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駅への往来のためだけの通路と化したシャッター商店街へ引
き返すと、再びあの貼紙が目に入った。
「『無料!』店舗貸します」
実は、私はスーパーを辞めてから、自分で何か商売を始めたいと
思っていた。永く他人に使われていたからかもしれないが、仕事を
するにしても、もう他人の下で働く気がしなかった。かと言って、何か
考えがあるわえでもなかったが、ただ、これまでの経験から青果を
扱うことしかできないだろうと思っていた。しばらく、その貼紙の前で
佇んで居ると、横のドアが開いて中から禿頭の老人が出てきた。そ
の老人と目が合ったので、頭を下げてその場を立ち去ろうとすると、
彼は、私を呼び止めて、私が勤めていたスーパーの名を口にして、
「確か、以前そこの店長さんをされてましたよね」
と、言った。私は、
「ええ、随分前のことですが」
と、答えた。私が務めていたスーパーの店舗はこの商店街とは駅を
挟んだ反対側にあって、そして、私が店長だったのは十年以上も前
のことで、それを老人は覚えていた。そして彼は、
「実は、あっしは戦後からずーっとここで青果を商っていたんです
がね、数年前に腰を患ってしまって、それで店を閉めたんでさぁ」
「ああ、そうですか」
私は、彼がここで八百屋を商っていたことなど知らなかったが、彼は、
私がスーパーの店長だったことを知っていて、それで私に何か恨み
でも吐こうというならさっさと立ち去るつもりでいたが、好々爺然とした
表情からそんな粗雑な様子は微塵も窺えなかったので黙って聞いて
いた。彼は、
「もっとも、そんなことがなくたって御覧のような有様で、昔はこ
の商店街を避けて遠回りした方が早く駅に着くことができた程の賑
わいだったが、今では恰好の抜け道でさぁ」
「ええ」
「わたしも店をやめたにも拘らず、代わる者が居ないから仕方
なくここの理事長を辞められずにいるのですが、」
すると、すこし前屈みになっていた躰を辛そうに反らしてから、
「おお、こんなところで立ち話もなんですから、お時間がよろしけ
れば中でお話しませんか?」
彼の方からの一方的な話を聞かされて、何が言いいたいのかが
分らずに立ち去る口実も思いつかず、ついには、老人の腰の具
合まで気遣う破目になってしまって、仕方なく事務所の中のソファ
に腰を下ろした。
事務所の中を詳しく描写する気にならない。そこは、凡そ誰もが
思い描く事務所と異なる場所ではなかった。世界は、未だ様々な地
域と文化の違いによってそれぞれ異なった生活を営んでいるにも拘
らず、こと「事務所」と呼ばれる場所ほど世界共通の空間はないだ
ろう。つまり、何某かが誤まってその部屋へ入ったとしても、すぐ
に「何だ、事務所か」と気付くのだ。たとえバチカンにある多くの
信者を統べる聖なる教会の総本山の事務所も、或いは、霊を騙って
教祖を名乗る教団の事務所であっても、または、アフリカ大陸の奥
地で、原生林の大地を削って鉱物資源を採掘する現場の事務所も、
歓楽街の乱立するビルの一角で客の求めに応じて骨身を削って如何
わしいサービスを提供する業界の事務所も、それを掌る「事務所」
だけを覗けば事業の違いが見分けられないに違いない。人が働き、
そこに利益が生まれ、それを分配する仕組み、つまり経済が発生す
るところには必ず「事務所」が作られ、その画一的な事務所の手続
きこそが合理主義経済のグローバリゼーションをもたらしたのでは
ないだろうか。例えば、生産の現場である画家のアトリエであった
り劇場の楽屋でその類の話を持ち出せば決まって無粋の誹りを免れ
ないが事務所では清算が迫られる。今や世界は事務所に支配され、
我々は生産のために働くのではなく、清算のために働いているのだ。
つまり、我々とは生まれ出たことの負債を清算するために生きてい
るのだ。
「どうかしましたか?」
事務所の中を不審げに見回している私に老人が云った。私は、
「いやあ、こっちから外が丸見えだったんですね」
通りに面した大きな窓からはポスターで隠されたところ以外から、
見られていることなどまったく気付かない通行人の様子が手に取る
ように窺えた。やがて、奥の方から中年の濃紺の事務服を着た女性
が、小さなトレイに黒いプラスチックのホルダーに収まった白い使
い捨てのプラスチック容器に注がれたコーヒーとポ―ションミルク
にスティックシュガー、それにビニール袋に入った攪拌のための貧
弱なスプーンを前のテーブルに屈みながら置いて「どうぞ」と言っ
た。私は「どうかお構いなく」と言いながら、仕方なくそれらをま
るでプラモデルでも組み立てるように調合してから賞味した。近く
の事務机のイスに腰を下ろしていた老人は、
「ええ、実は、貴方が通る度にあの貼紙の前で立ち止まってじっと
見つめてらっしゃるのを失礼ですがこっちから見てました」
私は、トレイの上に散らかったスティックシュガーやカップからこ
ぼれたミルク、それに磁場を指し示す磁針のようなスプーンと、何
故ここに居るのかを見失った空のビニール袋を用心して避けて、テ
ーブルにカップを置いてから、
「なんだ、そうだったんですか」
と気のない答えをした。すると、老人は、
「もう、何でお呼びしたかお分かりでしょ」
「・・・」
私は、証拠を突き付けられた犯人のように否定する余裕すら失っ
て黙り込んだ。それを見て老人は透かさず、
「貴方、店をやりたいんでしょ?」
と詰め寄ったが、私には「お前が殺ったんだろう!」としか聴こえ
ず、私は思わず、
「ええ、ダンナ。確かに、アッシがやりやした」
と、あらぬことを口走ってしまった。
「無料!」で店舗を借りる話は障りなく進められた。もちろん、
「無料!」なんだから一円の賃貸料も求められないが、但し、二年
間の期限付きの使用貸借で、売上が発生すればそこから5%の使用
料を支払わなければならなかった。ひと通りの説明をした後に、老人
は、
「で、いったい何をされるおつもりなんですか?」
「まあ、やるとすれば青果しか思いつかないんですけど」
「何だ!それならうちの店を使って下さいよ。冷蔵庫だってちゃん
と使えるんだから」
「えっ!いいんですか?」
「なんのっ、遊ばして使いものにならなくなるくらいならその方がよ
っぽどましでさあ」
実際、生鮮野菜を扱うなら大型のチャンバは欠かせなかった。
「それに、寝泊まりするだけなら二階の部屋も使ってもらったって
構わないんだから」
彼の家族は、と言っても子供たちはすでに独立して家を出て行った
ので、奥さんとの二人だけだったが、近くのマンションで暮らして
いた。
「ただ、こう言っちゃあ何ですが、店長さん・・・」
私はいつの間にか店長にされてしまった。
「今どき八百屋を始めるなんてまったく流行らないですぜ」
「ダメですか?」
「何しろ大手スーパーと競わなきゃあならねぇんだから」
そんなことは十分承知の上で、私にしてみれば今日の画一化した生
産流通システムを何とか変えたかった。実は、近代文明とは我々を
家畜化し、その食べ物でさえも飼料のように作られていることに消
費者は気付いていないのだ。例えば、我々が美味しいと感じるもの
が何と画一的な味覚で味付けされていることか。すでに、我々は喫
煙者がニコチン依存から脱することができないように、もはや人は
ただのパンのみでは生きれなくなってしまった。仮に「美味しい」とか
「豊かさ」とか「安楽」だとか、それらは近代文明が実存に及ぼす洗
脳であるとすれば、我々は文明社会に依存した意志を失った家畜
そのものではないか。つまり、近代文明がもたらしたのは家畜社会
ではないだろうか。もう少し社会への依存から脱して自立するべきで
はないだろうか。そして、文明に依存する社会を俯瞰的に覗う視点、
経済合理性の洗脳から脱した視点で世界を見つめ直すべきではな
いだろうか。何故なら、我々が存在することの合理性など何処を捜し
てもないのだから。
「野菜を百円均一で売るつもりです」
老人は頭を傾げてしばらく考えてから、
「ふーん、面白そうだけどそれで儲けが出るかね?」
私は、自分がこれまでスーパーの店頭でやってきた百均市のことを
彼に話した。もちろん、他のスーパーの特売で売られている値段と
それほど違わないのでそれだけで千客を呼べるとは思っていない。
例えば、ユニクロやマクドナルドといった繁盛店はただ値段が安い
だけで流行っているわけではなかった。やはり商品に魅力がなけれ
ば万来の客は来てくれない。つまり、両方の手で掴まなければ獲物
は逃げてしまうというわけだ。そこで、
「できたら、有機野菜でやりたい」
と言うと、
「バカなっ!そんなことできるわけがない」
「まあそうですね」
「仕入れるだけで赤字になっちまいますぜ」
「ええ」
「自分で作りでもしない限り、農家は絶対に出してはくれませんぜ」
「ええ、ですから非農家に頼もうと思ってるんですよ」
「はあっ? 非農家って素人ってことですかい?」
「まあそうです。確かに素人かもしれませんが、彼らは自分で作る
ものにまで農薬を使ったりしませんからね」
「なるほど。しかし量が集まるかね?」
「集まらなかったら集まらなかったで仕方ないと思っています。要
するに、農村にある直売所のようなものを是非東京に作りたいんで
すよ」
私は、自分の頭の中でぼんやりとしか描いていなかった下描きを、
彼に迫られて即興で絵にしてしまった過ちをすぐに悔やんだ。だっ
て、そんな話は妻の前でさえも噯にも出さなかったんだか
ら。ところで話は変わるが、「噯」って「げっぷ」のこと
だけど、漢字で書くと口へんに「愛」って書くんだね。口へんに「
屁」なら何となく解るが、これを思いついた人はよっぽど愛の言葉
に惑わされたんだろうね。確かに言われてみると、愛の囁きなんて
げっぷのようなものかもしれないものね。
私は老人に、
「家内ともう一度よく話し合ってから伺います」
と言い残して尻を上げた。