8. 必ずしも一致しない。
マコトがまたコーヒーカップを2つ持って来た。
そして彼はソファに座り、ヒカルとは向かい合う形になる。
そのコーヒーの香りが先ほどのフクシマのものとは違うことにヒカルは気付いた。
「今度はどこの?」
「オキナワ。フクシマのよりも苦味があるからヒカルはこっちのほうが好きかも」
ふぅん、と気の抜けた返事をして、カップを手に取りまだ熱いコーヒーを一口含むと、ゆっくり口の中で冷めてきてそれと同時に苦味が広がっていく。
マコトの言う通り、彼の好きな味だった。
「美味しいね」
と言うと、マコトは微笑んだ。
彼が口を開く様子がなくヒカルはもう一度彼の考えを尋ねようかと様子を窺っていると、マコトはふいにカップをテーブルに置いて、ソファの背もたれに深くその体を預けた。
息を少し吐いて、ゆっくりと吸う。そして天を仰いで口を開いた。
「俺はさ、セラピストって不幸だと思う。産まれたときから職業決まってるようなものだし、薬使えないし、正直、忙しいし人の死に向き合わなきゃいけないわりには給料だって高くない。理不尽だ」
ここで言葉を切ったが、ヒカルは何も言わなかった。
まだマコトは自分の思想の中にいて、再び言葉を繋げようとしているのを感じたからだ。
案の定、マコトはまた言葉をぽつりぽつりと吐き出し始めた。
「“セラピストの資格を与えられた選ばれし人間なんだ”とか、“天からのギフトに感謝しなさい”とか、セラピストスクールで良く言われたよね」
目が合って、ヒカルは少しマコトの瞳に怯みつつ無言で頷く。たしかに入学式や卒業式の校長先生の言葉にはそういった文章が必ず含まれていた記憶があった。
「でも俺たちは選ばれたいともギフトが欲しいとも願ってない。そういう大人たちの言葉は、俺たちにセラピストとしての責任を押し付ける言葉なんじゃないのかってずっと思ってた。希少な存在であることと幸福であることは必ずしも一致しないと俺は思う」
そう言ってマコトは体を起こし、カップを手に取って一口コーヒーを飲む。
ソファの軋む音とコーヒーを啜る音が、この静かすぎる部屋ではとても大きな音となって響いたように感じた。
彼が自分の考えを言い終わったのは明確だった。
今はマコトはヒカルをじっと見つめている。ヒカルはその瞳が彼の奥深くにある思考を読み取っているような気がしてぞくりとした。
これ以上奥を見られるのは嫌だった。
マコトの視線は家族であっても見せたくないパーソナルスペースのすぐ近くまで迫っていた。ちくりと刺すような痛みがそれを警告する。
その視線を食い止めようと、ヒカルは必死で思考し、言葉を発する。
そのときヒカルは無意識に、彼もまたコーヒーカップを置いて背もたれに体を預け、天を仰いでいた。
「俺は不幸だと思ったことはないよ。じいちゃんを見ていてこの仕事が身近だったからっていうこともあるのかもしれないけど、少なくとも今、俺はこの仕事ができてありがたいと思ってる。たくさんの人に感謝されて、たくさんの人を笑顔にできて」
ヒカルは患者の笑顔を思い浮かべた。
「やりがいを感じてる。セラピストに産まれて良かった、って思ってる」
と言うとお決まりのように体を起こし、コーヒーを飲んだ。
マコトと違う点は1つ、ヒカルはコーヒーを一気に飲み干した点にあった。
彼の喉はいつの間にか緊張で渇ききっていたのだ。
それを聞いてマコトは今度は俯いて、
「そうか。不幸だと思う時が来ないと良いな」
とだけ言って立ち上がった。
マコトが部屋を出て行った後、部屋には彼の言葉の意味を掴めないでいるヒカルと、白檀の香りと、コーヒーの香りだけが残される。
少し経って戻ってきたマコトは、手に白い新品らしきバスタオルと大きめのTシャツとハーフパンツを持っていた。
「先に風呂どうぞ。明日も予定あるわけだし、早めに寝よう」
これ着替えな、と言って手渡されたその衣類は、ヒカルがここに泊まるときにいつも借りる寝巻きだった。
そのマコトの「先に風呂どうぞ」という言葉は、“セラピストは幸福か?”という議題での意見交換の終わりを告げる合図だ。
ヒカルは息が詰まるようだった空気が和らぎ、ほっと息をついて、言われた通り先に風呂に入ることにした。
彼らがセラピストになったのは彼らの意志ではなく運命……幸せなのでしょうか。
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