54. 悔いが喜びを飲み込んでいく。
ガーゼから漂うラベンダーの香りと、喧しい機械音に包まれ、ヒサシは息を引き取った。
その頃には桜の木も花を散らし、葉を生い茂らせる準備を始めていた。
医師を呼ぶとすぐにヒカルは機械音が満ちる病室を後にした。そしてクリニックの廊下の突き当たりにある大きな窓から、車が出たり入ったりする駐車場を見下ろす。白い車のルーフには桜の花びらが張り付いている。
地球は今も変わらず回っているのか。自分の動揺など地球には何の影響もないのか。
意味もなくそんなスケールの大きいことに思いを馳せ、自らの小ささに打ちひしがれる。
涙がぽつりと一滴だけ窓の下に落ちたとき、涙と入れ替わるように窓の下からモモンガが飛んできた。ふわりと器用に窓枠に止まると、早く手紙を取れと言わんばかりに赤いリボンが括られた尻尾をヒカルに向ける。
リボンを解いて手紙の封を切る。三つ折りの紙の一つの折り目を開くと“鑑定結果通知書”と太字で書かれていて、もう一つの折り目を開く手が震える。彼はモモンガがじっとこちらを見ていることに気が付いた。
「ははっ、心配してくれているのかな? ほら、もう元気」
瞳の際に残る涙を指の先で拭う。わざとらしく両手を開いて笑顔を作ると、モモンガは満足したのか踵を返し、窓から暖かい空気の中へ飛び込んでいった。
モモンガに癒やされている間に躊躇なく紙を広げていて、通知書という太字の下には“癌治療薬として認可”とやけに控えめな文字が並んでいるのが目に入った。
「……っ!」
声にならない声が漏れる。思わず拳を強く握りしめ、紙がぐしゃっと音を立てて皺を作る。
「ヒカル、主治医が呼んでいる」
背後から遠慮がちにマコトが話しかけた。彼はヒカルの身体全体が震えているのを涙のためであると思っていたが、それは今はほとんど見当違いである。
振り返ってマコトの両肩に手を乗せる。マコトは彼が笑顔であることに驚いた。現実と表情のミスマッチさは、あまりの悲しみに狂ってしまったのではないかと疑ったほどだ。
「じいちゃんの仮説は合ってたんだ! つまりじいちゃんは前人未踏の偉業を成し遂げた!」
「ちょっと落ち着け。何の話だ?」
「これだよ、これ」
戸惑うマコトに、ポケットから取り出した小瓶と鑑定書を見せた。
「青いバラ、のアロマ?」
「ああ、じいちゃんがやっと植物園に咲かせることが出来た青いバラ。このアロマが癌治療に有効だという鑑定結果が出たんだ!」
「なんだと!?」
鑑定書を食い入るように見つめ、鑑定対象物質と結果を交互に見る。彼もまたヒカルと同じように声にならない声を漏らした。
喜ぶ彼を見て、より一層の実感が湧き上がった。嬉しさで足の力が抜け、マコトに全体重を預けるような形になる。そしてヒカルは絞り出したような声で、
「良かった、じいちゃんが試行錯誤して出来た植物の意味を証明出来て。本当に、良かった……けど、この結果をじいちゃんに伝えるのはあと少しというところで間に合わなかった……悔しい、悔しい……」
と、喜びと悔いを口にした。
もう少し早くタシロに研究を依頼していたら?
そういった後悔が渦を巻き、初めは強く感じていた喜びを飲み込んでいく。
マコトは次第に涙声になっていくのを間近で聞き取り、ヒカル特有のジャスミンの香りが濁っていくのを間近で嗅ぎ取っていた。あの朝、白衣を纏って出かけた彼が何をしようとしていたのか、このときようやく理解した。
彼は特に掛ける言葉を持たぬままヒカルの柔らかい髪を撫で、
「喜ぶのも悔いるのも後だ。まずは主治医のところに行こう」
と言って、半ばヒカルを引きずるようにヒサシの病室へ戻った。
医師が預かっていたという遺書には、遺産の行方、葬儀、墓など、死後必要な事柄が細かに綴られていた。
「葬儀場等はクリニック側から提案するのが一般的なのですが、というのは同じセラピストですから知っていましたね、失礼致しました。ではその通りに」
彼はこの後ヒカルが家族としてしなくてはならない手続きをマニュアル的に説明したが、それはヒカルたちもセラピストとして再三してきた説明だ。医師には申し訳ないが話半分に、ヒカルはヒサシがどのような思いで、どのような表情でこの遺書をしたためていたのかを想像していた。
また、最後に彼の中にあったのは、満足か、不足か。想像は止まることを知らない。
ヒカルが彼の成果を鑑定書という形にしても、出来たのは彼の努力を認めることだけだ。癌治療薬を作り出していながらも、ヒサシ自身はその薬を使うことは出来ず、癌によって命を落とした。
なんと皮肉なことだろうか。
医師の話が終わり、様々な手続きをするために病室を出たとき、ヒカルはマコトにこう言った。
「やっぱりセラピストは不幸だよ」
彼は不思議と笑っていた。