駅の言霊
その夏の日は大雨だった。新幹線は雷による停電により、暫くは動かなかったため、お目当てのローカル線の一両列車に乗り込んだのは昼過ぎとなった。
一日の運行本数は限られた時間の数本だけであり、乗り遅れれば無人駅に取り残されることとなる。地元の生活者とは思えない質素なおばさんと私の二人しか乗っていない列車は、小降りになったとは言え、決して景色がいいとは言えないつまらない車窓の中をのんびりと走り続けた。
何も無い無人駅でおばさんが降りた。どこにも家らしきものはない。どこに何をしに行くのかが気がかりだった。そう言いながらも、僕は同じように南アルプスとその谷間を悠然と流れる龍川との間のある僅かな土地の無人の秘境駅を目指していた。
秘境駅の南無峡駅に着いたのは午後の2時過ぎだった。次の列車は夕方の6時まで上りも下りも一本も通らない。僕は、この急峻な斜面のつづら折りの道を登ったところにある眺望の効い南アルプスの勇姿で有名な山茶屋を目指した後に、今度は龍川へと下だり清流の爽やかな谷風を肌に感じては南無峡駅から終点の街まで行くはずであった。
どこかで道を間違えたのだろう。いくら登っても、下っても南無峡駅には着かない。スマホの電波は通らず自分の位置も確認できない。霧雨となって暑さを和らいでくれた雨も、日暮が近づいてくるに従ってだんだんと雨脚が強くなってきた。気持ちは暗闇の近づきとともに心細くなってくる。
ぶ厚い黒い雲に覆われた空は容赦なくどしゃ降りの雨をもたらし、午後6時前にもかかわらず視界は漆黒の闇となった。道に迷うことなど想定もしなかった僕は懐中電灯なども持ってない。ようやく南無峡駅に着いた頃は最終列車の発車時刻5分前だ。
真っ暗な電灯も着かない無人駅の南無峡駅には、誰一人としているはずはなかった。暗闇の四畳半程度の駅舎を手探りで長椅子を探し、ずぶ濡れとなったシャツを脱いで絞ることにした。
突然、暗闇から「どこからきた。」としわがれた低い声が聞こえた。人が居るとは思っていなかったから、少し腰が引けた。
「どなたか、いるのですか」と僕は恐る恐る訊ねた。
「ああ、ずっとわしらは、ここにいるのさ。」
「地元の方でしたか」と僕は少し安心した。
少しの間、沈黙が続いた。
少しの時間は大分長い時間のように感じた。最終列車の時刻を過ぎても列車はやってこない。
「最終列車は、すまいぶんと遅れてますね」と僕は声をかけた。
「いや、最終列車は今日はもうこない」としわがれた声の返事がきた。
「え、列車時刻前から待っているのに、ダイヤか変わったのですか」
「ダイヤは変わる、変わってもどうってことないのさ。人は忘れるからな」
僕はよく意味が分からなかったが、会話が無理なのは直ぐに分かった。その後、やはりしわがれた声の主が言うように、列車は来なかった。
僕としわがれた声の主は、暗闇の駅舎中で、明日の朝まで列車を待って夜を明かさなくてはならなかった。
食べ物も何も持ってきてはいなかったが、一食くらいはなんとかなると思った。ただ、歩き疲れた体の疲労は辛いほどに蓄積していた。どうせ、寝ることしかできないのだから、疲労は睡眠導入には最適だった。
疲れたので、もう、寝ますと声をかけて横になろうしたとき、タバコにマッチで火を着ける音の方向を見ると、口元の銀歯がきらりと光ったのを見届けただけで、顔立ちまでは分からなかった。別に、悪い人間ではなさそうだし、疲れが過ぎて、警戒も薄くなっていた。
「寝ますね、お先に」そう行ったとき、深い川底からひびくような声で
「わしらは眠らない。眠れないのさ。」と声がした。
「地元の方ですよね、夜通しで何かをするのですか」
「‥わしは坂下清蔵だ。皆に伝えてくれ‥、待っていると‥」
その後は、また強い雨で会話の声は聞き取れなくなった。その代わり、やけに耳元で蛙の声が響いた。まるで直ぐそばに何匹もいるような、賑やかさの中で僕は眠りの着いた。
目が覚めると朝であった。木々の梢からの、昨晩の雨の雫が僕の顔にぽたんぽたんと垂れていた。駅舎はなかった。僕は駅舎ではなく、棺桶のような縦長の石板の上で寝ていた。南無峡駅と思ったのは夢だったのだろうか。果たして、ここはどこなのだろう。周囲を見渡すと、獣道を通って30メール下に南無峡駅を見つけることができた。
疲れて、幻覚を見たのかと疑っていると、僕の寝ていた石板は、鉄道工事の事故者の倒れた慰霊祈念碑であると分かった。薄気味悪いと思いながら、丸く削られ読みにくくなった数名の名前が刻まれている。読めない文字をゆっくりと眺めていると背筋が凍り付き出した。
夢の中で聞いた、あの坂下清蔵と言う名が刻まれていた。