隣国から愛をこめて
ーー今回の君の任務は、隣国スケラスの公爵令嬢、ベローチェという少女の体面を救済することだーー
ブリーフィングが思い出される。無意識に耳元に触れようとする手を押さえながら、彼はダンスホールの人波を優雅に捌いていた。代わりに胸元のタイを正す。
ーー体面を救済するとは、おかしな言い方じゃないか。
ーーああ。スケラスは我が国と同盟関係にある。大切な隣人、というわけだな。
ーー一筋縄じゃなかったろう。ついこの間だって、国境沿いでにらみ合いをしたはずだ。
ーーその通り。
グラスを取り上げて、軽く一杯。パーティに潜入する工作員の特権だ。誰かを殺さなくて良いなら、気が楽だ。こちらに視線を向けてくるドレスの美女に、空になったグラスを傾ける。
ーースケラス王家は、歴史的に様々な国との政略結婚を繰り返してきた。現在王子の地位にある彼に流れる血は、そのほとんどが外国人だ、という反発の声さえある。我々は、そんな彼がベローチェとの婚約を破棄しようとしているという情報をつかんだ。
ーー若い連中の恋愛沙汰に首を突っ込むとは、無粋じゃないのか?
ーー国のトップの恋愛は、やけぼっくいでは片付けられんよ。王子は日頃から、自分に反発している貴族に対する反抗心も兼ねてか、右派の先頭とも言える家の、彼女を拒絶することで、貴族たちの手綱をとるつもりらしい。とはいえ、他の少女に心変わりしているから、というのもあるだろうが……。
ーー王子にとっての悪役令嬢か……だが、他に片想いする少女には、第三国の影がある、と?
ーーそうだ。あくまでも疑いに過ぎないがね。
似顔絵で見るよりも美人だった。ベローチェはまったく減らないグラスを抱くようにして、壁際に立っている。その姿は、初めての留守番に大いに奮起し、親が帰ってくるのを待っているような健気さがあった。
顎を撫でる。王子を見つけるのは容易かった。婚約者に負けず劣らずの甘いマスクで周囲に華を振りまいているが、その腕のなかには件の「ハニートラップ」が納まっている。
ーー改めて言おう。今回、君には婚約破棄を言い渡されるであろう令嬢、ベローチェの体面を守ってもらいたい。婚約破棄を阻止することではない。当事者の殺害などの暴力行為による介入は禁止だ。また、この任務は非公式に行われる。
ーーつまり「当局は一切関知しない」ってやつか?
ーー匂わせてもいかんということだ。令嬢へ差しのべる手は、あくまでも好意によるものでなければならない。
言い終えて、彼は少しとぼけた口調で言った。
ーーとはいえ、その辺の心配はないだろう。彼女は聡明な人間だ。打算抜きに好きになれる、尊敬できる少女だよ。
「失礼、隣、よろしいですか?」
ベローチェはパッと顔をあげた。少女と同じように、より露骨に壁に背を預けつつ、彼は口火を切った。
「なかなか素敵なパーティだ」
「王家が主催するパーティですもの。当然、国家の威信をかけたものとなるでしょう」
「誕生日パーティだとしても?」
言葉の端に皮肉を感じ取ったのか、ベローチェは大きく体を動かして、向き直った。
「ええ。誕生日パーティだとしても、です」
「僕も誕生日は、盛大に祝ってもらいたいな。喜んでくれる人がいれば、だけど」
「あら?ここにいらっしゃる人たちは、座っているだけでも皆さん喜んでくださると思いますわ。誰の誕生日だとしても」
言ってから、少女はわずかに眉間にシワを寄せた。
「ただ……貴方はどちらからいらしたんですか?」
「古い友達に内緒で招待されたんです。ここのところずっと、外国暮らしだったから」
「それは素敵ですね。ええと……」
グラスを掲げるようにして、言葉に詰まる彼女に、さっきの女性にやったように、グラスを傾けて、軽くぶつける。
「スミスです。クリストフ・スミス」
「スケラスへようこそ、スミスさん」
グラスを口に含むと、つられたように少女もグラスを傾ける。硬い表情が少しだけほぐれた。
会場の照明が切り替えられる。灯りが一ヶ所、宮廷からの入り口に向けられる。重々しい足取りで現れた国王がさっと手を上げると、来賓が拍手で迎えた。
既に会場にいた王子が、脇から現れて父王の隣に立った。皺が刻まれた厚い手が、どっしりと王子の肩に載せられる。再び拍手に包まれた。
「この国の顔として振る舞う上で、これほど温かに迎えてもらえることを嬉しく思う。これからも、国家のために共に手をとりあって、一層励んでほしい」
国王から、主賓へ。会場の注目を集めた王子が、いかにも場馴れした様子で、滑らかに切り出す。
「誕生日をこれほどの面々に祝ってもらえる人間が、他にいるだろうか。その喜びを噛み締めながら、次の世代の先頭に立ちたいと思う」
言葉を切ると、彼がまとっていた空気が少しだけ変わった。
「……そして、この祝いの席上で、私は新たな門出にふさわしい、未来の伴侶について語りたいと思う。私と共に未来を紡いでくれる少女。それが、こちらに立っている」
会場が一瞬、どよめきに包まれる。その声も、王子の指示に合わせて向けられた照明に困惑のものに変わった。隣の少女が、ぎゅっと拳を握ったのがわかった。
あくまで内定と言えど、誰が隣にふさわしいのかはおおよそ見当がつく。そこへ無名の少女を紹介されて、なにがなんだか、といった調子だった。
一部は王子の振る舞いから察していたらしいが、所詮は遊びと思っていたのかもしれない。大したサプライズだ、と冷ややかに受け止める。
まだ暗いうちに、失礼、と小さな声と共に、ベローチェが会場を後にする。受け取ったグラスを近くのテーブルに預けて、後を追う。
近くにバルコニーがあった。その手すりに腰を下ろした少女は、ぶらりぶらりと足を投げ出していた。タイをほどき、彼女と向かい合う。
「あれだったら、真正面からフラれた方が良かったわ」
顔の表面が小刻みに震え、やがて、鼻を啜り上げる。顔を触って、涙が流れていないか確かめていた。どうしたものか、スミスはつかず離れずの距離を維持したまま、無言でそばに立っていた。
「腫れ物に触るような感じで……」
「殿下のことを、愛していた?」
「政略結婚だからと言って、嫌いにならねばならない道理はないはずです」
「確かに、道理だ」
持て余す手をポケットに突っ込んで、考える。たった二言三言言葉を交わしただけだが、彼女の人となりはよくわかった。可能ならば、母国に渡ってきてほしいとすら思う。人柄も矜持も、文句のつけようがない。
――君の今回の任務は――
こちらに来る前のブリーフィングが思い出される。彼は少しだけ眉をしかめた。
「あの、まだ何か?」
「実のところ、我が国に来てほしい、と声を掛けようか悩んでいました」
このようにして、自分の正体を明かすのは無謀なことだった。自分がどういうことをしているのか、その重みさえ測り取れないまま、感情の赴くままに言葉を紡ぎ出す。
「しかし、あなたはこの国と、そこに連なる王家を愛していらっしゃる。婚約破棄をされたからといって、それが揺らぎもしない誇り高さに、私は打ちのめされました。それに……例え、私がどれだけの打算抜きであなたを口説いたとしても、あなたの誠実さを知らぬ人間は、私があなたを救ってやるために求婚した、という風に受け取るかもしれない。そのような情の寄せられ方は、あなたには似合わない」
ハンカチーフを取り出して、手をすっぽりと覆う。取りのけると、一輪の花が残る。
「お元気で」
その花を彼女に預けて、踵を返した。
――体面を救済することだ。
「何が救済だ」
その必要さえないじゃないか。
会場に戻ると、ちょうど王子が貴族らしい婉曲な表現で、今回の婚約について語っているところだった。その隣にはすました顔の現婚約者がいる。脇目に通り過ぎようとしていたが、やがて立ち止まると、彼は王子目掛けて突き進んだ。
「君は。来てくれてたんだ」
「やあ久しぶり。旧交を温めたいところだが、忙しそうだ。一言だけ」
言うなりスミスは、王子の胸倉を掴んだ。深呼吸して、一息に吐き出す。
「誰を好きになろうが知らんが、あの高潔なベローチェをこれ以上傷つけたら、そこのお前とあのおいぼれのねぐらに俺が大砲をぶち込んで畑にしてやる」
「ちょっと! アンタ殿下になんてことを――!」
「黙ってろ女スパイ。精々頑張ってこのバカをたぶらかせ。……失礼」
突き飛ばすようにして王子を引き剥がすと、彼は速足で会場を後にした。会場の出口に投げ捨てられた蝶ネクタイには、隣国の王家の紋様が刻まれていた。