53. 悲しみを原動力に。
「おはようございます!」
アヤノがベルの音とともにクリニックにひょっこりと顔を出す。ついこの間まで柔らかいマフラーが首を包んでいたというのに、マフラーはおろか、羽織っているのはコートでなくカーディガンだ。
外から春の香りが漂う。俗っぽく言うと桜の香りだが、桜のみならず暖かい陽の光や木々の芽吹きがこの香りをつくっている。
その香りを深く吸い込んで堪能していると、イノウエが彼の腕をぽんと叩いた。
「ちょっと、なに香り楽しんでるのよ。先生の具合はどうなの?」
昨日、彼女は彼に会えないまま今日を迎えているのだということを思い出した。
まるでなんでもない日のように出勤しているが、短くはない時間、ともに働いてきたのだ。気に留めていないわけがない。たしかに彼女の目の下には隈が広がっている。
彼女いわく、モモンガによって彼が癌であること、先が長くはないことは知っているという。
「先生が倒れたと連絡を受けて、サイタマからクリニックに急いだことあったじゃないですか。あのときに癌だと診断されていたようです。全身に転移していて何にせよ手術は出来ないからと、俺たちには癌のことを隠していたようで」
「あのとき先生のそばにいた看護師さんの表情、少し気になってたのよね……でも言わなかったのはほとんどヒカルくんのためなんでしょう? ヒカルくんの様子はどうなの?」
イノウエもマコトと同様に、ヒサシが病気のことを打ち明けなかった理由をすぐさま見抜いた。皆がヒカルのことをよく分かっているため、ヒサシが彼に心配させまいとする気持ちを責めることは出来ない。
マコトは日が上るまで何やら動いていたヒカルの気配と、目を覚ましたとき街を歩いていくヒカルの姿を頭に浮かべ、
「俺たちの想像通り、あいつはめちゃくちゃ動揺しています。でも何か考えて動こうとしている。あいつは悲しみを原動力に、何かを成し遂げようとするやつですから」
とはっきり言った。
イノウエは彼の凛々しい横顔を見つめて微笑み、
「よし、今日も頑張りましょう!」
と手をぱちんと合わせた。
更衣室へ入っていった彼女の後ろ姿を見送るマコトの腕に、アヤノはそっと触れる。
背の低い彼女を見下ろすと、ワンピースの裾を小さい手できゅっと掴んでいるのが見えた。
「昨日、私がいたせいでクリニックへ向かえなかったこと、イノウエさんはどう思っているでしょうか」
小声で言ったそれを聞いて、マコトは思わず吹き出してしまった。
真面目に悩んでいたアヤノはあまりに驚きすぎて目を丸くするのみである。
「ははは、イノウエさんがそれで怒ったりするわけないよ。というかね」
アヤノの耳元に口を寄せ、囁く。
「イノウエさんがクリニックに行っていたら、どうして早く言わないんですか! 林檎剥きましょうか! って大騒ぎするだろうから、先生も困っていたと思うよ」
それを聞いたアヤノは、“大騒ぎするイノウエ”がすぐに頭に浮かんだ。
口元を片手で隠し、ふふと笑いながら、
「想像出来ちゃいました」
と言って彼女もまた更衣室へ入っていった。
ザーザー……雨が窓ガラスに打ち付け、クリニックの前の道を走る車は水溜りを踏んで水を撒き散らす。
マコトは外に立てた看板を仕舞うため雨の中出ていった。正午あたりから突然降り出した雨は冷たく、冬の名残を感じさせる。
クリニックに戻ったマコトは、髪から雨を滴らせていた。
「タオル用意してから出なさいよ!」
イノウエに注意されつつも渡された白いタオルを頭に乗せ、弁当の用意された休憩室ではなくクリニックの窓際に立った。
予報にはなかった雨なので、バッグやジャケットを傘代わりにして走り行く人々を眺める。
「タオルに髪の色がついたりはしないんですね」
隣からしたアヤノの声に驚く。窓の外に夢中で、彼女の足音には気付かなかった。
驚きを隠すように饒舌に、なぜ雨は髪色を落とさないか説明する。酸性がどうの、ピーエイチがどうのと詳細すぎるほどの説明であったが、アヤノは興味深そうに相槌を打つ。
説明が終わると、二人の間に微妙な静寂が訪れた。話しているうちに髪が乾いてきたのでタオルを首に掛けて休憩室に戻ろうとすると、
「どうして髪を水色にしているんですか?」
とアヤノが尋ねた。
マコトは曇り始めた窓を指でなぞって文字とも絵ともいえぬ模様を描きながら、
「水色が好きだから」
とだけ言って、少し経ってまた口を開く。
「ヒカルの髪って明るくて目立つだろ? 栗色、とでも言うのかな。あいつの母親はあの色が気に入らなくてひどいことを散々言われたらしいし、スクールでは“外人だ”とかって辛い思いをしていたのは俺がこの目で見てた。だから俺のほうがあいつよりも目立つ髪色になってやろうって思った」
アヤノは唐突にマコトの髪に手を伸ばし、指をそのさらさらの髪に通した。
何も言えないでいる彼ににっこりと可愛らしい笑みを向け、
「ヒカルさんのこと、とっても好きなんですね」
と言った。呆気に取られたままのマコトを窓際に残し、彼女は先に休憩室へ戻っていった。




