表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無題  作者: ケケロ脱走兵
43/45

(43)

「なんだ、美咲か?」


 暮れも圧し迫り、残された日数をカウントダウンし始めたある夜


一人暮らしをする娘の美咲が私の携帯にめずらしくデンワしてきた。


「おとぅさん、元気?」


彼女は、何とか東京の大学への転入を果たして、家族旅行で知り合


った例の伊豆の木下さんの息子と付き合っているはずだった。


「何かあったのか?」


「別に・・・、お父さんの声が聴きたかっただけ」


声の様子は普段の美咲とは違っていた。彼女は酔っていた。ふつう、


一人暮らしをする若い娘がクリスマス前夜に父親の声を聞きたくな


るはずがなかった。わたしは、例の自傷騒動があってから、美咲に


は辛いことがあれば何時でもデンワして来いと頼りがいのあるとこ


ろを見せながら、実は、年頃の娘の私生活にどこまで首を突っ込ん


でいいものなのか戸惑っていた。


「お、お金あるのか?」


「うん」


「風邪ひいてないか?」


「うん」


彼女のこころの中に冷たい塊りがあることは分ったがどうしていい


のか解らなかった。美咲は、都内のダイビングスクールでCカード


を取得して、冬休みになればスキューバをするために伊豆へ行くこ


とを楽しみにしていると、それは妻から聞いていたので、


「スキューバしに伊豆へ行くんだろ?」


と、ようようの思いで彼女の私生活を訊ねた。すると、


「んんん、もうやめた」


「なんで? き、きのした君に逢いに行かないの」


父親は娘に向って彼氏の名前を口にすることがこんなにも勇気のい


ることかと躊躇していたが、彼女が酔っていることがわたしの躊躇


いを解いた。それどころか美咲は、


「もう、別れちゃった」


と、わたしに自分の私生活を暴露した。


 深夜近くだったので家の者はすでに寝ていたが、それでも静まり


返った夜に一人話し声を出すのは憚られた。短いあいづちしか返さ


ないわたしに娘は何度か、「ねえ、聴いてるの?」と確かめた。そ


の言い方がまるで友だちに向って言ってるみたいで、おそらく娘は


酔ってしまってデンワの相手が父親だということを忘れてしまった


に違いない。その娘が言うには、彼氏のことを「あいつ、博愛主義


なんだから」と、おお、イエスのアガぺーはいまやエロスにまで敷


衍されるまでに到ったかと感じ入ったが、先告のような事情があっ


て私は黙って聞いていた。木下君はイケメンで日焼けした精悍な風


貌から一瞥しただけで都会に居るいわゆる草食系男子とは印象が


違っていた。それは、わたしが彼の父親と始めて遇った時に受けた


チョイ悪親父の印象とそれほど違わないのかもしれないが、簡単に


言えば女好きのするアイテムを備えていた。一方の娘の美咲は、実


の父親から受け継いだ生まれ着きの品の良さは備わっていたが、


両親の離婚という精神的な苦痛による「質」の歪みがそれを台無し


にした。


 美咲が言うには、彼は地元でスキューバ、じゃなかったスクーバ


ダイビングの講習を通して知り合った気に入った女性にすぐに手を


出すことはすでに業界では知られていて、これは都内にあるダイビ


ングショップの男の店員が教えてくれたらしいが、日本全国には彼


を恋人だと勘違いしている女性が数え切れないほどいるらしい。美


咲はまるで自分のことを言われているみたいでドキッとしたが、彼


にしてみれば、ダイビングをしにくる彼女らが現地で鉢合わせしない


ように予定を組むことが、本来のダイビングサービスの予約以上に


苦心するらしい。更に、クリスマスが近づいてくると、彼の恋人たち


がその日に殺到して最早どう段取りするかではなく誰を切るかの決


断が迫られて苦渋する。美咲は、彼がデンワでの会話で何度か名前


を間違えたことに不安を覚えたが、学校が冬休みになればまた逢お


うと約束してくれた言葉を信じて恐る恐るデンワで確かめると、彼は


あっさりと、その頃はすでに予約が一杯で部屋が空いてない、と冷た


く遇われ、自分も騙されていたことを知った。


 堪えていた感情を爆発させながら早口でまくし立てたあと、美咲


は、


「もうっ、何もかも信じれへん!」


と、おかしな関西弁でそう呟いてから黙り込んだ。わたしは、ふと、


もしかしてケイタイを持つ彼女の手首からはすでに自傷によって鮮


血が滴り落ちているのではないだろうかとあらぬ不安が頭を過ぎっ


た。そして思わず、


「美咲っ!早まっちゃダメだぞ!」


と、言葉を控えていたことを忘れて、さらに我を忘れて感情のまま


叫んでしまった。すると、彼女は、


「ゲッ!何で、おっ、お父さん?」


美咲は、話し相手がわたしだったことを思い出すと、「あっ!」と


叫んで同時に「ガチャン」という音がして、ケイタイを落としでも


したのだろうか、声がしなくなってすぐにバタバタと慌ただしい部


屋の様子だけが聞こえた。わたしは何度か「美咲!」「美咲!」


と呼び掛けた。しばらくしてから美咲がケイタイに出て静かに、


「手、切っちゃた」


と言ったので、わたしは「てっきり」不安が的中した思い込んで、


急いで妻の部屋に駆け込んで寝ている妻を起こして事の顛末を伝え


て、


「救急車を呼んだ方がいいか?」


と言うと、妻はベットの上で上半身を起こして、そのケイタイを取り上


げて両手で握り締めて顔に当て、


「美咲、どうしたの?またやったの?」


と訊いた。しばらくして、美咲の話を聞いていた妻はやがて笑い始め


た。妻がケイタイの通話口を塞いでわたしに説明したことによると、


娘はケイタイをワイングラスの上に落としてグラスが割れ、それを片


付けている時にその破片で指を切ったということだった。そして、妻


は私の顔を呆れたように眺めながら、


「ほんとにお父さんはそそっかしいんだから」


と、娘に笑いながら語りかけた。わたしはうつむいて所作なくボーっ


と突っ立っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ