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猛暑だった夏は、掛けられたタオルケットさえも暑苦しさから目
が覚めたものだが、今では、夜寒によって目が覚めて、開け放して
いたガラス窓を閉め、クローゼットから掛け布団を取り出して、虫
の音に誘われて再び幻夢の世界へと舞い戻っていく。寝る間も惜し
んで働いていた頃には、眠ることがこんなにも健やかさを回復する
ものとは思ってもいなかった。秋眠もまた暁を覚えず、である。
娘の己然が通う学校では「早寝早起き朝ごはん」を推進していて、
私はそれにはまったく首肯したので、まずは夜の消灯時間を9時に
決めた。そもそも子どもが夜更けまで起きていて発育が損なわれな
いわけがない。己然もそれはあっさり受け入れたが、ただ、ゲーム
を止めることだけは抗ったので、一日1時間までということを受け
入れさせた。やがて、以前の様に私が朝食を用意してから起しに行
かなくても起き出して、三人揃ってテーブルに着いた。学校での給
食はご飯だったりパンだったりするので、献立表を見ながら朝食は
それとは重ならないように毎日変えた。子どもが深夜になっても起
きているのは、何のことはない親の堕落した生活が彼らを引きずり
込んでいるからに過ぎなかった。己然と妻を送り出してから片付け
を済まして掃除機をかけて、それから散歩に出るのが私の日課にな
っている。
かつては、地域の生活必需を一手に賄い、夕時には人集りで思い
通りに歩けないほどの活況だった駅前のアーケード街を、今では朝
晩の通勤人がただ通り抜ける時間帯以外は、他人の会話がやまびこ
のようにこだますほどに森閑としているシャッター通りを、私は、
時間を気にしながら駅へと急ぐ通勤人の流れに逆らって、ついこの
前までは私も彼らと同じように睡眠不足を補うために首尾よく電車
の座席に身を預けることだけを願いながら夢遊病者のように歩いて
いたことを、万感の想いと多少の優越感を感じながら閑歩した。す
ると、どうしたわけか想い出のファイルに閉じ込めていたある記憶
がするりと抜け出して頭に浮かんできた。
「働いて、働いて、働いて、それで死んでいくんだ。はっはっはぁ
ー」
それは、公共浴場で出会ったおじいさんのことばだった。私は、そ
れまでの優越感が急に冷めて、それどころか焦りさえ感じ始めた。
「こんなことをしていていいのか?」
もはや、頭は視線が拾う世間の映像を記憶せずにもっぱら行く末
の不安観に没頭してしまい、だからといって何か術が見つかるわけ
でもなく、それにも飽きてしまいアーケードの中程まで差し掛かっ
た時、「『無料!』店舗貸します」と、大きく書かれた貼紙が目に
入った。そこは商店街の事務所でまだ閉まっていたがその窓一面に
貼られていた。私は、思うところがあってしばらくその前に立ち止ま
ってそれを記憶に留めた。