんなふうに育てられてきたのだ。
『寂しく、ないのか?』
『……んー? ぜぇんぜん』
突然そう言った僕に、ヘレナは二、三度瞬きをしてから、にっこり笑った。彼女は誰よりも子供で大人だった。
『うちはおっかあ様もいねぇし……貴族の嫁入りは大変だっておらだって知っとる。おっとう様が忙しいのはしょうがねえべさ』
夕日に照らされながら、彼女は続ける。
『おらは一人じゃねえって知っとる。おらは、領民のみーんなに育てられて今ここにおるんだべ。だから、なぁんも寂しくねえなぁ』
一人、じゃない。
ヘレナのその言葉に乳母や使用人達、子爵家が頭をよぎった。
『村のばっちゃが言っとった。幸せは自分で決めるんだって。おらは、毎日幸せだべ』
ヘレナは、心配してくれたんか? と言って少し照れたように僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。もう貴族とか身分なんてどうでもよくて、もっと撫でて欲しいと手に頭を擦り寄せた。
『さ、そろそろ大広間に入るべ……』
ヘレナは幸せらしい。じゃあ僕は、幸せなのだろうか。僕の幸せはなんなのだろうか。
……自分の幸せを想像してみると、隣にヘレナがいた。
『幸せになるために、貴女が欲しい』
思わずそう口にした。
撫でていた手を掴んで、傅いて見上げるとヘレナは……石像のように固まっていた。
『ヘレナ……?』
『…………んんん? もしかしておら口説かれとる?』
『そのつもりだ。婚約してほしい』
衝動的とはいえ、一世一代の告白だったのに……。
『アッハハハハハ。そういうのは、もっと大きくなってから言うもんだべ』
ヘレナは、子供の戯言として笑った。パーティーが終わるまで散々揶揄われ、そしてそのまま屋敷を後にする羽目になった。
それからは必死だった。とにかく早く大きくなりたかった。もう捨てられたなんてどうでもよくて、さっさと王都の本邸へ戻り、後継者としての鍛錬や勉学に励んだ。今までが嘘かのように両親や周囲が気にならず、何度体調を崩しても復帰できた。両親が養子を連れてきたこともあったが、全てで彼よりも上の成績を取り、跡取りの座を守り続けた。
長く続いていた隣国との戦争に出征した時に成果を上げ、家督を無理やり奪……継いだ。地位も、名誉も手に入れて、すぐに婚姻の申し出を送った。それでも、彼女は結婚適齢期を過ぎかけていて、婚姻を結んでいないかどうかは運次第だった。
『旦那様、ペンバートン男爵家から手紙の返信が来ております』
『ああ、確認す……る……??』
『どうかなさいましたか?』
『いや……』
ところが、返信の内容は想像もつかないものだった。要約すれば、ヘレナに婚姻の申込など間違いではないのか、と。
何度も手紙を送り合ったが、どうやら嫁に出したくないようだった。それでもヘレナがいいと何度も返し、男爵家から嫁を取ることに難色を示した親族を黙らせるのに忙しく、お互いの都合がつかないまま、結婚式の日を迎えてしまった。
『お初にお目にかかります、旦那様。これからよろしくお願いいたします』
ベールを上げるとそこにいたのは、ヘレナと出会ったあの日、結婚式会場でホストの一員として働いていた長いプラチナブロンドの令嬢……ヘレナの姉君にそっくりな女だった。
再会と幸せな結婚生活を思い描いていた僕は、ショックで頭がおかしくなった。婚姻の儀が終わり、ペンバートン男爵に問い合わせたが、男爵領は田舎すぎて手紙を届けるだけでも数ヶ月かかり……その間、ヘレナではない妻とは会話どころか顔も合わせない日々が続いた。
『旦那様、ペンバートン男爵から手紙が届いております』
『やっと来たか』
そしてやっと返事が返ってきたところで、壊れそうなほど暴力的に、執務室のドアが開いた。
*
「今までの大人しい貴女は、猫を被っていたわけか」
死んじまった旦那様が、机に突っ伏したまま呻くようにそう言った。
「おっとう様とねえ様達がそうしろって……」
伯爵夫人としておかしくないようにって、人が病み上がりなのをいいことに所作やら言葉遣いの勉強をさせられたんだぁ。
「君の姉君に似すぎて替え玉として姉君が送られてきたのかと思っていた」
……ねえ様だぁ?
「おらのねえ様はもう三十路過ぎたべ」
なぁに寝ぼけたこと言ってんだべ。
旦那様は目元を押さえたまま、笑い始めた。なんだこいつこえぇ。
「……そう、だな。貴女が十二歳の時に二十代だった」
そうだ、それからもう十二年。おらは二十四だし、ねえ様は三十二で……って妙に詳しいなぁ旦那様。
「ヘレナ、君の三番目の姉の結婚式のことを覚えているか?」
「ジェニーねえ様のか。覚えとるべ。あんときは暇で暇でしょーがねくて、ちっさい男の子と遊んだべ」
小鴨みたいについてきてめんこい子だったなぁ。遊び足りなかったんか、おらを口説きまでしたんだよなぁ。元気かなぁ。それこそ絹糸みてぇな髪と葡萄色の目が綺麗で……。
「それが、僕だ」
そう、綺麗……で。
「ああああああ!?」
「……貴女が、大人になってから言うものだと笑ったから、当主になってすぐ婚姻を申し込んだ」
旦那様が立ち上がって、おらの前で膝をつく。
待て待て待て待て……これは、もしや。
「ヘレナ、今まで放置していてすまなかった。結婚してほしい」
「もう結婚しとるべ」
「今すぐ休みにする。僕の十二年分の愛を聞いてほしい」
「え……」
すごく嫌な予感が当たっちまった。おら、もしかしてとんでもねぇところに嫁いできちまったんでねーか。
そこからは怒涛の日々だった。フィンは敷地内におら達専用の別邸を建てた。で、ずっとそこにいた。メイドすら入れねえから、おらは仕事ができて嬉しかった……けども。
ご飯も風呂もベッドも何もかもフィンと一緒で、なんなら仕事中でも時間を見つけてはおらの元に来た。小鴨どころか執着だった。
「もう構いすぎだべーーーーー!!!」
────放置されていたはずの伯爵夫人はそう叫んだ。
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