18. デネブ、アルタイル、ベガ。
休憩室に1度戻ってはみたが、そこにはマコトの弁当のゴミと、いつものコーヒーが入った水筒しか残っていなかった。
もう彼は診察を始めているようだ。
ヒカルはマコトの弁当を捨て、自分のペットボトルをバッグから取り出して一口それを飲んだ。
外の熱気が窓を通じて部屋に入ってくるほど強い。
院内は涼しくしているので実際どれくらいの気温かわからないが、来院する患者たちの額に浮かぶ汗が暑さを表している。
何人かの治療を済ませた後訪れたのは、ほとんど汗をかいていない女性だった。
「こんにちは」
隣で花屋を営む、花澤春恵。以前ヒカルに水をかけてしまった女性だ。
普段は派手な花柄の服ばかり着ているが、この日は落ち着いた色合いの服を着ていた。
「なんだかお久しぶりですね」
あの日以来、隣に住んでいるというのにあまり見かけていないなとヒカルは思った。
ハルエも「お久しぶりね」と相変わらず人の良さそうな笑顔を見せるが、その目の下にはじっとりとくまができている。
ずいぶん疲れているようだ。
「今日はどうされたんですか?」
「最近上手く眠れなくて……食欲もあんまりないのよね。こんな体型で何言ってるんだって感じでしょうけど! あっはっは」
豪快に笑って、ヒカルをばしっと強く叩いた。
思ったより力強く、叩かれたところが腫れたようにじわっと痛む。
たしかにハルエはふくよかな体型をしているが、一時よりは頬が落ちたように見えた。
何か心に病むことがあったことは容易に想像できたが、ハルエは聞いて欲しくはない様子だったし、まだ心が壊れることはないと判断して、安眠効果のあるラベンダーと、食欲増進効果のあるグレープフルーツのアロマを処方するだけで診察を終える。
「ありがとうね、ヒカルくん」
ハルエは大きく手を振って暑い外へと出て行った。
札を“CLOSE”に裏返し、看板を畳んだ。
それだけで外のうだるほどの暑さにめまいがする。
いつもの行動も開院から2年、すっかり板についたように思う。
マコトの高校卒業を待ってともに開業したこの医院は、見た目は普通の民家とほとんど変わらない。
診察室についた大きな窓と、道に沿って置かれたカラフルな花の鉢植えをヒカルは気に入っていた。
マコトが医院から外に出てきた。
「明日、駅まで車で送って行こうか?」
後ろ手でドアを閉め、パンツのポケットから車のキーを取り出す。
「いや、明日は平気。歩いて行くよ」
「そうか」
夏が嫌いでエアコンが好きなマコトがわざわざ外に出て来たということは、ヒカルと話したいことがあるということだ。
マコトは汗をかくこともないまま、水色の髪をさらりと掻き上げた。
「ん」の一言で、煙草の箱を差し出す。
いつもマコトが吸っている煙草だ。
「最近俺、吸ってないんだけどなあ」
へらへらと笑いながら、1本だけ受け取った。
マコトが自分の咥えているそれに火を着けてから、ヒカルにも火を渡す。
久しぶりの煙草はなんだか吸いづらかった。
ふう、と煙を吐いて、星空を見上げるマコトを横目で見る。ヒカルも煙を吐いてから話し始めた。
「明日、タクミくんのお母さんがお見舞いに来るんだ。大丈夫だと思うけど、一応よろしくね」
それには何も答えずマコトはまた煙草を吸った。そしてすぐに吐き出して、ヒカルに向き直る。
「今日の昼の話、全部休憩室に筒抜けだったよ。ヒカルのそういうところを信じて一緒に開業して良かったと思った」
ほとんど吸っていない長いままの煙草を、ポケットから取り出した携帯灰皿に押し付けて火を消した。
すれ違うときに肩に手を置き、
「明日のことは任せてくれ。ヒカルが守りたいこのクリニックを、明日は俺が守る」
と言い残していく。
ヒカルはそれからしばらく外にいた。
星空を見上げ、夏の大三角形……デネブ、アルタイル、ベガの3つの星を見つけ、煙草を吸い尽くし、そしてマコトが外に来る前に中へ入った。
彼は少し、涙をその瞳に湛えていた。
煙草を吸うキャラクターが好きなのは今自分が吸えない18歳だからでしょうか。
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