月の神に寵愛されし私を追放? 本当によろしいのですか? 〜聖女は神の古城で愛される〜
――『月の聖女』。
日が暮れてから夜が明けるまでの間祈り続け、二大神のうちの一柱、月の神マーニーの力を地上へ届けるのがその役目だ。
今代の『月の聖女』は私。たとえ月の見えない新月の夜でもひたすらに手を合わせ、誰にも感謝されないながらも精一杯務めを果たしてきたのに。
「ドロレス・ヘルキャット! お前は『陽の聖女』に悪虐非道の限りを尽くしたそうだな。そのような者を傍に置き続けるなど考えるだけでもおぞましい。よって、お前との婚約を破棄する!」
パーティーの真っ最中、私を睨みつけながらそう言い放ったのはこの国の王太子であり私の婚約者――いや、たった今までそうだったコーネリアス殿下。
彼は私ではない女性をエスコートしている。陽光を思わせる柔らかな金髪に、美しい蒼穹の瞳。輝かんばかりの純白のドレスを纏ったその令嬢は、皆に広く知られる『陽の聖女』だった。
この国で王家の次に力を持つ筆頭公爵家の令嬢。誰もに傅かれながら何不自由なく過ごしてきたであろう彼女は、笑顔だけで人々を虜にするほどの魅力があった。
けれどそれにしたって、何をしても許されるということではないと思う。
「婚約破棄ですか。この婚約は王命で結ばれたものであったはずですが」
十歳の頃、子爵夫妻であった両親を馬車事故で失って身寄りをなくした。
『月の聖女』である私がどこかの貴族家に養女として入るのは、色々と政治的に都合が悪い。それならいっそのこと王太子の婚約者にしてしまえと、そういう理由で成った婚約だった。
宵闇色の髪と漆黒の瞳。『月の聖女』の衣装である闇夜を思わせるドレスを纏っている黒づくめな私は、王太子妃として見栄えが悪かったのかも知れない。
それでもこの七年間、妃になるべく覚悟を決めていたし、それなりに努力もしていた。
それを今更なかったことにするどころか、正面から破り捨てようだなんて信じられない。しかも私は『陽の聖女』にひどい仕打ちなど一切していないのだし。
しかし。
「次期国王であるわたしの決定は、王命に等しい。醜い言い逃れはするな!」
コーネリアス殿下にはどうやら何を言っても無駄らしかった。
「ドロレス、謝ってくれるならワタクシ、あなたを許せると思うの。だって人には誰しも間違いはあるでしょう?」
さもいいことを言っているかのような顔で、『陽の聖女』――ヘレン・チャーチル様が言う。
彼女は私の真逆で、昼間にのみ力を現す、陽の女神に愛された存在。
だがどうやら陽の女神様は見る目がないようだ。
それともわざと彼女の本性を知り、その上で選んだのだとすれば余程悪質だが。
「ヘレン様。私はそのようなことはしておりません。月の神マーニーに誓って」
けれど、王太子コーネリアス殿下は、さらに私へ言いがかりをつけてきた。
「ヘレン嬢から前々より話は聞いていたのだ。陽の女神ソールーが、お前を闇の力を持つ魔女だと言っていたとな。そしてこの度の悪行の数々でそれが明らかになった」
「魔女? 悪行? あなたがたは一体、何をおっしゃっているのですか」
「何度も何度もヘレン嬢を暗殺しようとしたことに決まっているだろう。目撃者は大勢いるのだから否定しても無駄だぞ。『月の聖女』を騙り、『陽の聖女』を亡き者にしようとした悪女め」
そして、宣言される。
「二度とヘレン嬢に近づけぬよう、お前を国外追放処分とする!」
「……残念だわ、ドロレス。話せばわかり合えることもあったと思ったのに」
自分の行いが正しいと信じて疑わないコーネリアス殿下。うっすらと涙を滲ませ悲しそうに顔を歪めながら、しかし腹の中では私を嘲笑っているに違いないヘレン様。
ああ、この二人はいつもそうだった。
コーネリアス殿下は私のことを何もしない無能聖女だと思い込んでいる。
満月の夜のみ『月の神』と言葉を交わしてひっそりこっそり国を守る『月の聖女』を、ヘレン様はずっとずっと馬鹿にしていた。
別に何を言われてもいいからと、放置していたのだけれど。
まさか追放されることになるなんて。
「月の神に寵愛されし私を追放? 本当によろしいのですか?」
「構うものか、即刻出て行け!」
その言葉に正気を疑う。
どうして『月の聖女』が必要なのか、考えたこともないのだろうか。『陽の聖女』が健在な時はいつも『月の聖女』も同時にいるからこそ、平穏は保たれていたというのに。
だが、さすがにそこまで言うのならお望み通り出て行ってやろうという気持ちも湧いてくる。
あとで彼らが、そしてこの国がどうなろうと私の知ったことではないのだし――。
「承知しました。ですが一言だけ。私は魔女などではありません。マーニーは『月の聖女』を貶めたあなたがたに失望し見捨てるでしょう、と」
忠告はした。これ以上はもう、関わらない。
コーネリアス殿下の指示で私の両脇に衛兵がずらりと並び、抑えられる。抵抗はしない。むしろ笑顔で美しく退場してやろう。
「さようなら、お二人とも。どうか後悔なさってくださいね」
コーネリアス殿下はただひたすら私を侮蔑の目で見つめ、ヘレン様を庇うようにするばかりで何も答えない。
それが彼との、生涯の別れとなった。
馬車に揺られ、国境の向こうへと送り届けられる。
身一つで放り出された私は、ヒールを脱ぎ捨て生足ですたすたと歩き、とある地を目指していた。
この世界は複数の国がそれぞれ分け合い、または奪い合ってほとんどの土地を治めているが、唯一どこの国にも属さない場所がある。
普通の人間では到底登れない、想像を絶するほどの高山。人々はそこを聖地と呼んでいる。
彼はもしも私に困りごとがあれば頂へ来るようにと言っていた。
放り出された先、名も知らぬ国の国境を跨いで聖地の麓に着くと、休むことなく山へ踏み入る。
神の加護を受ける私は肉体的な疲れを知らない。急な斜面を行き、岩肌をよじ登ってもなお、進み続けた。
「さすが聖地。険しい道のりですね。よいしょ、よいしょっ……と」
さて、一体どれほどの時間が経っただろう。
陽が昇り、沈んで、夜になるのを三度くらいは見た気がする。そしてとある夜更け、私はとうとう開けた場所に出た。
そこに広がっていたのは、夜空の頂点に輝く半月に照らされた幻想的な風景。
一体何年前に建てられたのか知れない、蔦の絡まる古城が堂々と私を待ち構えていた。
「綺麗……」
王城の方が大きいが、こちらの方がずっと美しい。
両開きになった城の門の左側に陽の紋様が、右側には月の紋様が施されている。
それを見た私が迷わず右の紋様に手をかざすと、ギィィと軋んで音を立てながら門が自然に開いた。
城の中はがらんとしているのに、神聖な空気が漂っていて不思議と少しも恐ろしくは思わなかった。むしろかつてないほどに心が安らいで感じるのは、きっと私が『月の聖女』だからだろう。
ひたひたと私の足音が響く。廊下をただひたすらまっすぐ突き進み、中央のホールへ。
ステンドグラスの天井から降り注ぐ月光。それを全身に浴びる。
――その瞬間、彼の声が聞こえてきた。
『待っていたよ、ドロレス。今君の前に姿を現そう』
途端に私の目の前が輝き出し、光の粒が人型を作っていく。
そして光が晴れたあと、立っていたのは一人の青年だった。
神秘的な白髪に輝く銀色の瞳、月の紋様が刻まれた薄黄色の衣装。
まるで夢のように美しい彼の名を、私は知っている。銅像という形で常に見ていたし、月に一度、その声を聞いていたから。
「マーニー……!」
満月の晩にのみ私は月の神マーニーと交信することができた。
彼は私が幼い頃に『月の聖女』として見初めてからというもの、たとえ言葉を交わせなくても力の弱い昼であったとしても、ずっとずっと天から見守ってくれていた。
『君はとても可愛くて見ていて飽きないよ』
『何があっても僕は君の味方だから』
『君を独り占めできないことが寂しいな』
『困ったらいつでも聖地へおいで』
とろけてしまいそうな甘い言葉や、優しい言葉の数々。
両親を亡くした私の心を癒してくれたのもマーニーだった。彼との時間があるからこそ、私は誰に認められずとも追放されるその時まで『月の聖女』を続けていられたのだと思う。
実際にマーニーに会いたいと思ったことはあったが、まさか本当に実体化して現れるなんて想像もしていなかったので驚いた。
けれど不思議はない。
だってここはこの世で天界に最も近い聖地。神の力が高まり、その結果姿を現すことができたのだろう。だから彼は私にここに来るようにと言っていたのだと納得する。
「マーニー、改めてご挨拶いたします。『月の聖女』ドロレスでございます」
「そんなに畏まらなくていい。僕と君の仲だろう? よくここまで来てくれた。こうして直接会い、愛し子である君を愛でられることが僕はとても喜ばしいよ」
彼の柔らかな両腕に優しく抱かれ、耳元に囁かれる。
その声は心地良く、思わず身を預けたくなるほどの安心感に包まれた。
「宵闇色の髪がさらさらしていて綺麗だし、瞳も黒曜石のようで美しい。ずっと間近で見てみたいと思っていたが想像以上だったよ。……こんなに可愛いドロレスを魔女呼ばわりするなんて信じられないな。あの愚かな人間どもめ」
「マーニーが手を下すまでもないでしょう?」
「そうだね。人間ども、少しは痛い目に遭って僕の愛しの聖女を傷つけた報いを受けるがいい」
そう言いながら私の髪を撫でるマーニー。私はそれを受け入れ、彼の掌の感覚を味わっていた。
「もう二度と君を誰にも傷つけさせはしないからね、ドロレス、夜に限らず、月の力が弱まる昼間でも半透明だがこの城に滞在できる。これからたっぷり愛でさせてもらうよ」
「はい、ありがとうございます」
ふわりと頬に落とされる口付け。それだけで顔面から火が出そうなほどに熱っぽくなってしまい、「本当に可愛らしいね」と微笑まれた。
きっと私はすぐにマーニーの虜になるだろう。
だって声を聞いていただけで好きでたまらなかった彼に溺愛されて、幸せな気持ちにならないはずがないのだから――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
屋敷が、いや、王都全体が燃え盛る炎に包まれていた。
使用人は全滅、両親も騒動の中で行方不明。
どうしてこんなことになったのか、わからない。うだるような暑さに耐えかねてワタクシは恥も外聞もなくドレスを脱ぎ捨て、叫んだ。
「どういうことなのよ、ソールー……!?」
暑い季節でもないのに信じられないくらい気温が上昇し、灼熱のせいで王都のあちらこちらで火災が発生している。領地の屋敷は知らないが王都にある別邸は丸焦げになっていた。
どうしてこんなことに。
ワタクシはただ、無能のくせにコーネリアス様の婚約者の座に居座っているあいつ――『月の聖女』ドロレスを蹴落としただけ。
由緒正しきチャーチル公爵家の娘であるワタクシの方が、ドロレスなんかよりずっと王太子妃になるべきなのは当然の結論だ。
ワタクシは誰からも慕われ愛される『陽の聖女』ヘレン。
これくらいのこと、祈りを捧げることで陽の女神の力を借りることができるワタクシならばいくらでもどうにでもできる。そのはずが、陽の女神ソールーは先ほどからずっとケラケラと笑ってばかりだった。
「ぶふっ、楽し過ぎて笑い止まんない。あははっ!」
それはまるで無邪気な子供の笑い声。
ソールーは幼い少女の見た目をしている。直接見たことはなく、いつも聞こえてくるのは声だけだけれど、王城に銅像があったから間違いない。
彼女はいつも明るく可愛らしく、ワタクシの都合のいい存在だった。
ワタクシが軽くおねだりすればどんな奇跡も与えてくれる。今まではそうだったのに。
「何が楽しくて、そんなに笑っているの? どうしてワタクシに力を貸さないの!?」
「きひひ、ワタシのとこの聖女ちゃんて最っ高にお馬鹿さんだよね! そんなのワタシの仕業だからに決まってるじゃん! おっかしーい。あはっ!」
「あなたの仕業……?!」
どういうことだ。陽の女神はこの国を、人々を守る存在のはずだろう。
「ワタシが『月の聖女』ちゃんのこと魔女だって言ったなんて嘘まで吐いて、聖女ちゃんが兄様――月の神マーニーを怒らせちゃったからさ。この国から月の守りは消えて、やっとワタシが好き放題遊べるってわけ!」
ソールーの言葉の意味を呑み込むまでに、しばらく時間がかかった。
確かにあの女をコーネリアス様に断罪させたのはワタクシだ。でもそれでどうして、陽の女神に裏切られなければならないのかが理解不能過ぎる。
どうにかしなくては、ワタクシがどうにかしなくては。
やっとの思いで手に入れた未来の王太子妃の地位。民からの信頼。
今まで着実に築き上げてきたそれらが一転、最悪の場合、陽の女神を暴走させたとして罪に問われるかも知れない――。
ワタクシは馬車に飛び乗って王城へと走らせ、コーネリアス様との合流を図った。
コーネリアス様なら、わかってくれるかも知れない。コーネリアス様はワタクシのことを信じ切っているから。
でも、もう遅かった。
王城はまるで放火されたかのように燃え上がっていた。
それだけではない。王城の周りも一面火の海という、あまりにも絶望的な状況。そんな中で命からがら逃げ出してきたのだろう真っ黒焦げの男が、ワタクシに手を差し出してくる。
「ヘレン……だずげで、ぐれ……」
男の顔は焼き爛れてほとんど見えないが、くぐもったその声にはどこか聞き覚えがあった。
認めたくはない。でも、認めざるを得ない。この国の王太子が全身に火傷を負って死にかけている事実を。
その手に触れるのを躊躇って、彼が力尽きて動かなくなる最期の瞬間までワタクシはただ見ているだけだった。何もできなかった。
ワタクシが王太子妃になることは、もう――。
「にひひっ! 王子様も死んじゃって、かわいそーな聖女ちゃん! ワタシはちょっと遊んでくるから、じゃあねー」
何か言い返す前に、ソールーとの交信がぷつりと途切れる。
それからワタクシが何度呼びかけようが彼女が応えることはなかった。
この分ではきっと、王都だけで炎は収まらないだろう。国中、いや世界中を焼き尽くしてしまう可能性だってあるのだ。
そうなったらワタクシはどうなる。
業火の中で死ぬかあるいは、生き残ったとしても身分は価値を失い、ワタクシはただの女に成り下がってしまうに違いない。それだけは嫌だった。
聖地に行けばどうにかなるだろうか。
常人では辿り着けない、この世で最も神に近い場所。ソールーが言っていた通り月の神マーニーが関係しているならば、そこに向かうしかない。
きっとあの女――『月の聖女』が全ての原因に決まっている。
「ワタクシの未来をぶち壊し、コーネリアス様までも焼き殺した。あいつだけは許さないわ、絶対に」
悔しくてたまらないけれど涙は一滴も流さない。
怒りと殺意だけを胸に、大火災の中で無事だった馬に乗り、一人で聖地を目指した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
長年の妃教育を無駄にされたことはいまだに腹立たしく思うが、コーネリアス殿下たちが私を国外追放してくれたことだけは感謝している。
聖地の古城で過ごすようになってからの毎日があまりにも輝き過ぎていたから。
人々の悪意に晒されることなくひたすらに穏やかだし、熱心に手を合わせて祈る必要もない。それより何よりマーニーが傍にいるだけで私は満たされていた。
昼の光に照らされた半透明で神々しさを放つ姿も素晴らしいし、夜の月光の中で姿を濃くする時もまた魅力的。愛情はまごうことなき恋情へと変わっていった。
神と人の恋。そんなの普通は許されない。
でも月の神と『月の聖女』になら、本来許されざる恋がまかり通るのだ。なぜなら聖女とは神の寵愛を受けた存在であり、聖女もまた神を慕う。
心を通い合わせてもその関係が変わらないのなら無問題。私の寿命が尽きるまでは現世で、死後は来世で共に過ごす。
「どうして私を大切にして下さるのですか?」
気になって一度、聞いてみた。
私の前にも『月の聖女』は大勢いたことは史実にも残っている。月の神と太陽の女神、それぞれに寵愛されし女が聖女となり、陰に陽に国を守護してきたはず。
満月の晩にのみ言葉を交わしていた時は特に疑問に思わなかったけれど、こうして実際に間近で触れ合ううちにマーニーの深い愛を感じ、不思議でならなくなったのだ。
私の問いかけを受け、銀色の瞳を細めたマーニーは、当然のように答える。
「君には不純なところがないだろう。今まで『月の聖女』とした乙女たちは皆、醜い欲望に溺れていた。
権力、名声。そういったものに興味を示さず、ただ一心に僕の声に耳を傾けてくれる君を好ましく思うようになったのは当然のことだったよ」
「――――」
「人が生まれ、国を築き始めた頃からずっと世界を安定させるために『月の聖女』を生み出してきたが、もう君以外を寵愛する気にはなれない。君が最後の『月の聖女』となるだろうね」
私なんかが、こんなにも愛されてしまっていいのだろうか。
子爵家に生まれただけで特別なことなんて何もない。不純なところがないと言われた点も単に、マーニーの優しさに絆されてしまって彼のためにのみ尽くしてきたからというだけのことだった。
ただ、その想いがこうして報われたのだと思えるとなんだか嬉しくて。
思わず笑顔になった――その時のことだった。
それまで柔らかな表情だったマーニーが憂い顔に変わり、ぼそりと呟いた。
「何者が近くに来ている気配がする。それもかなりすごい勢いで」
「近くに……? ですが普通は聖地には至れないはずでは」
マーニーに寵愛されている身であるからこそ、私はこの古城に来れた。私以外に辿り着けるなんて――。
「そうだ。つまり、普通の相手ではないということだよ。考えられる可能性は一つ。――ああ、来たね」
マーニーの言葉とほぼ同時、ギィィと、私が古城を来訪した時と同じ門の開閉音が聞こえてくる。
そして遠くから響く、すたすたという足音。侵入者はこちらへ近づいてきて、私とマーニーの憩いの場である中央ホールへとその身を晒した。
「やはりここにいたのね。良かったわ、当てが外れていなくて」
「――ぁ」
そうだった。この古城での時間が幸せ過ぎて忘れかけていた彼女の存在を思い出し、小さく声を上げる。
見るに耐えないボロボロの身なりではあったが、煌めく金髪と碧眼が私の知る人物のそれと一致していた。
ヘレン・チャーチル公爵令嬢。『陽の聖女』であったはずの彼女がどうしてここに来たのか――彼女の怒りに燃え上がる瞳を見れば、言われなくてもわかった。
ヘレン様の胸元から鮮やかな宝剣が抜き出される。それは、高位貴族の令嬢なら誰しも持っている護身用のものだった。
「僕の寵愛する聖女を傷つけようというのか」
視線を鋭くし、私を庇うようにして前に立つマーニー。
今はまだ昼下がり。彼の体はうっすら透けていて、完全に実体化しきれている状態ではない。神であるからして本気を出せば人間など一捻りなのに、なんとも間が悪いと私は唇を噛み締める。
「あなたが『月の神』マーニーね。そんな輝くような見た目をして、ずいぶん醜悪なことをしでかしてくれたじゃない」
「僕は何もしていない。当然ドロレスもだ」
「あなたたちがいなくなった途端異変が起こったんだもの、因果関係は明白でしょう!
王都は一面の焼け野原、コーネリアス様は亡くなって、陽の女神ソールーは暴走! 呪いでもかけたのかしら。まさか本当に魔女だったとはね」
王都一面焼け野原。
それを聞いて、しかし私は少しも驚かなかった。
月の神マーニーと陽の女神ソールーの二柱は兄妹。
ソールーは大地に光と恵みをもたらす一方で非常にいたずら好きな性格をしており、放っておくとすぐに暴走してしまうのだとマーニーに聞かされていたからだ。
今までは『月の聖女』の私を通じてマーニーの力で抑えていたので均衡を保っていたが、それが失われれば力が傾き、惨状が生まれるのは目に見えていた。
「だからあの婚約破棄の時、申し上げたのです。『本当によろしいのですか』と。それに私は魔女などではありません。ですからその剣を――」
「収めろとでも? ワタクシ、あんたを殺すためにここまで来たのよ。言い訳したって、聞いてやるもんですか」
コーネリアス様と寄り添い、か弱く優しい乙女のように振る舞っていたのと同一人物とは思えないギラついた目で私を射抜く。
彼女が短剣を片手に私へ突っ込んできたのと、マーニーが手に神力――月の神特有の輝きを彼女へぶつけたのは、一体どちらが早かったか。
そのまま二人はぶつかる――はずだった。
『ねえねえワタシの聖女ちゃん、兄様に一体何してくれてるの?』
明るく無邪気で、しかし背筋がゾッとするほど恐ろしい声が降り注ぎ、二人の間に乱入者が現れることがなかったなら。
「初めましての人は初めまして、兄様には久しぶりと言っておこうかな! ワタシは皆さんご存知ソールーちゃんでーす!」
――朝陽のような朱色の髪を揺らす幼い少女が出現したのは、あまりにも突然のことだった。
キラキラと輝く赤い瞳はイタズラっぽい光を宿し、その場にいた全員を見回してから「みんな殺気立ってるねぇ」とくすくす笑い出す。
私は慌てて彼女に問うた。
「あ、あなたが陽の女神様なのですか?」
「そうだよー? 兄様と違ってワタシ、神秘的な表れ方とかしないけど、この場所で実体化できるのは兄様だけじゃないから! ……そうそう、それよりさ」
ソールーがヘレン様を振り返った。
「せっかく火遊びを楽しんでたのにその間になんで兄様に喧嘩売ってるわけ、お馬鹿さんで可愛いワタシの聖女ちゃん? もしかして神殺しなんてこと、許されると思ってるのかな?」
「ソールー、あなたこそどうしてっ」
「ワタシが人間の国を焼くのはただのお遊び。王国一つくらいぶっ潰しちゃっても、何の問題もないでしょ? でも神殺しと、聖女殺しとなれば話は別ってもんだよ。陽の女神として黙認できない。だから今から火炙りの刑に処すね!」
「え――」
先ほどまでヘレン様が立っていた場所がたちまち燃え出し、天井まで高く立ち上る。瞬きの間に起きたその出来事に私は絶句するしかない。
しばらく呻くような、泣き叫ぶような声が響いたがそれはすぐに収まり、やがて炎も消えて、あとに残るは灰ばかり。
『陽の聖女』が一瞬にして陽の女神に焼き殺された。その現場は言葉で言い表せないほど、とんでもないものだった。
「出てきたのか、ソールー。相変わらず乱暴なやり方だが助かったよ」
「まだ陽が高いのに兄様がワタシの聖女ちゃんに向かって行った時はヒヤヒヤしたよー。あの聖女ちゃん、いい具合にお馬鹿で自尊心が強くて、なかなか有用な道化だったんけど代わりは他にもいるし、サクッと処分しちゃった!」
一人の人間が灰に変えられたばかりだというのに、平然として話せるところはさすが神なんだなと思う。
ヘレン様の言葉を聞いた限りではコーネリアス殿下もすでに亡き人となっているから、これぞまさに因果応報というやつなのかも知れないけれど。
突然の襲撃、唐突な陽の女神の登場、ヘレン様の死。怒涛の勢いで繰り広げられたそれらの出来事を受け入れた途端、緊張が緩んだのか地面に座り込んでしまった。
「大丈夫かい、ドロレス。怖かったろう」
「……いいえ、マーニーが庇ってくれましたから。マーニーこそ無事ですか」
「なんともないとも。本当は僕の手で懲らしめたかったところだけど、ドロレスが大丈夫ならそれだけでいい」
柔らかな微笑みを向けられて胸の鼓動がどくんと跳ねる。
――ああ、この人は、いやこの神はなんて優しいんだろう。
本当ならこのまま抱き合ってしまいたいが、まだ夜ではないので彼には触れられないし、ホールに二人きりというわけでもないのでできない。
しばらく私とマーニーを退屈そうに眺めていたソールーだったが、やがてすくっと立ち上がって。
「もぅ、ワタシの前でイチャイチャしちゃってつまんないのー。そろそろ遊びにも飽きたしワタシは後片付けしてこようっと!」
楽しげに声を弾ませた直後、彼女はまるで最初からそこに存在していなかったかのように消失していた。
ヘレン様を聖女に選んだ時点でまともな神ではないだろうとわかっていたが、あれは癖が強過ぎる。『月の聖女』で本当に良かったと、心から思った。
「マーニー、好きです」
「嬉しいな。君の方からそう言ってくれるなんて。これで両想いだね」
陽が傾きはじめた空は徐々に黄昏色に染まり、刻一刻と夜が近づいてくる。ほんの少し頭を見せ始めた月は綺麗な円の形をしていて、そういえば今夜は満月だったと思い出す。
「今日は二人きりの時間を邪魔されたんだ、夜はたっぷり愛でさせてもらうけど、いいかい?」
「もちろんですよ」
満月の夜のマーニーは最も力が強い。いつもにも増して甘く幸せな一夜になりそうだ。
柔らかな月の光が降り注ぎ始める。
それに照らされたマーニーは徐々に実体を濃くしていき、私は強く抱きしめられた――。
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