60. アロマのおかげ。
マコトはクリニックでアイスピックを抜かれ、肩に消毒や固定などの処置が施された。もちろんひどい傷であったことに間違いないが、幸い神経には至っておらず時間が経てば完治するだろうと医者は述べた。
病室で調査から分かったすべてを聞いたヒカルは、アヤノが叫んだ通り“無知”であったことを思い知った。そして母の治療のためにクリニックを訪れ、「ここで働きたい」と熱意を語ってくれたアヤノの本当の心情を推し量り、共感することで彼もまた心を痛めた。彼の共感力は長所であり短所である。
また、自分もいずれ処刑の衝動に駆られる日が訪れるのかと恐怖した。しかし病室のベッドで横たわっているマコトが、
「お前にそんなことはさせないよ、俺が見守ってるから安心して」
とヒカルの手を握って微笑んだので、彼の不安はずいぶんとなくなった。何の根拠もないが不安が拭えるほどヒカルはマコトを頼もしく思っていたのだった。
マコトは定期的にクリニックで患部の経過観察を受けること、日常生活でも入浴時には腕をラップで包み、一日一回包帯を交換することを条件に翌朝には帰宅を許された。とはいえども帰ったのはクリニックである。
クリニックのドアにいつものように挟み込まれたニュースペーパーには、
『隠されてきた歴史! “処刑”と“協力者”の存在!』
という大きな見出しが付いている。
アヤノは警察署にてキンモクセイの香りの者のみが記憶していることを洗いざらい話した。初めはなかなか口を開かなかったが、夜の街中で叫んでいた彼女の声は近隣住民の多くが耳にしており、歴史すべてを秘密にするのはもう不可能だった。
彼女が歴史を口外したがらないことははたから見ると不思議に思えるだろう。しかし神の命令と銘打たれた秘密は、キンモクセイの香りの人々が秘匿する義務がある。幼い頃よりそう教え込まれたアヤノはそれを疑うことを知らなかった。紙面によると、ようやく秘密を打ち明けた彼女の口は震えていたという。
今回の騒動で世間が恐れたのは見出しからも分かるとおり、魔女狩りに通ずるところのあるような処刑の存在はもちろん、協力者の存在もそうだった。キンモクセイの香りの配偶者など家族がそれに該当し、彼らは公務員の中にも含まれ、アヤノの父の存在を戸籍から消せるほどの力を持っていたことが明るみに出たのだ。
しかし記者たちがそのトピックに飛びついている中、ヒカルはタケヤマにマスクを装着していた。
「本当にこれで癌の治療が……?」
「ええ、世界初になりますが、効果は確かです」
夜中でも憚らずに彼に治療のためクリニックを訪れて欲しいという手紙を送って正解だったな、とヒカルは思う。
身体が大きく、意図せず人に威圧感を与えてしまうことが悩みだったとは思えないほど彼は弱っていた。その弱り方、身体の縮こまり方は、明らかに病に侵された者のそれだ。
青いバラの香りを染み込ませたマスクがタケヤマの顔を覆う。嗅覚はないはずなのに患者たちはすぐに眠りに落ちるのだが、彼もまたそうだった。
すうすうと寝息を立てる彼を見て皆が胸を撫で下ろした。
「二時間に一回交換くらい?」
そう確認を取ったイノウエはいつもより声のトーンが低い。ニュースペーパーでアヤノの件を知り、さらにヒカルたちから話を聞いた彼女は、アヤノを娘のように思って可愛がっていただけあって強くショックを受けていた。
騒動のこともあり休業にしたクリニックは静かで、イノウエが休憩室に入っていく足音がクリニック中に広がる。その足音をヒカル、マコト、ミカゲも追い、イノウエがコルクボードの前で立ち尽くしているのを見た。
「このときの笑顔も嘘だったのかしら。本当だと信じたいのだけれど」
彼女がそっと指で撫でるのは、初詣のとき着物を着たアヤノを囲んで撮った写真だった。中央で控えめにピースサインをしてはにかんでいるアヤノは、昨夜と同じ人物には思えない。
イノウエのつぶやきに誰も返答出来ず、唇をきゅっと噛んで顔を逸らした。
二十四時間タケヤマは寝続けた。マスクを取り替えても少し顔を顰めて呻くだけ。しかし一日ぶりにようやく目を覚ました彼は、その顔いっぱいにエネルギーを湛えていた。
ヒカルは知り合いの医者に連絡を取って、このクリニックでは出来ない癌検査をそちらで受けられるよう依頼した。
半ば泣きながらクリニックに戻ってきたタケヤマは、他の患者がいるにも関わらず受付前で万歳する。
「悪性腫瘍が消えていました! 本当に、本当に……っ! ありがとうございました!」
彼はイノウエとマコトに頭を下げると、イノウエが言葉を掛ける前に走ってクリニックを出て行った。
タケヤマの完治を診察の合間にヒカルたちに伝え、誰もが彼の慌ただしい行動に首を傾げたが、昼休憩時再び戻ってきたタケヤマを見て納得した。
彼の左手薬指に指輪が輝いていたのだ。
「タケヤマさん、ご結婚おめでとうございます」
「はは、こんな自分が人と普通に話せるようになって、まさか婚約まで出来るなんて思っていませんでした。すべてはここのアロマのおかげです」
照れくさそうに頭を掻いて、頬を赤く染める。彼の幸せに満ちた表情につられてその場にいる皆まで笑顔になった。
「タイマーです、五秒ですよ皆さん!」
イノウエがばたばたと走ってタケヤマの横に移動する。
カシャッ。
クリニックの前で撮った写真をすぐに印刷し、ヒカルはそれを例のコルクボードに貼り付けた。アヤノの笑顔の横にタケヤマの笑顔が輝く。
「私はマコトくんが女の子だとか関係ないで。惚れたのはマコトくんの性別やない、中身やから!」
そう言ってマコトの固定していないほうの腕に自分の腕を絡めようとするミカゲと、困惑して逃げるマコトを見てヒカルは微笑んだ。
「マコト!」
突然の呼び掛けに足をぴたっと止める。追い掛けていたミカゲが彼の背中に顔をぶつけた。
「俺、セラピストとして生まれて幸せだ」
マコトはその言葉を聞いて優しく笑い、
「俺もそう思うよ」
と言ってピースサインをして見せた。
最終話まで読んでくださりありがとうございました。
嗅覚を奪われた世界を構築できたこと、ヒカルたちを生み出せたこと、嬉しく思います。
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