鐘の行軍
彼が目を覚ましたのは、ずっとずっと古い昔の事で、まだ煉瓦造りの家と木造家屋だけが狭い通路を埋める時代であった。彼は真っ赤に焼かれ溶かされて、奇妙な形にされた後、彼らよりもずっと高い所に縛り付けられた。
それは実に不愉快な事件だったが、彼はその後、特別にこれを忌み嫌う事が無かった。と言うのも、窮屈ではあるが、足元の人々は彼をよく褒めてくれたし、何よりもまるで崇拝するように縋り付いてくれたのだから。
彼は、今でも目を覚ました頃に慣れ親しんだプロセッションを覚えていた。
夏に差し掛かる祈りの日には決まって人々は村中を練り歩き、彼の前を通り過ぎて酒や菓子を運んでいった。
道を行きすぎる行列は聖者を象った旗を掲げ、神への祈りを織り込んで暴力的な騒ぎを起こす。朝日に照らされたユダヤ人の撲殺体も、彼の目には目下の出来事であり、耐え難い苦痛の声と、享楽が呼ぶ熱狂との入り乱れる夜の声も、人知れず彼の下に届く。
決まって酸鼻極まる朝の光景を告げるのもまた彼であって、朝課の祈りに赴く司祭がこの血痕を辿って憤慨するのを、繰り返し、繰り返し目にした。
高い城壁から覗く陽光を真っ先に受け取った彼が鈍色に輝く様を、助祭にして年代記作家であったある人が書き残したのも記憶に新しい。煌々と照る太陽がついに市内の隅々まで行き渡った時、彼の友人もまた呟き始め、朗らかな陽気の歌を打ち鳴らすと、雪崩れ込むように彼らの足元を喧騒が覆い始めたものである。
やがて人々は煉瓦造りの街並みの中に平たく巨大な工場の群れを建て始める。彼の足元は川縁からやや離れた都心にあったので、工場に往来する黒い服の男をよく見る事が出来た。しかし、その表情を見る事が叶わなかったのは彼の心残りとするところである。
川を流れていく肥大した鼠の死骸と、虹色の油、咳き込む子供達の群れなどを、遠くから眺めるのは歯痒くもあり、やはり放蕩司祭の悪態だけはきっちり、しっかり耳に届くのだ。
それでも彼は、この頃は幾らか幸福な時間を享受できた。休日の憩いの為に口を開けば人々はこぞって彼の足元に集まってくれたし、何よりもそうするとかの放蕩司祭も満悦の様子で何やら有難い話を始めた。彼の自慢は、司祭よりも司祭の説教の内容を熟知している事で、彼が一声呟けば、人々も足元で有難そうにその声に手を合わせる。それが心地よく、何度も繰り返すうちに、彼は放蕩司祭たちよりずっと偉いような心持になって、時々時間をずらして呟いたのだが、その際には血相を変えた人々が文句を言いに来るのだった。
勿論、この文句を受け入れるのは彼ではなかったから、彼は自慢げに呟くのをやめたりはしなかったし、その後も度々呟いては怒られる人を(多くは子供達であった)他人事の様に眺めたりしていた。
彼は足元で行われる行事にもしばしば野次を飛ばした。中でも、白いヴェールに身を包んだ女と、黒い服に身を包んだ男が、件の放蕩司祭の前で誓い合う戯れが一番の楽しみであった。決まって陽が差し込み、色々な色で塗り替えられた光の筋が参加者たちの顔に当てられる。彼も艶やかな肌でゆっくりと歩く二人を見下ろしながら、涙を流す女の父親や、含み笑いの男の母親などが、長椅子に隣り合って座る。よく見れば彼らに纏わりつく色付きの光が様々な模様‐それは時には人間の形を成す事もなった‐をしている事に気付いた彼は、この凹凸に向けて一声野次を飛ばす。
すると皆が顔を上げ、頬を赤らめた男女二人が祭壇の前で向かい合う。放蕩司祭のいつになく穏やかな表情を見下ろしながら、やはり彼は野次を飛ばす。
彼らは何かを誓い合って、唇を合わせる。熱い感情に温い空気が醸成され、涙やら、接吻で混ざり合う唾液やらで彼の足元は湿気が増し、今度は野次ではなくて文句を付けに行くのだが、それも彼らには楽しい余興になるのだった。
この集まりの後にある賑やかな時間は彼にとっても楽しい時間で、何を呟いても許されるような雰囲気があった。彼は決まって一言二言野次を飛ばしたが、足元では花を投げ飛ばしたり、それに人が群がったりする競技が始まるので、彼もこの一瞬の楽しみに熱中した。
元来おしゃべりな彼が、瞳を潤ませる人の中で、もっともよく呟けるこの不定期の集まりを、楽しみに待っていた事は言うまでもない。
足元でも少しずつ変化が起こった、と感じたのは、彼の目前にある市壁が取り払われた時だった。これで彼は自分が日の出を一番乗りに見る事が叶わなくなったのを嘆いたが、同時に、彼の周りにある様変わりした友人の群れも、彼から陽の光を奪うようになっていった。
依然として彼より背の高い友人はいなかったが、それでも、ひしめき合う人々の密度が増すにしたがって、成長した彼らが呟く騒音に人々が耳を傾け始めたのは、彼には面白くなかった。
司祭が街を行きすぎる行列の行う蛮行の代わりに整備された道路の、排気ガスの臭いに悪態を吐くようになるころには、彼の足元に出入りする者も随分と数を減らしたようである。寂しさを慰めるための彼の呟きは、市壁の取り壊されたために、遠く郊外の農園にまで響き渡った。
そして、この頃から、彼の眼前が大いに騒がしくなっていった。
これまでも度々あったが、彼の足元にある綺麗な硝子も何度か破砕された。しかもこれまでのとは違って、彼の足元に振ってくる石の礫は全く無意味な、つまり、彼自身が司祭からさえも窺い知る事のなかったような空虚な事情によって打ち込まれたものだった。張り替える代わりに光を遮る分厚い紙を貼った司祭は、悪態を吐く事も無くなって、彼もまた、重い口を閉ざした。
成人した男達は皆決まった服を着て、汽車に乗り込む。彼の足元には以前の楽しい雰囲気よりも、多くの涙で湿気に満たされていた。
そうしていつしか、彼は足元でなく親の顔が、撲殺された人々の顔の形に似て歪んでいく様を目の当たりにした。
但し、一時を境に、この喧噪は過去のものとなる。それは、これまで彼が見下ろしていた人とは異なった人々が中に入ってくるようになってからだ。
彼らはマルヌがどうの、イープルがどうのとあれこれ語り合ったが、彼には全く未知の話であって、しかし、次第にその話し声が彼に視線を集め始めた。
ある時、彼はいつものように呟き、朝を告げる。暫くして、彼の足を掴んだ男達が、彼の首根っこを掴み、しがみつく手を無理やり引き剥がした。そして彼らは彼を長年縛り上げた縄を解いて、大事に彼を抱きかかえて下っていく。
彼は足元のヒトと同じ視線に立たされて、花輪を飾られる。悲壮な表情を浮かべながら見守る人々の前に、見馴れない服の男が前進する。男は彼に背中を見せるように立つと、彼を見る人々が、一斉に帽子を振るった。花輪に飾られた彼は、車に乗せられ、縛り付けられて、真っ赤に焼かれ溶かされ、遠く彼方、分厚い塹壕の下へと送られた。