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無題  作者: ケケロ脱走兵
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(42)

 熱力学の分野にエントロピー増大の法則というのがあって、例え


ば、冷たい水に熱い湯を注ぐと、次第に混ざり合って均一な温度の


温い水になる。混ざり合った状態を混ぜる前より「エントロピーが


増大した」と言い、元の冷たい水と熱い湯に戻ることは出来ない。


エントロピーは増大するばかりで減少することはない。本来は熱力


学の量単位として考え出されたらしいが、熱力学の範囲を越えて様


々な変化にも応用されている。簡単に言えば「覆水盆に返らず」とい


う不可逆性のことだが、例えば、非日常的だったミニスカートブーム


も何度か再ブームを繰り返すうちに男の目も慣れて初めて目にした


時の衝撃は薄れて、今では携帯のカメラで盗撮する変質者くらいしか


興味を示さなくなり、どれほど熱狂的なムーブメントであっても何れ冷


めて定着する。近代文明は、科学技術の進歩に伴って様々な製品や


社会インフラを創り出してきたが、謂わば、温い水に常に熱い湯を注


ぐことによってエントロピーの増大を阻止してきたと言えなくもない。し


かし、熱い湯を注ぐ度に冷たかった水は次第に熱くなり、注がれる熱


湯との温度差が小さくなるとついには熱湯はポテンシャルを失ってし


まう。たとえば、やがて新幹線が日本列島を網羅する日が来ても、た


ぶん初めて東京-新大阪間で開通した時に比べて国民の関心は低


いだろう。すでに逆上せ上った国民は如何なる熱湯が注がれても興


味を示さなくなり、今では、反対に冷水が注がれることの方を待ち望


んでいるのではないだろうか。じゃあ、そもそも冷水とはなんだろうか?


たぶん、近代文明によって失われた自然環境ではないか。


 江戸落語に「花見酒」という話があって、向島の花見客を当て込


んで酒を売ろうと目論んだ酒好きの二人連れが、借りてきた酒を


花見客が来る前に二人だけで交互に売り買いをして飲み干してし


まい、結局、借金だけが残るというオチである。ある政党が打ち出


している金融緩和とそれによって賄われる公共投資は、これまで何


度も同じことを繰り返して債務を一千兆円も積み上げてきたはずだ


が、またも既得権益に群がるアンシャン・レジームによってデフレ経


済からの脱却を名目に、謂わば、国民から借りてきた金で「花見酒」


をしようとしているのだ。つまり、国民に酒が振舞われることは一切


なく、ただそのツケだけが回ってくる。


 東日本大震災後、降って湧いたように社会インフラの耐震化への


備えが叫ばれて、その声を耳にした政治屋が「国土強靭化計画」な


どと如何わしい投資話をでっち上げて、債務に怯える国民から再び


金を巻き上げようと企んでいる。負債に苦しむ債務者は何度でも同


じ手口に引っかかるというが、そもそも、地震への備えが消費にど


れほどの波及効果を生むだろうか。実際は備えたからといって何時


巨大地震が襲って来るのかさえ判らず達成感をもたらさない。仮に、


地震がやってこなければ、もちろんその方が良いのだが、それらの


投資は全く無駄になるわけで、起こらない方が良くて、万が一起こっ


た時のために備えるのは保険である。しかし、ふつう借金に苦しむ者


は何よりもまず借金を返すことが先決で、それを差し置いて万が一の


時の為にわざわざ借金を重ねてまでして保険に入るだろうか?資本


家にとっても耐震化のための設備投資は直接的な利益へ反映しない


支出で、もしもやらなくて済むならそれに越したことはない。私は何も耐


震化など必要ないと言っているのではない。ただ、そんな防災対策をデ


フレ脱却の柱に据えようとしていることに疑問を感じる。そんなものに国


民が景気の気を緩ませて消費を喚起させるとは到底思えない。改めて


言うことでもないが、強靭化する前に、まず病んだ患部を治癒して健全化


することの方が先決ではないか。


 ふたたび「エントロピー」の話に戻しますが、我々は高度成長期の


目覚ましい成功体験から抜け出せずに、もう一度同じ成功を望んで


同じ熱湯を注ぎ込もうとしている。しかし、すでに器の水は温くなって


いて最初に熱湯を注いだ時のような強烈なポテンシャルは失われて


しまっている。若い頃にビートルズに嵌ってしまって毎日のようにビー


トルズばかり聴いていたが、実際、彼らほど過去の成功に縛られず


常に新しい試みに挑戦し続けたバンドはいなかったのだが、それで


もさすがに飽いてしまい、ついには鬱陶しくさえ思えるようになった。


初めてビートルズの曲を聴く時と何度も聴いた後では同じ曲であっ


てもかつての新鮮さは失われてしまう。つまり、いくら優れた技術が


あっても、たとえば車にしろテレビにしたって、どれほど技術進化し


たところで同じ製品である限り最初のポテンシャルを取り戻すことは


出来ない。すでに車やテレビはコモディティー化して、じゃなかった、


エントロピーが増大して新しい変化が生まれなくなっている。東京-


大阪間がリニアモーターカーによって1時間足らずで結ばれようが


劇的な変化は起きない。いま、社会が陥っている閉塞感は、我々自


身の文明社会に対する関心のエントロピーが増大して新しい変化に


反応しなくなったからではないか。もしそうだとすれば、いくら過去の


成功を甦らせても、人々の欲望を満たすことはないだろう。既に過ぎ


去ったブームには概ね世間は冷ややかなのだ。つまり、我々は過去


の栄光の幻想を追い求めている限り新しい時代を迎えることは出来


ない。同じ夢を追い求めても同じ歓びを得られないのだ。我々は、エ


ントロピーが増大した閉鎖的な蛸壺社会を開放して新しい変化が生


まれる社会、新たな熱湯のポテンシャルが失われずに新しい変化が


生まれる仕組み、蛸壺に溜まった温い湯を入れ替えなければならな


いのではないだろうか。これまで我々は過去の栄光の再現ばかりを


夢見て、変化への対応を怠ってきたのだ。


 私が「近代文明の終焉」という時にまず頭に浮かぶのは「無


限性の終焉」ということです。人間は、産業革命以来、営々と


科学技術を発展させ機械文明を築き上げてきましたが、しか


し、それを可能にしたのは、我々の能力以前に無限に拡がる自


然界、つまり、因果性を無視できる外部が存在したからです。


ところが、今や巨大化した人間の欲望は世界の限界にまで到達


して、ついに世界は外部を失い内部化してしまった。その結果、


近代文明が我々にもたらす豊かさは、一方で自然環境を変化さ


せ災害をもたらす因果性を無視することができなくなった。内


部の限界性は、若しくは近代文明の豊かさと言ってもいいが、


外部の無限性を喪失することによって終焉を迎えようとしてい


る。


 世界のグローバル化によって外部を喪失した近代文明は、今


やその内部を失わんがために宇宙にまで進出しようとしている。


人間は科学技術を手に入れて以来、主にそれは西欧社会によっ


てだが、常に外部を求めて進出と征服を繰り返してきた。何故


なら科学文明もやはり外部に、つまり自然界に依存しなければ


成り立たない文明であるからだ。敢て言えば、如何なる文明も


その拠るべき環境を喪失することによって終焉を迎える。人間


にとって、無限性を失った外部、限界に達した自然環境は、近


代文明のその内部に反射され、科学技術の進歩こそが近代文明


を滅ぼすに違いない。それはあたかも、成長を担ってきた細胞分


裂が、成人に達したにも拘らず増殖を止めないで癌細胞となって


身体を蝕むように。たとえば、いずれ何万年後かに人類の末裔が


火星人となってどれほど存在の歓びを(ほしいまま)にしようとも、


地球内存在として終えることはまず疑いようのない私にとって、更


なる科学の進歩を期待して無限の宇宙を彷徨う夢まで追うつもり


はない。何故なら、夢とは現実からしか生まれないのだから。 


 限界を迎えた文明の中で生きることとは、さながら金魚鉢の


中の金魚のように、すべての可能性を奪われて生きることでは


ないか。夢や希望といったものは無限性から生まれてくるもの


だった。しかし、限界を迎えているのは決して世界ではない、


文明の方なのだ。われわれは何時だって無限の世界と繋がっ


ているのに、ただ、われわれが金魚鉢で生きることを望んでい


るだけではないのか。われわれがこの物質文明の限界にしが


み付いている限り世界の無限性を取り戻すことは出来ないに


違いない。金魚鉢が無限の大海に開かれていても、われわれ


は金魚鉢から出ることが出来ないのだ。では、金魚鉢の金魚


はどうすれば無限性を取り戻すことが出来るのだろうか。文明


の限界から無限の世界を振り返るしかないのではないか。ほら


っ、よく見ろ!世界が終わるのではない、われわれが終わるだ


けなのだ!


 文明の限界から世界を見渡せば、無限へ拡がろうとする文明


とは異なった世界が見えてくる。科学文明と謂えども自然内存


在である限り、地球規模を越えて無限に発展することなど有り


得ない。従って、グローバル化した近代文明はいずれ地球内文


明としての限界によって終焉を迎えることだろう。たとえば、


エネルギー資源が底を突けば忽ち市場は閉ざされ、国家統制の


下で燃料が配給される社会はもはや自由主義経済ではない。実


は、すでにそれとは反対に、社会から出される廃棄物には様々


な規制が掛けられていて、無暗に不用品を廃棄することは許さ


れない。資本主義経済は、無限に拡がる世界が前提であるが、


いまや資源としての地球ではなく、ゴミ箱としての地球の限界が


近付いているのだ。いずれ、古いものを捨てることが出来る富


裕者だけしか新しいものを買うことが出来ないようになるに違い


ない。その象徴的な例が原発から出る放射能廃棄物ではない


か。山へ登ろうとする者は往々に山を降りる時の用意を怠る。


そもそも、原発技術は下山することの出来ない山にもかかわら


ず登ってしまったのではないか。私は、この文明が新しいもの


が生み出せずに破綻するだろうとは思わないが、しかし、古い


ゴミを捨てることが出来なくなって、つまり、元の自然環境を取


り戻せなくなって終焉を迎えるだろうと信じている。

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