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僕は人々が嗅覚を奪われた世界で、アロマセラピストをしています。  作者: 梅屋さくら
Perfume4. セラピストの不幸と歴史の秘密。
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51. ヒカルの隣には。

 木材が組み合わされ、白い花がぼんやりと光っているような照明が吊り下がる店内。

 ピザ生地の器から木製の皿にどろりとチーズが流れ出す。皿の縁にはわずかな突起しかなく、かろうじてチーズを堰き止めている形だ。


「わあ、見てください! すごく伸びますよ!」


 アヤノが1ピース手に取って、垂れ下がるチーズを下から舐めるように口に放り込む。

 それにイノウエも続き、彼女らは同時に頬に手を当てて幸福そうな表情を見せた。


「んんー!」


 そんな彼女たちを、セラピストの男性三人は微笑んで見ていた。ヒカル、マコトにとってはアヤノが、ヒサシにとってはイノウエが娘のようだったからである。彼らはぐいっとビールジョッキをあおる。

 アルコールに弱いマコトがくらりとして、隣に座っていたヒカルがその肩を支えた。


「どうして酒が大好きな俺が酒に弱いんだ……俺は納得してないからなあ!」

「ちょ、声大きいよマコト」

「ははは、相変わらず酒癖が悪い」


 酒の味が苦手なヒカルはこの一杯でやめ、酒好きな二人の様子を見ていた。何も変わらないヒサシと次第に真っ赤になるマコトの差がおかしくて仕方なかった。


 店を出たのは二十一時、もうすっかり暗い。

 ヒカルはマコトに肩を貸してクリニックを兼ねた自宅へ、イノウエは車でアヤノを送ってから息子の待つ家へと帰っていく。一方ヒサシは一人車を運転し、ここから三十分ほどの位置にある家へと帰る。


「今日はごちそうになってすまないね。私はこれから毎日暇だからまた誘っておくれよ」


 ほんのりと頬が赤い。

 それぞれが「また!」と言ったり手を振ったりしながら、向かうべき場所へと歩き始めた。……そのとき。


 どさっ


 突然聞こえた鈍い音に、皆が反射的に嫌な予感を抱いた。酔って足元がおぼつかないマコトさえ。

 はっと振り向くとヒサシがアスファルトに横たわっているのが見えた。一切の受け身を取らず足から力が抜け落ちたような格好で、打ちつけたらしい頭からは少量ではあるが血が流れていた。


 救急車で運ばれたのはヒカルたちのクリニックよりも大きなところだった。診療所というより病院という言葉が似合うようなこの規模がヒサシには必要だということだ。

 車内で彼の鞄を漁って見つけたのは、癌の診断書と癌治療に用いられる薬の名称が記された薬手帳。診断書は目につく内ポケットに差し込まれていて、他人が漁って見つけやすいようにされていた。

 頭に包帯を巻かれている間に彼は目を覚まし、医師と二人で相談をしたのち、少しばつが悪そうな表情のまま個室に運ばれた。


「どうして癌だって言わなかったんだ! あの診断書の日付……あれは前じいちゃんが倒れた日だった。俺たちが病室に行ったとき、もう癌だって分かっていたんでしょ?」

「俺が癌だと言ったらお前は何をしていたんだ? 治療する? いや無理だよな、俺はセラピストだからアロマセラピーは効果がない」

「それでも看病とか……」

「俺が今日までセラピストとして働き続けられていたことは、ヒカルはよく分かっているだろう」


 病室でヒカルは今までにないほど感情を露わにした。ひとまずイノウエはアヤノを家まで送っていくことになったため、一人で彼らの会話を黙って聞いていたマコトは居心地が悪い。そしてヒサシのやけに意地悪な言い方が気になっていた。

 ヒカルは返す言葉もなく、唇を噛む。そして拳をぎゅっと握りしめて病室から飛び出していった。

 勢いよく閉められたドアが跳ね返り、開いたり閉まったりを繰り返す。その様子をじっと見ながらヒサシが、


「すまないね。もう少し大丈夫かと思っていたが、想像以上に進行していたみたいだ」


 と言った。

 窓から射し込む街灯の白い光が、彼の顔の右半分を強く照らす。そしてマコトの影が彼の胸元に落ちている。

 強い光が浮き上がらせるのは彼の皺。マコトが思っていたよりもそれは深く、皮膚の色も不健康的に見えた。

 よく思い返すと、クリニックでヘルプをしていた頃から時折ふらついたり一点を見つめたまま心ここにあらずといった様子で動かなかったりしていたことがあった。

 あのときから体調が思わしくなかったのではないか?

 そう考えると辻褄の合うことがいくつか思い当たる。


「先生はヒカルに変な気を遣わせたくなくて癌のことを話さなかったんですよね?」

「それがすべてではないけど、まあそれも理由の一つだね」

「きっとあいつは自分は無力だと悔いる。それを見越して先生はわざと厳しいことを言った。そういうことですよね?」


 ヒサシは静かに頷いて、街灯に目を向ける。黒目に光が反射して輝いている。


「どうせ私がああ言っておいても、あいつはうだうだと後悔を口にするんだろうなあ」


 それについてはマコトも同感だった。セラピストが病を患っても出来ることはない。それは身をもって嫌というほど知っているはずだが、それでもしばらく悩みに悩むのがヒカルという人間だ。

 マコトはヒサシの顔を真っ直ぐ見て、左胸に手のひらを当てる。


「ヒカルの隣には絶対に俺がいます。任せてください」


 その凛とした表情を見て、彼は嬉しそうに笑った。そして目を瞑って天井に顔を向ける。


「頼もしい友人が出来て、私まで嬉しいよ。君のおかげで安心して人生を終えられる」


 マコトの、「だめです、まだ元気でいてもらわなくては!」という焦った声を聞いて、彼はさらに口角を上げた。

 面会時間が終わり、マコトはヒカルのいるクリニックに戻った。彼は暗いクリニックの中で一人、瓶が並ぶ棚を見ていた。

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