第三話 あずささん事件
五月晴れの空にスタートの号砲が響いた。
「いけ──────! あずささん!」
わたしはスタンドから声を限りに張り上げる。
高校総体県大会、女子百メートル走決勝。
白いランニングに赤いショートパンツのあずささんが駆ける。
腕を振って、
トラックを蹴って、
十数秒にすべてを賭けて、
あずささんが風になる──
「こーさーめーちゃん!」
放課後、さて帰ろうかと廊下に出たわたしに声をかけてきたのは、二年生の鳴海あずさ先輩だった。
高校に入学したばかりのわたしは、まだ顔見知りの先輩が少ない。あずさ先輩はその貴重なおひとりだ。
「先輩、こんにちは」
「はい、こんにちは。小雨ちゃん部活決めた?」
「いえ。まだ決めてません。というか……」
「というか?」
「たぶん帰宅部かと」
オウ! とあずさ先輩がアメリカ人みたいにうめいて天を仰いだ。
「小雨ちゃん。それ、青春の無駄遣いだよ」
「先輩……恥ずかしいせりふです、それ」
「じゃあさ、」
「無理です」
「……、まだ何も言ってないよ?」
「陸上部に勧誘するつもりならお断りします。わたし、お姉ちゃんと違って運動苦手なので」
わたしの実のお姉ちゃん山城五月は、ここ蒼波高校で体育の教師をやっている。でもわたしは、五月お姉ちゃんに運動神経を全部もっていかれちゃったみたいなウンチだ。
あずさ先輩は陸上部のエースで、三年生を差し置いて女子短距離走の代表選手なのだそうだ。
「ぶっ、ぶ────」
「?」
「はずれ。陸上部に誘ったりなんかしないよ? はずれはずれ」
──先輩、ずいぶんと悔しそうな顔してますが?
「じゃあ、なんですか?」
「……」
考えてる。どんだけ負けず嫌いなんですか。
「うん。そうだ! 生徒会よ。小雨ちゃん生徒会のお手伝いをしなよ」
「そうだって言いましたよね? いま考えましたね?」
「なにを言っているのかな? ほらほら今から生徒会室にいくよ」
あずさ先輩は生徒会の書記もやっている。さらにいえば、五月お姉ちゃんが生徒会の副顧問だったりするのだが──
「生徒会なんて、陸上部より柄じゃないですよ──」
「そんなことないって。ほら、きりきり歩く!」
入学したての非力な一年生に、あらがうすべなんてなかった。
「あら、鳴海さん」
あずさ先輩とならんで生徒会室へ向かう途中、突然声をかけられた。リボンの色を見るに三年生だろう。
「こんなところでなにしているの? あなた代表選手なんだから早く練習に出なさい。それともなに? 余裕ってこと?」
うあ──、いまどき少女マンガでもこんなキャラいないかも。
「砺波先輩。すぐにいきます。それに余裕なんてありません」
あずさ先輩はいたって平静に答えた。
「まったく。自覚を持ってもらいたいわよね。一年生部員もたくさんはいるんだから」
「あ、あの」たまらずわたしは声を上げた。「わたしがあず……鳴海先輩に道案内を頼んだので……」
にらまれた。
こわっ。
「なに? あなた」
「一年E組の山城小雨です」
「山城? あなたなの? 山城先生の妹って」
「はあ」
いじめっこキャラ──砺波先輩は、わたしをジロジロとなめるように見た。
「鈍くさそう」
「……恐れ入ります」
「ははん、わかったわ」
「?」
砺波先輩が鬼の首でもとったような顔であずさ先輩をにらみつける。
「山城先生につけいるつもりね?」
「はあ?」声を上げてしまったのはわたしだった。「なんですかそれ? 先輩……ちょっとおかしいんじゃないですか?」
砺波先輩の顔色が変わる。
と、こつんとわたしの後頭部が軽くたたかれた。あずさ先輩だった。
「小雨ちゃん、先輩にあやまりなさい。いくら何でも言い過ぎ」
「う……」
あずさ先輩の言葉は静かで、わたしはすーっと気持ちが落ち着いた。砺波先輩に向き直り、ごめんなさいと頭を下げる。
「この子を案内したら部活出ますので。いくよ、小雨ちゃん」
砺波先輩の返事を待たずにあずさ先輩はわたしの手を引いた。
背後で、ちょっと口に出したくないような罵声が聞こえた。
「ごめんね、小雨ちゃん」
砺波先輩がみえなくなってから、あずさ先輩はわたしの頭をなでた。
「それから、ありがとう」
「?」
「わたしのために怒ってくれたんだよね? うれしかった」
あずさ先輩はにっこり笑った。
「なんなんですか、あのひと。少女マンガのいじわるな先輩そのままじゃないですか」
「そうよ、そのまんま。でも気にすることないわ。山城先生のことがあるから、小雨ちゃんが絡まれることはないわよ」
「でも先輩が! 代表選手の座を奪われたからって……」
「小雨ちゃん。話をつくっちゃだめ。いろいろあるのよ」
そういってあずさ先輩はひと息ついた。そして、さっきのハイテンションを取り戻す。
「ま、邪魔が入ったけどたどりつきました! さあ、めくるめく生徒会室へようこそ!」
先輩。めくるめくって──
なんだかんだといって、わたしは生徒会室に入り浸るようになってしまった。五月お姉ちゃんもいたし、あずさ先輩や他の先輩たちもかわいがってくれる。
そんなこんなで半月ほど過ぎた頃、生徒会長のお使いで昼休みに三年生の教室を訪問した。
一年生のわたしには、三年生の教室は敷居が高い。
「あ、あの──」
わたしは三年C組の入り口付近で小さく自己主張してみる。
「ん? なあに?」
入り口付近にいた女子の先輩がわたしに気づいてくれた。
「えっと、生徒会長のお使いです。クラス委員のひとにお届け物なんですが」
「ご苦労様。ちょっとまってね」
そうして呼ばれてきたのは、例の砺波先輩だった。
「あら、あなたこの前の」
「こんにちは。生徒会長からお届け物です」
わたしは封筒を差し出す。中身はよく知らない。
砺波先輩は受け取ると中を確認した。それから礼も言わずに背を向ける。
わたしはちょっと腰が引けつつもお辞儀をして、きびすを返そうとした。
そのとき──
「和子、その一年生知り合いなの? かわいいわねえ」
「山城先生の妹よ」
「え? そうなの?」
うっ──帰るタイミングを逃した。
わらわらと三年生のお姉さまがたが集まってくる。
ちょっと、あの──どうしたらいいの?
やいのやいのと浴びせられる質問にしどろもどろで答えていると、いつのまにか砺波先輩も輪に加わっていた。
「あなた、鳴海を手伝っているのね?」
「鳴海って?」と彼女のクラスメイトが訊く。
「ほら、陸上部のエースの鳴海あずさよ。彼女、まっさきに山城先生の妹に手をつけたのよ」
きゃ──、という黄色い歓声。
ちょっと──いくらなんでもその言い方は──
「まったく。彼女の政治力には負けるわ」
その言葉の裏には、実力もないのに、という言葉が見え隠れしている。いや、隠してないか。
「まったく も、どこがいいんだか」
一部聞き取れなかった。
でも、
「先輩……なんなんですか?」
「え?」
「なんであずさ先輩にそんなこと言うんですか?」
砺波先輩がわたしをにらんだ。反論がくるとは思わなかったのだろう。
「なに? 文句があるの? なまいきね。山城先生の妹だからって言っていいことと悪いことがあるわよ」
「なら、先輩だからって言っていいことと悪いことがあります」
砺波先輩がぐっと口をひきむすんだ。
本気で怒っている?
でも、わたしだって本気で怒ってるんだ。
「先輩風吹かせていびるんじゃなくて、正々堂々と勝負したらどうですか!」
「なんですって!」
砺波先輩の右手が高く挙がった。
なぐられるのか──そう思ったとき──
「そこまで!」
鋭い声が空気を切り裂いた。
「はい、そこまで。喧嘩はみっともないからやめなさい」
「湯由子先輩?」
声の主は生徒会副会長の鈴木湯由子先輩だった。
「なんだか騒がしいと思ってきてみたらなに? 砺波さん、一年生にむかってなにやってるの?」
「いや、ちょっと口論になっただけ。本気で喧嘩なんてしないわよ」
「そう? じゃあ、この子はもういいわね」
湯由子先輩がわたしの肩を押す。
いつの間にかできていた三年生の人垣が割れて、わたしは湯由子先輩に連れられてその場を離れた。
人垣が見えなくなるところまで歩いて、わたしの目から涙があふれた。恐かったのもあるけど、それよりなにより、あずさ先輩をあそこまであしざまに言われたことが悔しかった。
「砺波さんにも困ったね」と湯由子先輩が言う。
「なんで正々堂々と実力で勝負しようとしないんですか?」
「ん? ああ、そうか。小雨ちゃんは事情を知らないんだっけ」
「?」
「あれはね、代表選手になれなかったから怒っているわけじゃないのよ」
「じゃあ、なんなんですか?」
「男よ、お・と・こ」
その日の放課後、わたしは湯由子先輩を交えてあずさ先輩から事情を聞いた。
「わたしにはひとつ上の幼なじみがいるのよ」とあずさ先輩。
そのひとは、いま陸上部の部長をやっているそうだ。名前は中矢尚さん。
「わたしが入学する前には、砺波先輩とタカくん、仲よかったみたいなの。……はっきりいって、タカくんとは幼なじみ以上のことはなにもないわ。代表選手のことだって、タイムを計って決めたんだから、彼の恣意が入る余地なんてないわ」
「さらに言えばね、」と湯由子先輩。「二年生以降、中矢君が砺波さんに冷たくなったなんてこともないわ。わたしにはそう見える」
じゃあ、なんで──
「そう理屈で割り切れないのが恋心ね」
湯由子先輩の言葉にあずさ先輩がため息をついた。
「砺波先輩もきっとわかっているはずよ。言いがかりだって。わたしもね、気分がいいものじゃないけど、まあなんとかスルーしていたんだけど……」
なるほど。
わたし、思いっきり青臭くつっぱっちゃったんだ。
「でも、砺波先輩のありかたを認めたわけじゃない。ひとにあたるのってエネルギーいるのよね。わたしはそんな無駄はしないで、エネルギーの全部を部活や生徒会につぎ込もうって思った。好きなひとができたらそこにも一直線よ。そうして、わたしがそうしていれば、砺波先輩も無駄に気づいてくれるかなって」
あずさ先輩──
「でもさ、小雨ちゃんがわたしのために怒ってくれたでしょ? あれみてちょっと考えが変わった」
「?」
「わたし負けず嫌いのつもりだった」
知ってます。
「でもね、自分に都合のいい負けず嫌いだったかなって」
「……」
あずさ先輩の言っていることは半分ぐらいしか理解できていないような気がする。でも、わたし誉められてるのかな?
「そうだね。あずさは負けず嫌いのくせにことなかれ主義のところがあるね」
湯由子先輩の言葉にあずさ先輩がうなずく。なんだがちょっとふっきれたような顔をしている。
「小雨ちゃんのお陰かな。ねえ、いまからわたしのことはあずさって呼んでちょうだい」
「え? なんでですか?」
「小雨ちゃん、わたしのために怒ってくれたし、大切なことを気づかせてもくれた……もう、先輩後輩の枠を取り払って大切なひとになったんだから」
うあ──、真顔でそんなことをいっちゃうあずさ先輩はちょっと恥ずかしいです。
でも、
なんかちょっと、
青春って感じ?
わたしはがんばって先輩の期待に応えることにした。
「ええと、あずさ……さん」
ゴール前は接戦だった。
あずささんを含めた三人がほぼ横一線でゴールに飛び込んだ。
一瞬の静寂。
そして電光掲示板に順位が──
「あー、三着か」
湯由子先輩がわたしのとなりで悔しそうに地団太をふんだ。
タイムは百分の一秒単位の僅差。でも、三位では県代表にはなれないだろう。
それでも、あずささんは晴れやかな顔をしていた。
スタンドの一角では、陸上部の応援団のなかで砺波先輩がトラックを見つめている。
悔しそうなその表情──当然自分が出たかったのだろうけど、それだけではないような気がしないでもない。
わたしと砺波先輩のもんちゃく以降、あずささんと砺波先輩のあいだになにがあったか、もしくはなにもなかったのか、それはいまはわからない。
そんなに簡単に解消されるわだかまりではないだろうし、ひとはそうは変われないと思う。
でも、あずささん風に言うなれば、青春を無駄使いしたくなかったらとまってはいられないのだ。それは砺波先輩にだってあてはまることだ。
五月晴れの空と、あずささんの汗がまぶしい。
わたしも──
なにか打ち込めるものを探したいなと思った。
《あずささん事件 了》