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長く通勤電車の雑踏の中で本を読む習慣が身についてしまい、い
ざ、家の静けさの中でひとりページを開くと生活から離れることが
できずに「思想」に集中することができなかった。そうなんだ、私
は「思想」以外のものを読む気がしないのだ。学生の頃に、友人か
ら進められて推理小説も読んではみたが、まったく興味が沸かなく
て苦しみながら読んだ記憶がある。それ以来、見栄と嫉妬ばかりの
浮世話や現実から逃れてファンタジーの世界へ誘うお伽話や、「一
杯のかけそば」のような胡散臭い人情話に耐え得るほどにはまだ人
生を諦めてはいないつもりだ。私は、一冊の本、また一行の言葉で
さえも人の生き方を変えさせたり、または社会を転換させたりする
力を秘めていると信じているし、世界は変えることができると思っ
ている。石が転げ落ちて行くだけの物語よりも、意志が重力に逆ら
って昇っていく物語が読みたい。しかし、最近の読み物からは、自
己が拠って立つ大地を揺り動かされるほどの危なさを感じた覚えが
ない。躰を壊して入院した病院のデイルームの書棚に村上春樹の「
ノルウェイの森」が置いてあって、退屈凌ぎに読んでみたが、凌ぐ
ことはできなかった。これが人気のある小説なのかとがっかりした。
かつて富島健夫という作家が居たが、週刊誌に連載されていた彼の
官能小説とよく似ていると思った。登場する女はみんな主人公とセ
ックスするためだけに現れて、そもそも何を言いたいのか、また、
どんなドラマがあったかさえも今となってはまったく覚えていない
が、(そんなのあったっけ?) ただ、幕なしにセックスばかりしてい
る主人公と、作中で、看護婦の靴音が「カッカッ」と描写されてい
て、しかし、入院している私には、彼女らはラバーソールの看護靴
を履いているので靴音は決して「カッカッ」とは聴こえてこないは
ずだと看護婦の馬脚を見てしまい、「嘘っぱちだ」と分ってからは
そのことばかりが気になって、白けてしまった。確かに、ビートル
ズの曲から着想を得ただけに音楽的とも言えなくもないが、ただ、
ビートルズの名曲「ノルウェイの森」は「ラバーソウル(Rubber So-
ul)」のLPの中に入っていたが、村上春樹の小説「ノルウェイの森」
に登場する看護婦はラバーソール( Rubber Sole) を履いていなか
った。