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無題  作者: ケケロ脱走兵
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(37)

 競争の厳しい近代社会を生きる者には、信仰は「躓き」であるの


かもしれないが、しかし、信仰に身を捧げる者にとっては、俗世こ


そが「躓き」をもたらす。婚約を破棄して「キリスト者」として生


きることを決断したキルケゴールは迷わずに「単独者」として神と


向き合う。残された時間は僅かしかない。ついに、彼は、幼少の頃


から父によって洗脳された信仰から抜け出すことはできなかった。


「死に至る病」とは信仰を失った者の絶望のことである。俗世を生


きる我々は、「死に至る一生」であることすら忘れてその日を生き


ている。それは絶対的な「絶望」の中で、ただ目の前の相対的な希


望だけを追いかけているにすぎないではないか。我々はといえば、


社会によって洗脳された社会意識からついに抜け出すことができな


いのだ。しかし、いくら社会の中で社会人として生きたとしても、


我々の一生とは、「最後に彼は死んだ」ですべて片が付く。社会と


いう幻想がなければ、我々は一個の人間としてただ死ぬために生き


ているだけなのだ。我々は、社会という舟の中で肩を寄せ合って生


きているが、その舟が浮かんでいるのは絶望という大海ではないか。


たとえ舟の中が絶望を忘れさせてくれるとしても、いずれ我々は単


独者として絶望の海へと消えていく運命である。どれほど社会が絶


望を忘れてさせてくれるにしても、いずれ「最後に彼は死んだ」で


君はこの世から居なくなる。つまり、信仰を持たない我々の一生と


は、絶望の中に在って絶望から逃れるために自己自身を捨てた「死


に至る病」ではないのか?我々は、絶望から逃れて、社会の中で社


会人としてとして死ぬのか(自己自身であろうと欲しない)、それ


とも、(単独者として)自分自身として死ぬのかが問われている。単


独者として絶望を生きる者が神に導かれることに何の疚しさがある


だろうか。


 我々は、何処から来たのかも知らないし、更に、何処へ行くのか


も分らない。我々の理性とはたかだかこの金魚鉢の中のことしか理


解できない、その程度のものではないか。仮に、世界のことが何も


かも分ったとしても、それがいったい何だというのか。世界の在り様


が分ってもその意味が解らない。進化した(?) 我々の足下を何億


年前から変わらずに這い回るゴキブリと同じように恐れ戦きながら


生きていくしかないのだ。理性という手段を手入れたからといって、


すべての謎が解き明かされたわけではないし、理性は決して我々が


知りたいことに答えてくれた例がない。もしも、我々の理性が宇宙の


涯まで届いても、宇宙の涯は光速の6倍もの速さで我々の理性を置


き去りにしてしまう。その涯なき果てにいったい如何なる神秘が隠さ


れているのか、それを信仰と呼ぶなら、それは理性によって解き明か


されることはまずないに違いない。金魚鉢の中から生まれた理性に


よって金魚鉢の外の世界を知ることはできないのだ。我々の理性が


いつか土から人間を創り出すことでもできない限りは。それどころか、


かつて神の存在が合理性によって否定されたように、再び、我々の


科学も存在の不合理性によって否定されるかもしれない。何故なら、


科学は、もしかしたらあの辻の角で隠れて我々の行いを覗いている


かもしれない神でさえも否定することができないのだから。


 キルケゴールは、我々が仮想の世界に生きていることを疑わなか


った。いずれ自分が存在しなくなるとすれば、この世界とは仮想以


外の何ものでもないではないか。やがて消え去る身体から生まれる


欲望に惑わされることは、自己の精神を失うことではないか。私は、


身体で在るよりも自己、つまり、身体に支配された自分であるより


は単独者として精神で在ることを望む。社会はすでに身体へと堕落


し、最後の砦であったはずの教会さえもすでに精神を見失った。単


独者としての彼は社会からは嘲笑され、キリスト者として世俗化し


た教会への批判は激しい反発を招いた。それらは「絶望して、自己


自身であろうとしない」者たちが同調して「絶望して、自己自身で


あろうとする」単独者を排しているに過ぎない。個人的な絶望を社


会が希望に変えてくれると信じているとすれば何と目出度い人たち


であるか。社会は、我々自身から絶望を失わせてくれるのではなく、


ただ、自分自身を失わせるだけなのだ。そして、我々が安心し切っ


て身を預けてる社会という舟は、絶望の大海の上に浮かんでいる


だけであることも忘れて、精神を失った我々は社会という舟から落


ちると立ちどころに絶望の奈落に呑み込まれてしまう。もしも、君が


絶望など知らないと言うなら、それは誤まって舟から落ちた者がた


またま君ではなかっただけのことなのだ。


 「絶望して、自己自身であろうと欲する」単独者にこそ神は語り


掛ける。私の救いの言葉を信じて絶望を生きろと。理性の涯を越え


たところに信仰があるとすれば、ただ信じるしかない。そして、信


仰の「躓き」を避けるためには何よりもキリスト者は単独者でなけ


ればならない。キルケゴールは、キリスト者として妥協のない信仰


の厳しさを、旧約聖書、創世記のアブラハムの物語に見る。


 神は、アブラハムを試みて、


「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤに地


に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(生贄)としてささげなさい」


アブラハムは朝早く起きて連れの者とイサクと共に燔祭のための薪


を割り、神が示されたところに出かけた。三日目にその場所に着い


て、連れの若者たちに、


「あなたがたは、驢馬といっしょにここにいなさい。わたしとわら


べはむこうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってき


ます」


アブラハムは燔祭の薪を取って、その子イサクに負わせ、手に火と


刃物を執って、ふたりいっしょに行った。やがて、イサクは父アブ


ラハムに言った。


「父よ、」


「火と薪はありますが、燔祭の子羊はどこにありますか」


アブラハムは言った。


「子よ、神みずから燔祭の子羊を備えてくださるであろう」


彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築


き薪を並べ、その子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そして


アブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとしたと


き、主の使いが天から彼を呼んで言った。


「わらべに手をかけてはならない。また何もしてはならない。あな


たの子、あなたのひとり子さえ、わたしのために惜しまないので、


あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」


この時、アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角を藪に掛け


ている一頭の牡羊がいた。アブラハムはそれをその子のかわりに燔


祭としてささげた。


 キルケゴールは、父が犯した罪の償いのために間もなく死ぬのだと


覚悟を決め、ところが、信仰によってその命を救われたイサクであっ


た。


 いずれ消滅するであろう身体によって営まれるこの世が仮の世界


であるなら、その身体の繋がりである親子の関係も仮の繋がりでし


かない。ただ、身体は消滅しても自分の精神は神の下で永遠に存在


するとすれば、親子の繋がりよりも神への信仰が優先される。家族


関係を重んじる非キリスト教社会(異教徒)では考えられない個人主


義の原点がここにある。キリスト者としての単独者にとって、家族と


は手段でしかない、少なくとも目的ではない。そして、その考えを推


し進めていくと、国家でさえも個人にとっては手段に過ぎない。民族


や国家や会社や家族が目的化し、絶望の大海に浮かんでいること


を忘れて、舟の中だけが世界だと思っている儒教社会の個人とは


何と正反対の認識であるか。単独者として存在することの絶望も知


らずに、自分自身を捨てて社会に従えば希望が生まれると思ってい


る家畜たちに、新しい世界が築けるはずはない。絶望を自分のこと


として受け止め単独者として自立しなければ社会を変えることなどで


きないだろう。


 如何に社会が希望に満ち溢れていても、それは絶望の大海に浮か


んだ小舟の中の希望でしかない。いずれ人は自己自身を失って単独


者として絶望の海へと還って行く。ただ、キリスト者として生きた


キルケゴールは本当の意味での単独者とは言えなかった。彼には神


がいた。むしろ、いまさら信仰に縋ることのできない私たちこそが


本当の意味での単独者かもしれない。私たちは、何処から来たのか


も知らず、何のために生きているのかも分らず、何処へ行くのかも


知らされずに消える。だから、社会に縋ろうとするのかもしれない


が、単独者として敢てキルケゴールに反論すると、生まれ出ること


が幾何かの希望をもたらすのなら、たとえ世界が絶望で充たされて


いても、実存とは絶望に抗う存在ではないだろうか。単独者が世界


の絶望を知ったからと言って彼は絶望を受け入れたわけではない。


絶望の反対が希望であるなら、実存とは絶望に対する希望、自らの


意志で生きようとする実存こそが希望ではないだろうか。つまり、


生きることとは、世界の絶望(死の世界)に立ち向かう希望(インテレ


サント)なのだ。世界は暗澹たる絶望で充たされていて、生命は限定


的で、それにも拘らず実存は希望の光を放ち続けようとする。確か


に、単独者にとっては世界はあまりにも厖大で絶望以外の何もので


もないかもしれないが、しかし、種としての繋がり、つまり、希望


の繋がりは絶えていない。単独者は、世界を認識するにあたってヘ


ーゲルのように社会(弁証法)を通して世界を見るか、キルケゴール


はヘーゲルの観念論を「彼は、お城のような大きな家を創ったが、


彼自身はそこに住まないで、隣の小屋で暮らしている」と批判した


が、私は観念ばかりで住み難いその家を「ヘーゲル」ハウスと呼ん


でいるが、または、キルケゴールのように絶対者の視点から世界を


窺うかしかないのだろうか。私にはどちらも精神の抜け殻を語って


いるようにしか思えない。キルケゴールは信仰に躓き、ヘーゲルは


観念に躓いたのだ。もちろん、生きることとは何かに躓くことだとし


ての話だが。しかし、単独者は世界から自分を客観視して絶望に


呑み込まれちゃいけないと思う。ほら、世界の絶望の中で君こそが


希望なんだし、なにも社会だけが世界じゃないんだから。上手く言え


ないけれど、我々は理性の、或いは信仰の奴隷になっていないだろ


うか。社会の中で安楽に生きるために、希望としての大切なものを


犠牲にしていないだろうか?つまり、絶望に従っていないだろうか。


 ただ私は、何のために生きるのかを問う以前に、生きるために何


をするかを問わなければならなかった。私は本を閉じて、いつの間


にかベンチに寝そべっていた身体を起こして伸びをしてから立ち上


がった。すでに日差しは青葉繁る木立の枝が遮れぬ上空より届いて


いた。夏の名残を留めた強い日差しだった。すると、季節遅れのツ


クツクボウシの鳴き声が何処からともなく聴こえてきた。間もなく


命を終えることを悟った絶命の叫びのように思えた。そのしゃくり


上げるような泣き声に急かされて、私は、神社の参道を抜けて家路


を辿った。




 ゆく夏を  「つくづく惜しい」と  法師蝉    不労者




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