05.グレゴリー視点
アインツ公爵家が見舞われた不幸な出来事の収拾のために、隣国で悠々自適に留学していた俺は呼び戻された。帝国の一大事だぞと説教まがいな脅迫をされては致し方なく、渋々戻っては来たが、事態がここまで拗れてから呼び戻されても俺に何が出来るというのか。精々、この事件の背景を探るぐらいの事後処理しかできないだろうに。
ベアトリス嬢と言えば、家柄の別なく接する心の広い御方だった。花のように笑い、清らかな心を持つ慈愛に満ちた聖女のような方。アインツ卿の髪と瞳の色を受け継いで、光に照らされるとうっすら赤く煌めく漆黒の御髪の令嬢だ。令嬢に憧れて、髪を黒く染めるのが一時期淑女の間で流行ったとさえ言われているほど、淑女の鏡とされていた。
だからこそ、誰も信じなかったのだ。ベアトリス嬢が、アディントン男爵令嬢に対して何かするはずはないから。そうだったらいいのにと、一部の非支持者もいるにはいたが、それ以上にアディントン男爵令嬢の態度が気に食わないと皆思っていた。見目のいい男ばかりが、アディントン男爵令嬢に骨抜きにされて破滅している。どっちの方が気に食わないかなんて、火を見るより明らかだった。
彼女達の恨みを増幅している理由はそれだけではない。アディントン男爵令嬢が王宮に匿われていることにも不満を持っている。これには実は深い訳があるのだが、知らない者達からしたら、皇帝陛下がアディントン男爵令嬢を皇太子殿下の婚約者にしようと目論んでいるのではないか、と誤解されるだろう。本当の所は違うのだが、それを言えない事情がある。
アディントン男爵令嬢は、男を虜にする魔法を使っている。それも、王族には効かない魔法。
王族は、神への信仰心の高さから恩恵を貰い、悪魔の魔法を受け付けにくいのだという。そのような事情があるのだと、皇帝陛下からの密命を受けるまでは知らなかったくらいだから、他の者が知るはずもない。
アディントン男爵令嬢が悪魔の魔法を使っているとなると、すべてが噛み合う。何故、異常なほど男達がアディントン男爵令嬢に傾倒するのか。それも、地位も名誉も恥も外聞もなく人が変わってしまう。
悪魔の御業でなければ薬物中毒でしか有り得ないだろうが、薬物を検出することはできなかったというから前者の説が濃厚だ。
その対策のために皇帝陛下は、王族ばかりの王宮に閉じ込めることを決断した。まぁ、いるのは王族だけではないから、被害を最小限に抑えるための対策とはいえ、完全に収拾できるものではないけど。
その最たる例が、目の前の男だからな。ダンフォース、お前は本当の馬鹿な男だよ。ベアトリス嬢が首謀者と疑われた事件で共犯者だと謂われなき罪を被せられ婚約破棄されたドロレス嬢は、王都に居場所をなくして辺境伯のクロノス伯爵家のフレデリックに嫁ぎ、今は第一子の安全な出産のため王都の実家に帰省している。
辺境の地は、不毛とまでは言わないものの越冬には過ごしにくい場所。母子の安全を考えれば、北の地で出産するよりもいいとの判断からだった。
ダンフォースとて、アディントン男爵令嬢の被害者だと言えるだろう。もし彼が正気に戻ったら、愛する女性が他の男に嫁ぎ、子を産み幸せそうだと知ることになるのだ。それを思えば、このまま馬鹿な男のままでいてくれた方がいいのかもしれない、なんて思ってしまう。
二人の仲がどうあっても戻りようがないことは明白だったが、幼い頃からの友情が永遠に戻りようがないのは皇太子殿下とセオドアもだ。幼い頃から皇太子殿下とセオドアとベアトリス嬢は幼馴染として共に育ち、一時期、皇太子殿下もベアトリス嬢に恋心を寄せていたはずである。
ただ、セオドアとベアトリス嬢の仲は周知の事実であったため、皇太子殿下であっても割って入ることはできず、その後は二人を見守り、二人の幸福を願っていた。
だからこそ、まさかこんなことになろうとは思いもしなかったはず。辛いのは皇太子殿下も同じだろうが、セオドアの怒りと悲しみはその目を曇らせてしまった。
誰一人信じられなくなったセオドアは、友人であるはずの俺にすら心を開かない。彼の中で、何もかもが壊れてしまったのだ。あれ程まで人を信じられなくなりながら、よく生きてくれていると思う。今にもアディントン男爵令嬢を殺しかねないほど恨んでいるが、ぐっと堪えてくれていることにも胸を撫で下ろしている。
まぁ、いつまで持つかは分からないが。
俺が、ベアトリス嬢やドロレス嬢のように親しげにアディントン男爵令嬢のことを呼ばないのは、単純に仲良くないからというだけではない。悪魔の魔法で人心を惑わず不埒さに嫌悪し、数多の人々を不幸に陥れたことが原因だ。
正直、関わりたくない。関わることもないだろうが。
俺は見た目はいい方だが、アディントン男爵令嬢のお眼鏡に適うのはどうも美しい男だけのようだから明らかに範疇外。俺は武人らしい屈強さがあるから、彼女の好みではない。俺が目を付けられることはないが、一つだけ危惧することがある。
ドロレス嬢……いや、クロノス伯爵夫人の夫のフレデリック・イワン・クロノス伯爵という男は、アディントン男爵令嬢のお眼鏡に適うほどに美しいのだ。
王都には来るな、王宮には絶対に来るなと言いたくとも、恐らく辺境の近況を報告するためという名目で妻を見舞いに来るだろう。辺境の報告のために来たのに、王宮に赴かないことなど有り得ようか。不安でならない。
未だにセオドアに腹を立てる友人に、どうやって仕事に集中させるべきか考える。無駄だな。諦めよう。こいつの話し相手をするぐらいなら、今一番の頭の痛い案件のことを考えた方が有意義だ。
今巷で騒がれているのが、とある義賊のこと。帝国内のあらゆる地で、貴族や権力者の変わり果てた姿が見つかっている。変わり果てたと言っても、死んでいるわけではない。恐らく一生目を覚ますことはないだろうが、生きてはいる。
一体誰の仕業なのか不明だが、彼等の共通点は、権力と金に糸目を付けず圧政を強い搾取していた者達だということ。中には、淫らな趣味のために領民を苦しめた者までいる。
悪辣な事情が見えて来るに連れ、未だにこのような愚か者がいるのかと腸が煮えくり返る思いだ。それをまさか義賊に思い知らされることになるとは思いもしなかったが、個人的な感情を言わせてもらえば、もっとやれ、な気持ちである。
立場的には駄目だと分かってはいるが、今すぐ被害を抑えることができない以上、機動力のある彼等に感謝し切りだ。
ただ、そうも言っていられない。どんな事情があろうと、公的な形で裁かれるべきなのだ。個人的意見と、公的立場ではどうしても後者に引き摺られてしまう悲しい性。
悪い奴が痛い目に合っているだけなんだから放っておけば、なんて言ってはいけない。
義賊の調査のためにセオドアの所属する第一騎士団と合同で調査しているのがうちの第三騎士団で、上司が驚くほどに優秀過ぎて、すべての業務が俺に覆い被さってきているのは最大の皮肉である。
あの人、現場に直行するだけで全然事務処理しない。現場に赴いた騎士が粗方の調査が済んだ後、事務処理を全部ここに持ってくる。
第三騎士団の隊長ともあろう者が、俺の処理済みの書類に判子を押すことすらしないなんてあっていいのか。あの人の判子は俺が管理しているんだが、どういうことだよ。
これはもう、俺が第三騎士団の隊長なんじゃないか?
元々戦場を駆ける猛獣と恐れられた隊長は、老体に無茶を言うな、とそんな時ばかり年齢を盾にする。五公爵家が一つ、シルヴェスター・オルコック・オークウッド公爵。俺の上司がこんなに有能だなんて、本当に涙が出るねぇ……この、戦うことしか頭にない戦闘民族が。
俺には俺で、皇帝陛下からの密命があるんだから忙しいって言うのに。そのことに薄々気付いているだろうに、儂は老眼なんだと嘘ばかり。
千里先を見るという噂は聞き間違いでしょうか? 書類を一目見て理解する頭脳明晰さがあると謳われたのは幻ですか? ただただ面倒なだけでしょう?
騎士なのにも拘らず、ここ数か月事務処理に追われて鍛錬も疎かにし、家にも帰れていない。兎も角、この書類だけは俺が直接セオドアの所に持って行くしかない。
共同調査の不便なところは、この情報のやり取りに物理的距離があることだろうか。内容が内容だけに、直接話し合う必要があるから仕方がないんだけど。
「おい! どこに行くんだ? まだ話し足りないんだぞ!」
「仕事に決まってるだろ? お前も仕事に戻れ。皇太子殿下の午後の予定を忘れたのか?」
「はっ、いけない!! ビディが殿下に会いたがっていたのを忘れていた。連れて行かなくては!」
お前は一体誰の護衛騎士なんだ? 皇太子殿下への同情心が上がって行く。馬鹿すぎて、目も当てられないな、ダンフォース。