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母は、昭和生まれではあるがすでに齢八十を越えていた。その母
の氷のように冷たい手を両方の掌で包み込むようにして握りながら、
「ここも危ないかもしれない」から安全だと判るまで「一緒に東京
へ避難しよう」と促したが、「そったらとこ行がね」と頑として従
わなかった。説得するわたしにしても、これまでとは何一つ変わら
ない長閑な雰囲気に呑み込まれて自分が騙されているのかもしれな
いと思ったほどで、それでも、これこそが放射線被曝のほんとうの
怖ろしさなのだと自分に言い聞かせて母を説得すると、母は、
「東京さ行くぐれぇなら、おらここでくたばってもかまわねえ」
とまで言うのでそれ以上無理強いできなかった。母にとってみれば、
いくら安全だと言われても、人で溢れ返っていても人との繋がりが
希薄な東京でカゴの中の鳥のように無意義に余生を持て余すくらい
なら、住み慣れたこの土地でたとえ人が居なくなっても自然に満た
されて自足した余生を全うすることの方が有意義かもしれないと、
ついにはわたしの方が引き下がった。
その後も原発の関係者らは事故が起こった原因を想定外だったと
認めながらも、その後の状況を想定内に押し込めるために事実に拠
らない想定を、つまり安全神話を語り続けた。ただ、もはや誰も彼
らが語る神話など信じなかった。そして、放射能汚染の恐怖はただ
見えない放射線に対する恐怖だけでなく、事実の隠ぺいを図ろうと
する関係者に対する不信によって更に増幅され、増幅された恐怖は
如何わしい風評さえ生んだ。環境破壊の恐怖は真実を知らされない
不信によって増幅されるのだ。そして、忘れてはいけないことは、福
島原発事故は終わってしまったことではないということ。今も増え続
ける汚染水(冷却水)がそれを物語っている。
次の日の夜は、母が寝起きするベットの横に布団を敷いて並んで
寝た。話したいことはいっぱいあったが、いっぱいあり過ぎて何を
話していいのかわからなかった。しばらくして、母は可愛くてしか
たのない孫の己然のことを訊いた。わたしは、それから家族のこと
を話した。ただそれはこれまでにも話したことの繰り返しだったが、
オレンジ色の明かりだけが灯された部屋で初めて聞くことのように
静かに聴いていた。母は寝ている間に何度か用を足しに起きるの
で明かりを消すわけにはいかなかった。父が死んでからはそれま
で課していた生活の規範のようなものも緩んでしまい、今では深夜
ラジオを聴きながら寝るようになったと恥ずかしそうに告白した。こ
こで母の一生を語るほど彼女は世間から外れた人生を歩んできた
わけではなかったが、世間から外れずに生きることが決して容易い
ことでなかったことは二重に折れた腰や、わたしが子どもの頃、毎
晩彼女の足を揉まされたにもかかわらず歪んでしまった膝、そして
何よりも意に沿わなければ決して従おうとしない頑なな意志によっ
て拒まれる度に気付かされた。ただ言えることは、彼女は生涯「自
由」などという言葉とは無縁だった。自我を主張することは賎しいこ
とだと思っていた。自分が口にするものはみんなが食べ終えた後の
残り物ばかりだった。息子のわたしは、ただ耐え忍ぶばかりだった
母の人生が口惜しくてならなかった。そして、そんな人々のささやか
な生活さえも奪ってしまった原発事故が許せなかった。
復興ボランティアに参加する日の朝、わたしはタブレット型の端
末を母に渡して孫の己然を撮った映像を見せた。もしかするともう
己然をここへ連れて来ることができなくなるかもしれないと思った
からだ。そんなことは母には言わなかったが、簡単な操作を手を取
って教えて、これから毎日でも己然が映った動画を送るからと言う
と、ケイタイ電話さえも充電器に置いたままにして携帯したがらない
母が孫娘の姿に釘付けになって、画面の中の己然が「おばあちゃ
ん、おげんきですか?」と言うと、もちろん繋がってなどいなかったが、
「はい、元気ですよ」と嬉しそうに応えた。そして、母がもう一度ちゃ
んと使い方を教えてくれと言うのでそうすると、すぐに覚えて自分で
画面をスクロールして見入っていた。
ボランティア活動は、もちろん原発の周囲二十キロ圏に設定され
た警戒区域の外での作業で、不明者の捜索や被災者の支援、瓦礫処
理など人の手が幾らあっても困らないと歓迎されてから津波に襲わ
れた沿岸部の被災地へ連れて行かれた。ボランティアには予めそれ
ぞれの経験を活かせるように現場を選べるようになっていたが、た
かが三日間の滞在では慣れた頃に帰らなければならなくので下働き
に徹するつもりでいたが、経歴か、いや、それとも年齢を考慮された
のか、救援物資を管理する作業に廻された。見ず知らずの者たちば
かりの集まりとは言え、みんなの想いは一つだったからなのか、馬
鹿げた自己主張や愚かな反目もなく、いや、あってもすぐに片が付
いてその後は何もなかったように協力し合い思いのほか順調に作業
が進んだ。では、いったい何故普段の会社での仕事ではくだらない
人間関係に悩まされることになるのだろうか?たぶん、みんなの想
いが一つではないからではないだろうか。競争社会の下ではあから
さまな功利主義が幅を利かせ、競争の原理は本来協力し合わなけれ
ばならない仲間同士の隙間に浸透し、遂には手を貸してくれるはず
の相手に足を引っ張られる。つまり、われわれの共同体は共有すべ
き理想を失いそれぞれが功利を求めて競い合っているのだ。
一日の作業を終えて、高台にある学校を借りた避難所の校庭から
夕闇に覆われていく無残な大地とその向うに拡がる黒い海面とその
水平線さえ飲み込んだ暗黒の夜空に星々の光が何もなかったように
きらめく上空を眺めながら、何とも口惜しい想いでいっぱいだった。も
しも原発事故さえなければ、この大地と海と空さえあれば、たとえ何も
かも奪われたとしても、われわれは再びやり直すことができたのだ。
ただ、原発さえなければ・・・。