猫と殺人犯のおはなし
その男の名前は横田聡介といいました。歳は27歳で一人っ子。彼の人生はうまくいかない事ばかりでした。
岩手の実家の米農家から上京して大学に通い始めたのはいいのですが、その後都内のブラックIT企業に新卒で入社する事になり、パワハラ上司へのイライラに耐えかね、上司にひどい暴力を振るって入院させ刑務所に入る事になりました。
その後は職を転々としました。前科のせいでまともな仕事にはなかなか就けず、カタギでない仕事もたくさんしました。何度も軽犯罪で逮捕されました。
ある日、強盗で得た大金の取り分の揉め事で、聡介はパートナーの男を誤って死なせてしまいました。襲ってきたパートナーともみ合っていてパートナーが転倒し、後頭部を強打して死亡してしまったのです。即死でした。
ですが、聡介は運よく(運悪くと言うべきか)証拠を一切残す事なく、誰にも見られる事なく大金を持って現場から逃走する事が出来たのです。
「俺じゃなくて、世の中が悪いんだ。」聡介はそう思いました。それから、金を持って海外へ高飛びすることを計画し始めました。
彼は岩手でメスの猫を飼っていました。聡介が17歳の頃、里親猫として引き取った茶トラの愛嬌のある猫です。ひき取った時は眼が開いたばかりでした。プリンと名付けられた猫は、聡介を兄のように慕っていましたが、すぐに聡介は上京して大学へ行ってしまい、プリンと離れ離れになってしまいました。
その後もプリンは聡介の両親に可愛がられていましたが、プリンは聡介に会いたくて心配で仕方ありませんでした。
殺人を犯して大金を手にした聡介が、ある夜ボロアパートで大酒をかっくらって泥酔していて、ふとプリンの事を思い出しました。
そして、今までの人生がとても悲しくなって、泣けてきました。涙を流しながらプリンの名を何度も呼びました。
ですが聡介はもはや実家に帰れない重罪人。泣き疲れた聡介は酔ったまま眠りにつきました。
ちょうどその頃、10歳になったプリンは、聡介が泣きながら自分の名前を呼んでいるのを、頭の中で感じ取りました。そして、聡介が今どこにいるのかも感じとりました。
飛び起きたプリンは、今すぐ聡介に会いに行かなければいけないと思いました。自分でも不思議でしたが、プリンには聡介の居る場所が常に把握できていました。それはあたかも聡介がGPSを持っていて、その居場所をプリンが把握しているかのようなものでした。
外飼い猫だったプリンはいつも通り朝、家を出ていきました。でも今日のプリンの気持ちは違いました。猫は文字を読むことは出来ませんが、猫や人の心を読むことは出来ます。岩手から東京へ向かうトラックの運転手を探し、荷台にこっそりと乗り込みました。そのトラックに何かピンと来るものがあったのです。
実はそのトラックには、聡介の両親が聡介へ送った地元の米などの食料品が入っていたのです。前科何犯にもなる聡介に何とか更生してほしいと、両親は常日頃心を痛めていました。
海外への逃亡をそろそろ実行に移そうかと考えていた聡介の元に、そのトラックが米などの入った段ボールを運んできました。面倒くさそうにドライバーと応対する聡介。ドライバーは荷物を降ろそうと荷台へと向かいました。しかし荷台に猫が身をひそめているのを見て、「うわ!この猫どっから入ってきたんだ!」と叫びました。
聡介が驚いてドライバーを追うと、そこには大柄な大人の茶トラの猫がいました。猫は聡介の姿を見ると大ハッスルして、足元に駆け寄ってきて、足に顔をすりすりし始めました。聡介がプリンと別れた時はまだ子猫でしたが、甘えている猫を見て聡介はすぐに猫がプリンとわかりました。
「プリン!どうしてここがわかったんだい?!」聡介は狼狽していました。しかしすぐにそんな事はどうでもよくなりました。
「プリン……プリン……」聡介はドライバーの目も気にせず号泣し始めました。涙が止まりませんでした。
ドライバーが帰って、ボロアパートでプリンと聡介は一緒に眠りにつきました。聡介にとって、こんなに幸せな気持ちは生まれて初めてでした。そして、こんなに気持ちよく眠れたのも初めてだったかもしれません。
珍しく朝早くに眼が覚めた聡介は、プリンを両親の元へ帰して、警察に自首するということを決意しました。実家に帰るのにはタクシーを使う事に決めました。プリンを入れるケージも買ってきました。
タクシー運転手は、「岩手まで?!猫と一緒に?!」と驚いていました。しかし、聡介の決意に満ちた顔を見て感じるものがあったのか、タクシーを出発させました。
聡介の心は澄み切った青空のごとく清らかでした。罪を償って、人生をやり直す。その気持ちだけでした。生まれて初めて、真面目に生きるという事を真剣に考えた気がします。
聡介の両親は、久しぶりに聡介を見て涙を流していました。でも、聡介はつらい事実を告げねばなりませんでした。
「母さん、俺は人を殺してきた。これから警察に自首するよ。」と。
母親は泣き崩れました。そして、「証拠は残っていないんでしょ?……自首する事ないわよ。どうせ死なせた相手もろくでもない人間なのでしょ。お願いだから、自首なんてしないで。」と懇願しました。
でも聡介の心は決まっていました。「罪を償って、人生をやり直したいんだ。」と聡介は言いました。
自首した聡介は、傷害致死罪と強盗罪で有罪が確定しました。
刑務所に入る事になりましたが、聡介は刑務作業にとてもやりがいを感じていました。今までは前科があったりして後ろめたい気持ちで働いてきましたが、今はまるで違います。聡介はあくまで常にポジティブでいられました。聡介は模範囚として評価され、10年の時を経て釈放されました。
聡介は真っ先に実家に戻りました。プリンはもう亡くなっているだろうな、とそれだけが悲しかったです。
でも、驚くべきことにプリンはまだ生きていました。玄関で聡介を歓喜の顔で迎え入れた両親は、「プリンはまだ生きているけど、認知症になってしまったんだよ。しょっちゅう粗相もするし。もうあんたの事も覚えてないんじゃないかな。」と言いました。
しかし、プリンは聡介の事をはっきりと覚えていました。10年前のように大ハッスルして、聡介の脚に顔をすりすりし始めたのです。
聡介は、「プリン、待たせてごめんね……。」と涙を流しました。でも、プリンが生きていてくれて本当に良かった。それが聡介の本心でした。
それから、聡介は米農家の両親の仕事を手伝うようになりました。最初のうちは村八分状態でした。当然です。聡介は人を殺したのです。聡介は近所中で土下座をして回りました。最初は腫物に触るように怖がって聡介を避けていた村人たちの中にも、誰にも文句を言う事なく、ただ懸命に額に汗して働く聡介の姿を見ていて、徐々に聡介の立場に立ってくれる人が増えていきました。聡介は、働くという事が幸せでたまりませんでした。
そんな聡介の姿を見て安心したのか、それまで生きようと頑張っていた緊張の糸が切れたのか、プリンの体調はひどく悪くなりました。動物病院に連れて行きましたが、もうプリンの命は長くないと言われてしまいました。最後は家で家族で看取りたいと、退院する事になりました。
家族で動物病院から家に帰ってきて、聡介はプリンに声をかけました。
「プリン、お医者さんはああ言ってたけど、まだ大丈夫だよね。元気になろうな。これからもみんなで幸せに暮らすんだよ。」
プリンは見る見る弱っていきました。でも、撫でてあげると喉をゴロゴロと鳴らしました。プリンが完全に動かなくなると、聡介はプリンを励ましました。「これからも一緒にいてくれ。お前は俺を助けてくれたじゃないか。恩返しをさせてくれ……。」と。
すると、プリンの呼吸は回復しました。でもまたすぐに呼吸は止まりました。そんな事が何度も何度も繰り返されて、聡介は心が変わりました。両親に言いました。
「もう、いいよ。プリンは十分頑張った。もう天国へ行かせてあげよう。」
次にプリンが動かなくなったとき、聡介は声をかけず、ただひたすらにプリンをギュッと抱きしめ続けました。するとほどなくして、プリンは虹の橋を渡りました。聡介にはプリンの顔がとても安らかな顔に見えました。
聡介は涙をこぼしながら、「プリン、俺の人生を救ってくれてありがとう。」と別れの言葉をかけました。
聡介はプリンの安らかな顔とプリンのぬくもりが、重さが、今でも忘れられません。自分の人生を救ってくれた、自分を立ち直らせてくれたプリン。
聡介はプリンの事を、一生忘れる事はないでしょう。