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得体の知れない不安とは未知の恐怖であり、その恐怖がたとえ絵画
であれ自分の認識と曲がりなりにも相関させることができて未知の恐
怖から多少なりとも解放された安堵感からか、まもなく電車が自宅近
くの駅に到着するにも拘らず、眠りを誘う快適な揺れに気を緩ませて
つい眠り込んでしまった。
恐怖は初めて体験する時が一番怖ろしくって、二度三度と同じ体験
をするに従ってその絶対性が失われて慣れてしまう。我々が死ぬこと
を最も怖れるのはその体験が一度限の絶対的なことだからだ。例えば、
もう一度だけ蘇えってやり直せるとなれば、死は我々を怖れさせず、
と言うのは二度目の絶対死さえ一度死を体験しているので未知ではな
い、だから、この一回性こそが恐怖をもたらすのだ。また、神がもう
一人存在してもその絶対性は失われてしまうだろう。恐らくキリスト
教が凋落したのはイエスを神の子として認めたからではないか。イエ
スへの信仰が神の絶対性を損なわせたのだ。絶対とは唯一無二で相対
化できない。神の使いとしてイエスが現れイエスに対する愛が神その
ものに対する信仰を失わせた。我々はキリスト教をイスラム教のよう
な一神教として捉えているが少し違うと思う。キリスト教は神と神を
補完する神の子イエスの、相応しい言葉が思い付かないが、謂わば「
二神教」なのだ。その神の子イエスは神による救済を説いた。しかし、
信仰とは決して説明によって理解されるものではない。イスラム教の
ように「考えるなただ信じろ」こそが信仰なのだ。ただ、イエスの言
葉が残されなければ懐疑主義は生まれず、従って論理的思考は育たず
科学は今のように発展しなかったかもしれない。パスカルやデカルト
は謂わばイエスの申し子なのだ。つまり、イエスは人々に神による救
済を説いたが、その語った言葉こそが後の人々を論理的思考に導き物
質文明を発展させ実存主義を生んだ。しかし、神による救済とは相対
世界で生きるものの絶対への不安、死への恐怖からの救済であった。
我々がいくら神の存在を否定しても依然として死の不安から逃れるこ
とができたわけではない。話しが逸れてしまったが、未知への恐怖と
はその絶対性に対する恐怖なのだ。
目が覚めると下車すべき駅はとっくに通り過ぎてしまっていた。車
内を見回すと見覚えのある乗客は誰も居なくなり、電車を降りた後に
タイムカードを押すような通勤人の姿は自分以外見当たらないほど社
会的義務から開放された寛いだ乗客に囲まれていた。斜め向かいの席
の人々は缶ビールを飲んでいた。車窓からは人家が途切れた先に水平
線が見えた。電車はどこら辺りを走っているのか分らなかったが、つ
いさっきまで私が居た世界、夢の中で織りなされた出来事を記憶に留
めようとして再び重い目蓋を閉じた。