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僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。  作者: 梅屋さくら
Perfume4. セラピストの不幸と歴史の秘密。
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52. 柔らかなガーゼ。

 ヒカルの栗色の髪が街灯に照らされてさらに輝いていた。そして瓶を見つめる茶色の瞳が不思議な光を湛えていて、マコトは反射的に“恐ろしい”と感じた。これはきっと美しいものに対する潜在的な恐怖だ。

 クリニックのドアを開けた音でマコトの存在に気付かないはずがない。しかしヒカルは一切視線をそちらに向けず、なお沈んだ表情で瓶のみをその目に映していた。


「……ヒカル」


 恐る恐る呼びかける。つい、声が震える。

 呼びかけから少し経ってマコトに顔を向けた彼の顔には奇妙な笑みが張り付いていた。


「今日は泊まっていきなよ」


 その表情がより痛々しく、マコトは顔を背ける。


「明日、俺が休みの予定だったけど交換しないか?」

「一週間くらい前からその日は映画を観に行くんだって楽しみにしてなかった?」

「いいや、映画よりも仕事をしたい気分なんだよ」

「ははっ、何だよそれ」


 つまらない冗談のような言葉を放ったマコトの顔にも、ヒカルと同じ奇妙な笑みがあった。

 ヒカルは、


「ありがとう。じゃあ明日俺が休ませてもらうよ」


 と明るく繕っていたが、その奥にある翳りを隠せてはいなかった。

 この夜、言われた通り泊まることにしたマコトは、風呂に入るのも、布団に入って目を瞑るのも、ヒカルより先だった。ちなみにこの布団は、マコトがここに泊まるときのためにヒカルが購入したものである。何度も泊まっているため、マコトはいつも何の躊躇いもなくベッドの下にその布団を敷く。

 夜中、三回ほど物音で目を覚ました。

 小瓶の触れ合う音、紙をめくる音、ベッドの軋む音。

 これらの音が鳴ったのが何時であったか、枕元の時計を確認することさえ出来ぬほどマコトは眠く、明確な時刻は知らない。しかし、ベッドの軋む音がしたとき、カーテンの隙間から朝の淡い光が漏れていたことは知っていた。


 アラームが鳴って、重たい目を擦りながら身体を起こすと、ベッドにヒカルの姿はなかった。その代わり、いかにも部屋着というようなグレーのスウェットだけが放られている。

 自分が聞いたベッドの軋む音は、根拠もないが寝たときに出た音だと思っていた。しかし一回しか聞こえていない以上、寝たときか起きたときか、分からなくなる。

 外から足音が聞こえた気がした。道のブロックと靴底が擦れる、ジャリっという音。

 はっとして窓から道を見下ろすと、そこには珍しく白衣を着てどこかへ歩いていくヒカルがいた。大きめのバッグを肩に提げている。奥の建物の柵に吊り下げられたエアプランツの赤い葉が彼を見送るように一斉に揺れた。


 ヒカルは「青いバラの小瓶を借りていきます」とメモを置いてクリニックを後にしていた。どのような医療効果があるのか分かっていないため患者に使われることはないが、借りるときに声を掛けておくのは礼儀である。

 クリニックから二つ向こうの通りにあるコンクリート壁の建物。セラピストである証明書を見せると、入口の前にいる警備員が“ゲスト”と書かれたカードをストラップとともに手渡す。それを首に掛けて、“二三三研究室”を目指して一つ階段を上る。

 研究室にはスクールの五年先輩である田代たしろがいた。彼の他に若い男女が数人いる。


「あれ、珍しい客の訪問だな」

「久しぶり。えっと、今って忙しい?」

「まあまあ忙しいけど、広瀬の頼みごとを聞けないほどではないぞ。こっちに来て、早く話せよ」


 ヒカルがここに来るのは何か頼みごとがあるときだとタシロはよく分かっていた。そして彼の頼みごとはそこそこ難題であることも。

 研究器具や薬品を横目に進んだ先にある部屋を囲むガラスは、ドア横のスイッチを押した途端白くなり、部屋の中が見えなくなった。

 どうなってるの? と驚くヒカルをよそに、タシロは席につき、正面に座るよう促す。

 彼の胸には“研究リーダー”と書かれた名札が付いている。二十代半ばにしてリーダーを務める彼の優秀さは、学生時代から頭一つ抜けていた。

 ヒカルはクリニックから持ち出した小瓶を差し出し、いくつか説明をした。それだけでタシロはほぼ全てを理解して、ヒカルよりも詳細にやるべきことを説明してのけた。


 よろしく、の意を込めて握手を交わす。研究室を後にしたとき、まだ日は高い位置には上っていなかった。

 昨夜ぶりにヒサシの入院するクリニックへ足を運ぶ。

 病室で彼は一人、本を読んでいた。

 それは魚の図鑑。聞くと、クリニック一階の売店で買ってきたものだという。


「香りだけじゃなく、もっとたくさんの知識を得たかったなあ」


 ほらこれなんてすごいぞ、すごくぬるぬるするらしい。

 目を輝かせて魚を指差す彼は、まるで昨日の冷たい態度や激しい言い合いを忘れたような態度だ。あれ以上意地悪を言うのはヒカルを追い込むだけで良くないと分かっていたからだった。

 ヒカルは柔らかなガーゼにラベンダーのアロマを染み込ませてベッド脇に置いた。


「セラピストにアロマは効かない。でも、精神的なリラックス効果は得られるはずなんだ」

「確かに昔、嗅球と身体全体が神経で繋がっていなかった頃からリラックス効果を求めて人々はアロマを使用していた……と何かに書いてあったな。嗅球と脳の繋がりは昔も今も変わらない」


 ガーゼに手を伸ばし、息を深く吸い込む。ふわりと香るラベンダーがヒサシの心をいくらか落ち着けたのは事実だった。

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