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年末年始はここ何年かはわたしが生まれ育った実家へ里帰りする
ことにしていた。それは下の娘がスキーをするのが殊のほか気に入
ったからで、幼なじみがスキー場で営む民宿にも毎年予約していた。
ところが、去年は「3.11」後だったこともあってさすがにそれ
どころではなかった。幸いにも実家は内陸にあったので津波の被害
は免れたが、あっ、言い忘れていたが、実は、わたしのふるさとは
福島県である。
3.11大地震が発生した時、わたしは都内にある会社の三階に
居てこれまで経験したことのない大きな揺れに驚き、棚から落ちて
くる商品サンプルとか宣材や資料、それどころか壁際に設えられた
棚そのものが倒れてきたので慌てて机の下に身を隠したほどで、し
ばらくして落ち着いた後も雑然とした職場で各店舗の被害を確認す
る作業に忙殺され、福島の実家で独りで暮らす母親の安否を確かめ
る余裕などなかった。テレビは毎度のように地震の大きさを伝える
際にはスーパーの陳列棚から商品が落ちる様子を流すが、商品を並
べて商いをする商店にとって突然襲ってくる地震ほど対処する術が
ないものはない。商品の損失だけに止まらず、落ちてくる商品で買
い物客が被害に遭わなかったかとか、さらにその後に停電でも起れ
ば大量の冷凍食品を急いで移動させなければならない。わたしは、
震災後の処理に追われてその夜は会社に泊まり込んで業務の復旧に
取り組んでいたので、それにデンワも繋がらなかったので、もちろ
ん気掛かりではあったが、ただ自分の家族の無事を確かめることし
かできなかった。ところが、次の日の夕方にテレビニュースを見て
いてビックリした。原発施設が爆発して白煙が舞い上がる映像が流
れた。それは、それまで政府や東電が発表していた状況を把握して
いるかのように説明していた事態とは明らかに違っていた。これは
怖ろしいことになるのではないか、そう思って妻にデンワして、何
とか母と連絡を取って安否の確認はもちろんのことだが、すぐに福
島を離れるように説得して欲しいと頼んだ。
翌日になって、妻が母とデンワが繋がったと言ってきた。つまり、
母の無事が確認された。そして、母が独りで暮らす実家の方も母屋
の障子と桟に元からあった隙間がさらに拡がったり、もういつ崩れ
ても不思議ではなかった納屋が半壊した程度で大した被害はなかっ
たとのことだった。わたしは、最も怖れていた原発事故による放射
能汚染のことを聞くと、妻が言うには、母は、もう今さら住み慣れ
た土地を離れて他所で暮らしたいとは思わないと、持ち前の会津人
気質から頑として受け入れなかった。それを聞いてわたしもすぐに
母にデンワして危険が差し迫っていると説得したが母の気持ちが変
わることはなかった。だがその後も、政府と東電と役人たちが代わ
る代わる東京から発表する、それは決して事故現場の福島原発から
ではなかった、嘘が吐けなくなるから。謂わば「平気で嘘を吐く者たち」
による情報の隠蔽と事実が暴露された時に開き直った自己弁護を聞
いているうちに、この国の過去の忌まわしい姿が蘇えってきた。それは、
国民を犠牲にしても国体を守ろうとする国民主権を蔑にした国体思想
ではないか。もはや大本営発表には決して騙されないぞ!と思いなが
らも、一体どうしていいのか分らなかった。彼らがやっていることは、北
朝鮮や中国の当局が国家権力によって既得権益を守ろうとしてやって
いることと根っこは同じではないか。
幸いにも買い物客への大きな被害はなかったが、それでも、地震
で壊れた店舗の修復や壊滅的な津波被害を受けた東北地方からの納
品が途絶え新たに仕入れ先を探し出すことなど、業務を元通りに戻
すまでに三か月ほど費やした。それから、わたしは五日間の休暇を
取って初めの二日間を母親の居る会津の実家に戻り、残りの三日間
を県内での復興ボランティアに参加するつもりでいた。ただ、放射
線被曝を怖れたので家族の者は同行させなかった。
すでに幹線道路は驚異的な復旧を成し遂げ、走り慣れた道を迂回
しなければならなくなるようなこともなかった。走行していると普
段はあまり見慣れぬ作業車が頻繁に行き交っていたが、ひとたび幹
線道路から外れて県道や農道に入ると、たまに倒壊した家屋や道路
の崩壊、山崩れなど、通りすがりに目にすることはあったが、それ
も、テレビなどで何度も大津波に飲み込まれる沿岸部の街の悲惨な
映像を見せられたからか、想像していたよりは軽微に思えて、子ど
もの頃から慣れ親しんだ風景にさほど大きな変化は感じられなかっ
た。それは拍子抜けするほど普段通りだったので安堵さえ感じたが、
すぐに、放射能汚染は目には見えないことを思い出して経験したこ
とのない恐怖に襲われた。もしも、日常の変化は何も起こらず、そ
れでも確実に人々の健康に大きな影響を及ぼす目に見えない物質が
ばら撒かれているとすれば、いったい我々はその恐怖とどう向き合
えばいいのだろうか?生きものたちが生成し育まれてきた大気や大
地や水が、人為的な行為によって変化させられて、自然環境の変化
はほぼ永久に元通りにはならないとすれば、還るべき環境を失った
生命はもはや滅びるだけではないか。わたしは、放射線汚染という
まったく異状にすら気付かない恐怖、その限界さえも知り得ない未
知の恐怖、つまり、何が恐怖なのかさえも確認できない実体のない
絶対恐怖とどう向き合っていいのか分らず、東京のアパートの一室
でいつも脳裏に浮かんでいた変わることのないふるさとの山々の稜
線を飽きもせずにいつまでも眺めていた。