人魚の雫
あれは十歳にも満たない頃のことだった。
お盆休みということで、私は両親と共に父方の祖父母の家へと泊りがけで遊びに行った。
祖父母の家は海が近く、時折り家の中まで入ってくる潮風に蒸し暑さを感じながらも、普段暮らしている街では感じられない田舎の解放感を毎年この時ばかりはと満喫していたのだった。
ある日のこと、ただぼんやりと海が見たくなって一人で散歩へと出掛けた。
もう泳ぐ人のいない海は昼間だというのになんだか寂し気で、ザザァザザァという波の音がまるで海の泣き声のように感じられたのを覚えている。
「明日になったらまた家に帰るのね……」
そんなことを思いながら砂浜に腰を下ろすと、視線が下がったからか波打ち際にキラリと光る物を見付けた。
私は何があるのだろうかと好奇心からそこへと向かい、拾い上げてみることにした。
「ぅ~ん。真珠……かな?」
拾い上げたそれは多少デコボコはしていたが丸に近い形をしており、光沢のある白っぽい色をしていた。
まだ本物を見たことのない私には、それだけで真珠なんだと思えたのだった。
私はなんだか嬉しくなり、その発見した宝物をポケットにしまってから祖父母の家へと帰った。
夕食時にもソワソワと落ち着かず、何度もポケットの上から触って確認していたのを母は不思議そうに見ていた。
翌日、ハンカチに大事に包んでいた拾った真珠をまたポケットへとしまって帰宅した。
家へと帰ってから私はすぐ自室に向かい、机の上へハンカチに鎮座させた状態の真珠を置いて一人ニマニマとしていた。
「は~ぁ……キレイだな~」
ウットリとして思わず漏れる溜め息に、私は真珠に心を奪われているのを感じていた。
それが何分、何十分、一時間以上は経ったであろう頃に私を呼ぶ声が聞こえる。
「しおり~。夕ご飯の時間よ~」
母のその声に私はハッと我に返り、急いで「はーい!」と返事をしながら慌てて真珠を誰にも見つからない場所へとしまおうとした。
「どこ――。どこが良い――」
私は部屋中にあるあちこちの引き出しを開け、ちょうど良い隠し場所を探して右往左往。
この秘密の宝物を隠さなきゃという思いから少し時間がかかってしまい、なかなか食卓の方に来ない私を再度呼ぶ声が聞こえてくる。
「しおり~? 何してるの~? 早く来なさ~い」
「は、は~い! 今行く~!」
母の声に更に慌ててしまった私は床に放り投げていたカバンにつまづき、転んだ拍子に手に持っていた真珠は空を飛んだ。
手から放たれた真珠は弧を描き、ワッと驚いて見上げた私の口の中へとそのまま吸い込まれるようにしてポトリと落ちる。
無意識のうち、私は反射的に真珠をゴクリと呑み込んでしまった。
「――えっ!?」
私は目を点にして身を強張らせ、困惑した。
その時の私はまだ幼く、母に怒られるから吐き出さなきゃという思いしかなかったのだ。
「ど、どうしよう……」
「もうっ! なにしてるの?」
そこへ痺れを切らした母がガチャリと扉を開けて私を呼びに来た。
「ごめん!」
私は慌てた素振りを必死に隠し、母の後ろについて食卓へと向かった。
美味しそうな湯気のたつ夕飯を目の前にしても私はいつものようにすぐ手を伸ばすことができず、ただジッと料理を見つめていた。
だが夕飯を食べなきゃ怪しまれ、きっと父にだって怒られるだろうと二~三秒後にはもう諦めて箸を掴んだ。
「い、いただきま~す!」
極めて明るく振る舞い、少し緊張しながらも口に入れた料理をゴクリと吞み込んだ。
母の料理はいつだって美味しく、今日だって美味しいはずなのに味がしない――。
それにお腹が膨れていく感覚も今日ばかりは感じられず、そこそこ口にした辺りで私は手を合わせることにした。
「ごちそうさまでした」
「あら? 今日はあまり食べないのね」
「……疲れたのかな?」
「そう……。体調が悪いわけではないのよね?」
「うん。大丈夫だよ」
私はそれ以上の会話をするのが怖くなり、サッサと自室へと戻った。
心臓はバクバクと速く動き、胸のあたりが苦しい。
夕飯を食べたことで、あの真珠はもう上からは取り出せない。
下から自然と出てくるのを待つしかないと私は神様に祈った。
翌朝の寝起き早々、熟睡のできなかった私は暗い顔をして深い溜め息を吐いた。
こんな思いを何日続けるのだろう――。
そんなことを考えていると、異常な程に強烈な喉の渇きを感じた。
私はバタバタと急いで台所へと行き、コップを手に取って冷蔵庫の中から麦茶を出した。
落ち着いた頃には、ほぼ満タンに入っていた麦茶のボトルは空になっていた。
「なんなの……?」
自分でも分からないそのおかしな状態に身震いがした。
ちょうど洗濯物を干していた母にはそれを見られなかったことは幸いであったが……。
私はまるで犯罪の証拠でも隠すかの如く、麦茶ボトルに先程と同じく満タンになるまで水道水を入れて冷蔵庫へとしまった。
その翌日も翌日も……。
私は朝目覚める度に異常な程の喉の渇きを覚えた。
三日も過ぎる頃には麦茶では足らなくなり、五日目には水しか体が受け付けなくなった。
その頃には食事も肉類は口にすると吐き気をもよおし、もっぱら野菜や魚を口にしていた。
「夏バテかしらね~?」
「……かな~」
そんな調子で誤魔化していたので母に深くは追及されなかった。
とはいえ、私だけは夏バテなんかのせいではないことは分かっていた。
あの真珠の呪い――。
おぼろ気ながらにそう考えていた。
そうして一週間が経った頃、私は何故だか分からず悲しくなっていた。
「海へ行きたい――」
何度もそう呟いていた。
なぜだかたまらなく海が恋しくなり『帰りたい』とさえ思うように。
だが「この前行ったばかりでしょ」と母に怒られて何度も希望ははねのけられ――。
そんなこんなで繰り返していると、三日後にはまるで駄々っ子のように手が付けられない状態に私はなっていた。
傍若無人に振舞い、ワガママに「海へ、海へ」とそれしか言わなくなった。
そんな異常な私の状態に病院に連れて行かれもしたが何も分からず、とうとう母は困り果ててしまったのだ。
それならと母はもう他に手はないと悟ったのか、夏休みも終わろうかとする頃に遂に私を再びあの海へと再会させてくれた。
「あぁ――――」
私は眼前に広がる海の青さに目を細め、ポロリと涙を溢す。
涙は頬を伝い、地面へと落ちる頃には1粒の真珠となってコロンと転がった。
「会いたかった――」
私はそう呟いてサンダルを脱ぎ捨て、海へと向かって一目散に走り出した。
「えっ? しおり――!!」
私にはもう海への恋しさしか胸の中には無く、再会の喜びしか頭の中には存在しなかった。
ザブンと海へと飛び込み、母の方へと一度振り返る。
「ありがとう!」
私は人生で一番ともいえる笑顔を向けていた。
けれどもそこに母への愛着はなく、すぐに海の方へと向き直って奥へ奥へとズンズンと進んでいく。
奥へと進むほどに体は軽くなり、手足はまるで魚のように変わってユラユラと泳ぐことができる様になっていたのだった。
そうして私が海の中へと消えた後、母の手には今もあの真珠が遺されているのだろう……。