『You Don’t Know What Love Is ~ジャズ研 恋物語~』
「彼氏のいるひとを、好きになっちゃ駄目なんですか?」by斎藤祥吾
前回のセッションから3週間ほど経った土曜日。C年の佐々木さんは親を説得して楽器購入の許可をもらったらしい。そして約束だった楽器購入ツアー@御茶ノ水に、俺は彼女と同行している。堀沿いの木々もすっかり新緑だ。
「音を変えるなら、楽器本体よりはマウスピースの検討が必要だな。いずれはそっちも考えよう」と御茶ノ水の坂を下りながら、楽器屋を訪ねていく。そういえば前にも桜子さんとこうして御茶ノ水を歩いていたな…。元気かな、桜子さん?
俺は部活と授業とゼミ、桜子さんはゼミに授業に就活。スタジオで会える日も少なくなっていた。時折交わすLINEで、随分忙しそうにしているのはわかっていた。後で面倒な事になるというより、桜子さんには今日の楽器購入ツアーの件は事前に連絡していた。
「篠崎先輩、次行ってみましょう?」
佐々木さんの声で我に返る。「ああ」と返事をして、彼女の先を歩く。
「とうとう買っちゃいましたね」と佐々木さんは嬉しそうだ。新品の楽器ケースを手に、御茶ノ水の坂を二人して上る。
「まさか結果的に、俺と同じメーカーにするなんて」俺は笑った。
「吹いてる中でいちばんグッときたのがこの子です。たまたま、偶然ですよ」と佐々木さんも笑う。ただまぁ、自分が使っているメーカー製品をそんなふうに評してくれるのは素直に嬉しい。
「後は自分の好みの音を探して、マウスピースを選べば佐々木カスタムの出来上がり」
「じゃあその時もお買い物、付き合ってもらえますか?」
「ああ、いいよ」と俺は言って、言葉を続けた。
「ところで時間も時間だし、お昼食べてないし、どっかカフェでも寄ろうか?」
「賛成です。実はおなかペコペコです」そう言って笑う佐々木さん。
そうして駅近くのカナルカフェに寄る。そうだよ、ここも桜子さんと一緒に来たんだ。
カフェで軽くパスタを食べた俺たちだったが、佐々木さんは「スタジオに行きたい」と言い出した。すぐにでも吹いてみたいのだろう。気持ちは俺だってわからなくもない。
「どうせここからなら吉祥寺まで一本だし、行ってみようか。せっかくだし俺も練習して帰ろうかな?」
「いいでしょ、先輩。名案だと思います」と佐々木さん。堅苦しさが抜けて慣れてくると、その言動は普通の女の子のようだ。
中央線に揺られながら、またまた楽器談議に花が咲く。
「先輩のマッピ、金属製ですよね。ラバーと随分違うんですか?」
「随分どころかまるで別物だよ。C年の頃にフュージョンにちょっとハマった時期があって、そのバンドのサックス奏者のセッティングを真似してみたんだけど、最初は苦戦したよ。全然音出ないんだもん」
過去の記憶が呼び戻される。本当に、この楽器で行けるのか!?と不安になりながら、それでも狂ったように練習して、やがて音が出て、その音の大きさと太さと温かさに自分で痺れた記憶だ。
「マッピ付け替えた瞬間に、笛からラッパに化けた。そんな感じがしてたなぁ」
俺は苦笑いして、佐々木さんを見た。彼女も俺を見て、微笑む。その深いブラウンの流れるような髪を、俺は記憶にとどめた。
部室に寄り俺の楽器を取り、ふたりスタジオに着くと、異変に気付いた。鍵が開いてる。誰かいるのか。
スタジオの重い扉を開ける。廊下には誰もいない。
昔はレコーディングスペースとして使っていた、大スタジオの隣のスタジオを開ける。その窓から、大スタジオの様子が見えた。あれは桜子さん?…それに、斎藤くん?
「佐々木さん、大スタジオ行こうか」と促す。
茫洋とした大スタジオで、桜子さんと斎藤くんが話している。その会話に割り込むように、「おはようございます」と俺。何なんだこのシチュエーション。
「優斗、お疲れ! そっか今日佐々木さんの楽器買いに行ってたんだっけ」その立ち姿はいつものすらりとした桜子さんそのものだった。佐々木さんはまだ桜子さんに慣れていないのか、俺の斜め後ろで「おつかれさまです」と小さく言った。
桜子さんはすぐに視線を斎藤くんに戻すと、また何か話し始めた。こくこくと頷く斎藤くん。そうして、二人して別々に音を出し始める。声を掛けることも憚られるような、鬼気迫る練習だった。
「そんじゃ、俺達も準備しちゃいましょう!」と場の空気に気圧されたような佐々木さんに声を掛ける。こういうシーンはこれから音楽やっていけば、いくらでも出会うシーンだ。
そう、自分に言い聞かせて。
練習の途中で、俺はタバコを吸いに外へ出た。ポケットからいつものを取り出すと、さっと火を付ける。何だ、この心のモヤモヤは…。その正体に気づけぬまま、灰皿に灰を落とす。何で桜子さんがいて、斎藤くんがいて、個人練を見ているんだろう?…。そもそも忙しいんじゃなかったのか、桜子さん。
すると、スタジオのドアが開いた。桜子さんだ。既に口にはセブンスターを咥えている。
「買い物、うまくいったの?」
桜子さんがタバコに火を付けて、言う。俺は、「上々でした」と一言。
「それなら良かった。お役目ごくろうさん」と桜子さんは小さく笑う。
「今日は斎藤くんと個人練ですか?」気になっているところはストレートに聞く。
「うん。どうしても、と言われて土曜に出しゃばってきたんだ。まぁ、あたしとしても最近楽器吹けなくてフラストレーション溜まってたし、まぁいいかな、と」
「そうでしたか」その言葉に、嘘はなさそうだ。そもそも嘘が付けるほど器用ではない。
俺はここに来て、モヤモヤの正体に気が付いた。これは、嫉妬だ。
「だったら、事前に教えて欲しかったです」
え?という顔を桜子さんがする。やっぱりこの人は気づいてはいない。それが悔しい。
「いくら後輩とはいえ、男と二人で会うなら、事前に教えてください。俺だって妙な勘ぐりしちゃうでしょう。そういう、小さなところの気づかいを積み重ねていくことが、恋愛ってもんじゃないんですか?」
俺のタバコは既に燃え尽きていた。灰皿にそれを捨てて、二本目に火をつける。
「いろいろ面倒くさいんだな、恋愛って」
桜子さんの言葉に、俺はイラッとした。
「そうです、面倒くさいんです。相手が自分の行動でどう思うかとか、常に想像して気にするんです。自分の意志だけじゃなくて、相手がどう思うかもちゃんと考えないと。俺はいつでも考えてますよ、桜子さんのこと。嫌われないように、変な誤解を生まないように、もっと好きになってもらうために…」
言葉が堰を切った。そうして、僅かに泣いていた。
俯いたままの俺に、桜子さんが言った。
「…すまん。そういう意味では軽率だった。ごめんなさい」
「…いいんです。俺はまだ桜子さんにとってその程度の男だって分かりましたから。でも、俺は諦めませんよ。いつか、本当に好きになってもらいます。桜子さんに。誰にも負けないぐらいの一番になってみせます」
俺はタバコを深く吸うと、二本目を憎々しげに灰皿に押し付けた。