第十話 五月先生お見合い事件
『二十四歳 五月先生 お見合い!? エックスデーは文化の日?』
蒼波高校新聞部は、体育教師の山城五月先生(24)がお見合いを予定しているという情報を入手した。情報筋によるとお相手は30代前半の一般男性。日取りは11月上旬とのことで、文化の日が最有力候補と新聞部ではみている。蒼波高校での五月先生の人気は非常に高く、今回のお見合いが実行されれば、心穏やかではいられないむきも多いのではないかと思われる。五月先生ラブを隠さない一年生のH君は「信じられません。本当だとしたら、僕の高校生活はどうなってしまうのでしょう」と語っている。また、五月先生の妹さんである一年生のK嬢は「お姉ちゃんには幸せになって欲しいと思います。応援しています」と語った。新聞部では続報が入り次第お知らせすることにしたい。(N)
「……まあ、なんだ。まだ文化祭気分が抜けていないのかもしれないが、あんまり浮ついたことをするなよ。いいな」
生徒指導の香坂先生がそう言って、新聞部一同を見渡した。
新聞部部長の楢島さん以下3名は神妙な顔をして「はい」と答える。
「まあ、こいつらも反省しているようだし、こんなもんでいいですかね、山城先生」
香坂先生の言葉に、山城五月先生――私の実のお姉ちゃん――は頷いた。
パンッ、と香坂先生がひとつ手を叩く。生徒指導室の中の重苦しい空気がそれでほぐれた。
「んじゃ、解散」
まっさきに新聞部の3人が席を立ち、失礼しますと言って部屋を出て行った。続いて香坂先生も席を外す。後に残ったのは私と、五月お姉ちゃんのふたりだけだ。
「お姉ちゃん、あんなに簡単に許しちゃっていいの?」
「まあ、ビックリしたけど実害があるわけじゃないし」
「でもっ、私は新聞部のインタビューなんか受けてないし、あんなことも言ってないよっ!」
「それは、生徒指導でお小言言う程のことじゃないから。不満なら直接新聞部に言ったらいいよ」
「うん。わかった……」
「そもそも、私のお見合いが号外を配る程のニュースなのかが疑問なのよね」
お姉ちゃんが心底不思議そうな顔で首をひねる。
わかってないなあ……、と私は心の中でため息をついた。五月お姉ちゃんがどれほど校内で人気があるのか、本人が一番わかっていないのだ。
私の名前は山城小雨。蒼波高等学校の一年生の女子だ。役職はついていないけれど生徒会のお手伝いをしている。
で、いつものように生徒会室でお弁当を食べていた今日のお昼休みに事件は起こった。
……事件というほどのモノでもないけど。
「小雨! 事件だ、事件だよ!」と、大慌てでクラスメイトの麻子が生徒会室に飛び込んできたのだ。
「あはほ、ひっはいなはに」
「小雨ちゃん。口にものを頬張ったまましゃべらないの。守前さんももっと落ちついて」
生徒会副会長の湯由子先輩が私たちをたしなめる。私と麻子(守前さん!)は、顔を見合わせてからちょっと間をおく。ごっくん。
「えーと、いったいなに? 麻子」
「これこれ、これを見てよ」
麻子が生徒会室のテーブルの上に置いたのはA4サイズの紙だった。なにやら印刷がされている。
「アオバタイムス?」
「さっき、新聞部の連中が食堂でくばっていたのよ」
号外と大きく書かれたその紙は、ワープロで作ってコピーしたものらしい。なんとなく新聞ぽい体裁で文字が並べられている。そして麻子が握りしめていたせいだろう、随分とシワシワだ。
「えーっとなになに……、二十四歳、五月先生お見合い!?」
読み上げた私の声が尻上がりに大きくなったので、生徒会室にいた全員の注目を集めてしまった。
「ね、事件でしょう?」
麻子が目をキラキラさせて私に詰め寄ってくる。五月先生のお見合いそのものが事件だと思っている顔だなあ、これは。号外のほうがよっぽど問題なのに。
「姉妹なんだから知ってる……」
「本当なんだ!」
あう。しまった。麻子は裏をとるためにここに来たに違いない。
こうしちゃいられないとばかりに、来たときと同じような勢いで麻子が生徒会室を飛び出していく。
「ちょっ、麻子!」
麻子を追いかけて生徒会室を飛び出した私は、思い直して足を職員室に向けた。どっちみち話は広まるだろう。なら、五月お姉ちゃんに知らせるのが先だ。
かくして放課後、速やかに新聞部は生徒指導室に呼び出されることとなった。
生徒指導の香坂先生は、個人のプライバシーに関するようなことは軽々しく記事にするな、許可を得ずに新聞を配布するな、という内容のお説教をした。
一方、新聞部の言い分によれば、生徒が興味を持つ事柄を迅速に報道するのがジャーナリズムなのだとか。
ジャーナリズムねえ。
結局、誹謗中傷という訳でもなく、当のお姉ちゃんがあまり気にしていないということもあいまって、お咎めは簡単なもので済んだ。
私としては、でっちあげられたK嬢発言のくだりがこの上なく気になるんだけど、これもやっぱりお姉ちゃんが目くじらをたてていない以上、あんまり大騒ぎするのも大人げないのかなと思う。
でも。
でもでも。
どうしても見過ごせない点もあったりする。
生徒指導室を出たお姉ちゃんと別れた私は、新聞部の部室を目指した。
「情報源は秘匿するのが新聞の鉄則だ」
部長の楢島さんが腕組みをしながら横柄に言った。私の、誰から話を聞いたんですか、という質問への答えだ。
ふーん。そんなこと言っちゃうんだ。
「……そうですか、わかりました。ところで楢島部長、次期の予算についてですが……」
ピクッと楢島さんの頬が動く。
「好ましからざる活動で生徒指導を受けたとなると、それを考慮せざるを得ないのですが」
「脅迫するのか」
「人聞きの悪いことを。予算は学校中の部活動でシェアするものですから、他の部活の皆さんも納得するようなものでないといけないってことです」
「……」
ふたりの視線同士が火花を散らす。そして――
「取引をしよう」楢島さんが微妙に折れた。
「予算のことですか? 取引なんてできませんよ」
「記事の真偽を教えてくれ」
あう。これではまた飛んで火にいる夏の虫だ。お姉ちゃんのお見合いについて間違いのない事実を知っているのは、この学校ではお姉ちゃん本人と妹である私だけのはずなのだから。
でも、すでに昼休みに麻子に喋ってしまったのだから、ある程度は周知の事実といえるかも。
「五月お姉ちゃんがお見合いをするのは本当です。これでいいですか?」
「相手は? 日取りは?」
「さあ」
「……」
楢島さんはちょっと考えてから、スチール机の引き出しから何かを取り出すと私に差し出した。
「これが部室のドアに貼ってあったんだ」
それは付箋紙で、「山城五月先生 11月上旬にお見合い」と小さい文字で書いてあった。
「いつの話ですか?」
「昨日の放課後だ。帰ろうと思って部室に鍵をかけるときに俺が気づいたんだ」
「……こんなメモだけで、よく号外なんて書く気になりましたね」
「昨日のうちに部員全員に確認したが、誰にも心当たりがなかった。つまりはタレコミだってことで、一気に信憑性がたかまったんだ」
「適当なこと言わないでください」
私が睨みつけると、楢島さんはちょっと肩をすくめた。
「正直に言えば、文化祭のあとはネタに困っていたから、ちょっと面白いと思ったんだよ。付箋が貼ってあったのは本当だし、部員に心当たりがないのも本当だ。まあ……お相手とか、山城の言葉とかを勝手に作ったのあやまるよ」
「この付箋、預かってもいいですか?」
楢島さんの無言を肯定と受けとって、私は付箋をポケットに入れると新聞部室を後にした。
「一番の問題はこの付箋を書いたのは誰かってことよ」
その日の夜。自宅のリビングで私はお姉ちゃんに新聞部で聞いた話を報告した。付箋に書かれた小さな文字を、お姉ちゃんは目を眇めて見つめている。
「筆跡に心当たりはないの? お姉ちゃん」
「うーん、小さすぎてなんとも言えないなあ」
「じゃあ、最初から整理してみようよ」
――そもそも、お姉ちゃんにお見合い話が降って湧いたのは2週間くらい前のことだ。お相手は、お父さんが勤めてる会社の重役の息子さんだそう。なんでもその重役さんの奥さんが息子さんのお相手探しに熱心で、重役さんも誰かとのお見合いをセッティングしない訳には行かなくなったらしい。費用はこちらで持つから、とにかく会うだけでもお願いできないか、とお父さんはお願いされてしまった。お父さんはお父さんで断るに断れず、一回だけだからとお姉ちゃんに泣きついた。お姉ちゃんはこれもまた人生経験とばかり安請け合いをした――そんな次第。最終的にお姉ちゃんがOKを出したところで私も話を聞いた。
「お見合いの相手が蒼波高校の関係者ってことはないのかな」
「それはないわ。そうなら事前に説明があるでしょ」
そりゃそうだ。自分や兄弟が蒼波高校の卒業生で――とか、姪っ子甥っ子が蒼波高校に通っていて――とかあるかもしれないけど、それならそれで事前に話があってしかるべきだ。だって、それはお見合いの事前情報としては結構重要だと思うから。
「お姉ちゃん、誰かにお見合いのこと話した?」
「話してないわ。小雨こそどうなの?」
もちろん私も、まだ、誰にも話していなかった。――昼間、麻子や楢島さんに話す前の段階で、ということだけれど。
むう。そしてもうひとつ――
「お見合いの日取りって決まったの?」
「11月1日の土曜日。大安なんだって」
「決まったのいつ?」
「さっきよ。お父さんが帰ってきて言ってたわ」
「……」
新聞部の楢崎さんの予想は外れたわけだけ。お相手の年齢は29歳だそうでこれもハズレ。
でも、付箋に書かれた「11月上旬」という言葉は、タレコミ屋がこのうえなく正しく認識していたということになるわけで――なんというか、ちょっと気味が悪い。
五月お姉ちゃんが誰にも話していないという言うのなら、本当に一言も口外していないのだと思う。お姉ちゃんが学校でガールズトークをしているところは想像しにくい。
となると、残るは〝私〟だが……いやいやいや、そこそこ口が軽い自覚はあるけれど、今回の件については潔白だと言い切ることができる。もう少し情報が集まってから湯由子先輩あたりにお話ししようと思ってもったいぶっていたのだから。あ、いやいや。うほんうほん。
そうすると残るのは――
「お父さんかお母さんってことはないかな?」
「ははは。さすがにそれはないでしょ?」
「だよねー」
……むう。
これは、いくら考えても答えは出そうにない。
こんな時はあれだ、お風呂に入って寝てしまうに限る。
でも、なんだかどこかから監視されているような気がしてしまって――被害者は私じゃないのだけれど――ちょっとひとりで寝るのが怖いなあ。
翌日のお昼休み。いつも通りお弁当をぶら下げて生徒会室を目指していると、廊下で立ち話をするお姉ちゃんを見つけた。お姉ちゃんが私に気づくと、相手の男の先生は軽く会釈して離れていった。
「今の、生物の東山先生?」
丸眼鏡に白衣というわかりやすい格好の先生だ。年の頃は30歳くらいかな。私はまだ教わった事がない。
「そうよ。お見合いはいつですか、って」
「えっ?」
「今日はこれで5人目よ。そんな日程聞いてどうするのかしら」
「そんなにいろんな先生に訊かれたの?」
「ん? 先生は東山先生が初めてよ。残りはみんな生徒」
げっ。それは――何かよからぬことを企んでいるのではなかろうか。校内には非公式だけど五月お姉ちゃんのファンクラブがある。連中にしてみればお見合いなんて阻止したいイベントに違いない。
「お姉ちゃん、まさか日取りしゃべったりしてないよね」
「当たり前でしょ。生徒にそんなこと言うもんですか」
「お姉ちゃん結構生徒に人気あるんだから気をつけてね」
「何言ってんの。生徒会のマスコット小雨ちゃんにはかなわないでしょ」
こんなミソッカスと、ナイスバディの女教師を比べないで欲しいなあ。
あの後、生徒会室でお弁当を食べながら湯由子先輩に相談したところ、早速、放課後に五月お姉ちゃんのファンクラブ連中を呼び出すこととなった。
現在、放課後の生徒会室にファンクラブの中心的メンバーと生徒会の一部メンバー――湯由子先輩と同じく副会長で会計のあずささん、私の3人――が対峙する格好となっている。ちなみに生徒会の男子メンバーは、今回の話にちっとも乗っかってきてくれない。いったいなぜなのか――
それはともかく、五月お姉ちゃんの非公式ファンクラブは大きく二つの勢力がある。男子中心の「五月先生愛好会」と、女子中心の「五月先生を守る会」だ。
「愛好会って……また頭の悪い名称を名乗ってるわねえ」湯由子先輩は手厳しい。「昨日のアオバタイムスの記事に思うところは?」
「「「許し難し!」」」
愛好会の中心的メンバーらしい男子3人組が口をそろえた。
「誰を許せないって?」とあずささん。「五月先生? それともお見合いのお相手? もしくは新聞部?」
「「「……」」」
「そいつらは五月先生をアイドルかなにかと勘違いしているんですよ」と言ったのは守る会の会長を名乗る女子。「愛好会だなんて、五月先生を人として見ていない証拠です。副会長のおっしゃるとおりファンクラブの名称としては最悪ですね」
「では、あなたたちはどう思ったの?」
「もちろん、五月先生に悪い虫がつくのは断固阻止しなければなりません!」
守る会の女子全員が大きく頷く。
生徒会側3人は大きくため息をついた。
「今日、五月お姉ちゃ……いえ、山城先生にお見合いの日取りを訊きにいったひとはいますか?」
それぞれの会からふたりずつ、つまり4人の手が挙がる。
「で、必要な情報は手に入ったの?」と湯由子先輩。
「……」
全員が一瞬不自然な沈黙をした。愛好会と守る会がお互いに視線をさぐりあっている感じ。
「どうなの?」
あずささんが重ねて聞くと、全員が小さく首を横に振った。
「もうわかっていると思うけど……」湯由子先輩が強く言った。「もし、これ以上山城先生のお見合いの件について追求したり、あまつさえ当日なにがしかの邪魔をしようなんて考えていたら、ファンクラブの活動は二度と校内でできなくなるわよ」
「「「でも、生徒は自由な活動をする権利が……」」」
「ひとに迷惑をかけていい自由なんてない!」
ぴしゃりと言われて、愛好会の男子が小さくなってうつむいた。
「用件は以上よ。解散していいわ」
湯由子先輩の言葉に蹴り出されるように、ファンクラブのひとたちが生徒会室を飛び出す。なんのかんのいっても、お姉ちゃんのファンクラブのひとたちには、私も優しくしてもらったりしているので、ちょっと心苦しい感じもするけれど――それはそれ、これはこれだ。
でもまあ、これで騒動も一段落したらいい。
お見合いの当日までお姉ちゃんと私が口をつぐんでいれば、校内に情報が漏れる心配はないわけだし。
ことの発端になった付箋を誰が書いたのかはいまだに謎だけれど、お姉ちゃんのお見合いがつつがなく済めばそれでいいわけだ。なんといっても、会社の重役さんの顔を、ひいてはお父さんの顔を立てるためのお見合いなのだし。
「連中、本当に五月先生のお見合いに乗り込んだりするつもりだっと思う?」と、あずささんが首をかしげる。
「まさか。ポーズよポーズ。でも、こうやって言い含めておけば、彼らだって周りにいいわけがたつでしょ?」
――湯由子先輩、いろいろ気が回りすぎて怖いです。
「でもねえ、邪魔が入っても入らなくても、五月先生のお見合いが成功するとは思えないんだけど」
「なんでですか? あずささん」
「女の感よ。そう思いませんか? 湯由子先輩」
「あら、そうかしら。意外とあっさりおさまっちゃったりするものよ。特に五月先生みたいなタイプはね」
「ええ――? そうですかあ?」
湯由子先輩とあずささんのガールズトークが続く。男性陣がそうそうに帰っちゃったのは、これを見越していたからなのかしら――
ひとしきり先輩ふたりのガールズトークにつきあって、私が生徒会室をあとにした。そろそろ部活動も終わりの時間帯だ。
「小雨ちゃん」
下駄箱で靴に履き替えようとしたところで声をかけられた。
「はい。あれ、かんな先輩。まだいらしたんですか?」
さっきまで生徒会室にいた「五月先生を守る会」女子のうちのひとりだ。
「小雨ちゃんさ、ひとつ確認したいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「五月先生のお見合いって、11月1日の土曜日に駅前の○△ホテルのレストランなの?」
「……」
私が絶句して立ち尽くしていると、かんな先輩は「やっぱりそうなんだ」と言ってため息をついた。
「どうして……」
「守る会に匿名のタレコミがあったの」
「匿名って、どうやって……」
「会長あてに捨てアドからメールが来たって」
「会長って、真記子先輩ですか?」
さっき先頭きって守る会側の発言をしていたのが真記子先輩だ。
「たしかに、私たちも絶対阻止なんていって盛り上がってたけど、正直口だけだったのよね。だから、五月先生に日取りを教えてもらえなくてちょっとホッとしたし、鈴木先輩のお説教もちょっとありがたかったの」
鈴木先輩とは湯由子先輩のこと。
「でもね、こんなタレコミがあると逆に怖くなってきちゃって。五月先生、もしかしたら誰かにストーカーされていたりしない?」
「そんな話は聞いたことないですけど……」
「でも気をつけた方がいいわ。きっと愛好会の連中にも同じような情報がいっていると思う。なんとかして五月先生のお見合いを邪魔したいひとがいるんじゃないかな」
さっきまでガールズトークで緩んでいた気が一気にひきしまる。
「……かんな先輩は、守る会と愛好会以外に心当たりありませんか?」
「文化祭で五月先生に告った羽生君あたりが浮かぶけど、彼はこんな陰険な手は使わないような気がするし……」
「わかりました。気をつけるようにします」
「そうして。私たち……もちろん愛好会も含めて、邪魔するつもりはないけど、手が必要なことがあったら力になるから」
かんな先輩が帰った後も、私はしばらく昇降口の下駄箱前で立ちすくんでいた。
沈みがちな気持ちを引きずって家に帰ると、リビングからお母さんの明るい声が響いていた。
「小雨遅かったわね。ねえ見てよ、五月の新しいワンピース」
「……お見合いっていったって形ばっかりなんだから、こんなの買わなくてもいいのに」とお姉ちゃんが幾分困惑気味にしている。
「なに言っているの。人生何があるかわからないんだから、準備は万端にね」
「はいはい」
「アクセサリーもほしいわね。五月、今度一緒に買いに行きましょう」
「えー?」
「ほら、いつなら予定があいてるの?」
「ちょっとまって……」
五月お姉ちゃんは愛用のシステム手帳をリビングのテーブルの上に開いた。
「今週の土曜は……」
なにげなくその手帳をのぞき込んだ私は――開かれたページの済みに書かれたメモに吸い寄せられた。
「お姉ちゃん、このメモって……」
「ん? ああ、お父さんがこの話を持ってきた時に書いたやつね」
「……」
なんてこと。
こんな簡単な可能性に気づかなかったなんて――
今までの謎が一本の糸にきれいに縒り合わさっていく――
そうか。
そういうことか。
でも、導き出した結論はこの明るいリビングにはふさわしくない気がして、はしゃぐお母さんと困惑するお姉ちゃんをぼんやりと眺めることしかできなかった。
空がすっきりと晴れ渡っている。
土曜日とあって街では多くのひとたちが休日を楽しんでいる。
駅からほど近い○△ホテルでは、結婚式が何件も行われるらしく、ロビーには礼服や晴れ着を着た人たちがあふれていた。
今日は11月1日。
このホテルの2階にあるレストランで五月お姉ちゃんのお見合いが行われる日だ。
2階へはロビー奥にある大きな階段を使う。柔らかな絨毯を踏みしめて階段を見上げた私は、踵をかえしてホテル正面玄関脇にある喫茶スペースへと足をすすめた。
時刻は午前十時半。
私の想像が正しければ、たぶんいるはず――いた。
喫茶スペースのなかからロビーを睨みつけるようにしているのは――
「お姉ちゃんならまだ当分来ませんよ。東山先生」
生物の東山先生は、丸眼鏡の奥で小さな目を大きく見開いた。ぱくぱくと口を開くけれど、言葉が出てこない。
「時間がわからないから朝から見張ってるんですね? で、この後はどうするつもりなんですか? 先生。まさか、お見合いの場に飛び込んでいくとか?」
「……いや……」
「まあ、そんな勇気があるとは思いませんけど。回りくどりことばっかりして」
東山先生は小さくなって視線を落とした。
この反応を見れば間違いない。新聞部の部室に付箋を貼ったのも、ファンクラブにメールを送ったのもこのひとだ。
「山城、どうしてわかった?」
「〝11月上旬お見合い〟ってメモはお姉ちゃんのシステム手帳に書かれていました。それを見た人じゃないとあのフレーズは出てきません。体育教師であるお姉ちゃんが授業に手帳を持ち込むことはありえないから、盗み見るなら職員室。なら、それを見たのは先生のうちの誰かってことになりますよね?」
「生徒が職員室に入ってくることも多々ある……」
「そしてもうひとつ。号外騒ぎの翌日にお姉ちゃんにお見合いの日程を訊いてきたのは5人。ファンクラブの生徒4人と東山先生、あなたです。お姉ちゃんもさすがに生徒にはしゃべらなかったけれど、同僚である先生にはつい答えてしまった」
最初はきっと何かの偶然で、先生はお姉ちゃんの手帳に書いてあった〝11月上旬お見合い〟の文字をみてしまった。詳細を訊いてみたくてしょうがなくて、でも手帳を覗き込んだことを白状するわけにもいかなくて。そこで先生は一計を案じで、新聞部にスクープとして騒ぎ立てさせることにしたのね。思惑通りに新聞部はお姉ちゃんのお見合いネタに飛びついた。その結果、先生はおおっぴらにお見合いの話をお姉ちゃんにする事ができるようになった――
「それで日取りをゲットして、先生がひとりでここに来るだけだったなら、たぶん私は気づかなかったと思うんです」
ファンクラブを巻き込んだほうがお見合いを阻止できる確率があがると思ったのか、それとも自分では何かをするつもりはなくて、ただの他力本願なのか、それはわからないけれど。
「そうそう、愛好会も守る会も真相を知ってますよ」
ハッと、東山先生が喫茶スペースを見渡した。少し離れた席に愛好会と守る会の面々がそれぞれのグループで座っている。ついでに言えば、湯由子先輩とあずささんもだ。全員、私と情報を共有したうえで、東山先生の暴挙を止めるためにつきあってくれているのだ。今の今まで、先生は彼らを同好の士だと思っていたかもしれないけれど。
「降参だ……」東山先生が小さく両手をあげた。「暴れるつもりなんてなかったけど、山城先生が私をみてお見合いを思いとどまってくれたりしたらいいなと……」
「先生、それ気持ち悪いです」
「ははは……」
「五月お姉ちゃんが好きなんですよね? そもそもそれを伝えたことあるんですか?」
「好きって言うか、生物室から見る山城先生は素敵だな……と」
――これはダメだ。
私があまりのことに挫けかけたとき、痺れを切らしたのか湯由子先輩が割って入ってきた。
「なに昭和の学園ラブコメみたいなこと言ってるんですか! 今時小学生だってもう少し気が利いてますよ! 五月先生に告りましょう! 今すぐ! ここで!」
湯由子先輩!
止めに来たのに焚きつけてどうすんですか!
「しかし、山城先生はこれからお見合いだろ」
先生も先生で湯由子先輩の勢いにちょっと乗り気になってるしっ!
「お見合いがなんぼのもんですか! お見合いで入籍する訳じゃないんですよ。五月先生はまだまだ色々な男をとっかえひっかえして相手を探していくんです! お見合いの相手も、先生も、なんならあそこのファンクラブの連中にだってチャンスは平等なんですよ。だから、その気があるなら今すぐスタンダップ!」
先輩――むちゃくちゃです。
一同が呆然としている中、堪えきれなくなったように笑い声がはじけた。なんと、東山先生だった。
「はははははは! これは、たしかに鈴木の言うとおりだ。なんだか自分のしてきたことがエラくちっぽけに思えてきたよ。山城、悪かったな。この通りだ」
「いえ、わかっていただければそれで」
東山先生はファンクラブにも謝罪をひとつ投げると、さっきまでとは別人のような身軽さで席を立った。
「山城先生が現れる前に退散するよ。おまえらも気をつけて帰れよ」
先生がホテルを後にしたのと入れ替わりに、着飾ったお姉ちゃんたちがホテルのロビーに現れた。
結局、新聞部がお見合いの続報を出すことはなかった。
お姉ちゃんにお見合いの感想を訊いてみても、あれがおいしかった、それがおいしかったって食事の話ばっかりで、肝心のお見合い相手のことはいっこうに出てこない。いかにお父さんたちの顔を立てるためのお見合いだからといっても、それでご縁ができることだってなきにしもあらずだろうに。まったく、ちょっと相手の男性が不憫に思えたりしてくるから不思議だ。
ところで、その後の東山先生はというと――湯由子先輩のお説教になにやら思うところがあったのか、翌週にはめがねをしゃれたフレームのもの替えて出勤してきた。でもそれ以外は特に大きな変化もなく、今まで通りに見えたりする。でもでも――じつは生徒たちの評判が微妙に変わってきているのだ。今まで、なんとなく自分に向けて喋っているような雰囲気で授業をしていたのに、ちょっと表情が柔らかくなって言葉が外に放たれるようになってきたのだとか。女子高生などはそういう変化には特に聡いので、きっと好きな人でもできたんじゃないか、というのがもっぱらの評判だ。
もっとも、お姉ちゃんに東山先生の話をふっても特別な反応が何もないところをみると、告白するまでにはいたっていないようだ。
あの時、湯由子先輩は言った――チャンスは平等なんだと。
東山先生はその言葉を胸に変わろうとしているのかもしれない。
それはもちろん、とてもいいことだと思う。
いいことだと思うのですけれど――
でも。
私には、あの場で言えなかったことがある。
本当に私たち姉妹しかしらないことがあるのだ。
お姉ちゃん――
ロマンスグレーが趣味なんだよね。
《五月先生お見合い事件 了》