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無題  作者: ケケロ脱走兵
30/45

(30)

 十国峠からは妻が運転を代わってくれた。彼女の運転で車はその


まま伊豆スカイラインを走った。かつて、海岸線の道路を走ったこ


とがあったが、信じられないくらい有料道路の関所があって通行料


をぼったくられて、これからはたとえ裏街道がどれほど遠回りであ


っても、二度とこの道は通らないぞと心に決めた。そして、他のル


ートを探していたら、ま、こっちも有料だけれども、一度だけなら


走ってみようと思った。大体、静岡県は有料道路が多すぎる、と思


っていたら、ついに第二東名まで造ってしまった。さながら幕藩体


制の時代に後戻りしたかのように関所だらけじゃねえか。静岡藩は


道路以外何もない。つまり、ただ通り過ぎるためだけにある藩なの


だ。助手席にふんぞり返って、ある事ない事を運転している妻に語


りかけたが、妻は、返事もせずに運転に集中していた。


 チョイ悪親父が手配してくれたペンションに着いた時はすでに海


上には(とばり)が降りて、早くも数多の星々が出番を待ちきれず


に煌めきを競い始めていた。宿は海岸からは少し山を登ったところ


にあった。視線を足元から遠くへ遣ると、眼下には賑わう温泉街の


街灯りが夜空を紅く染め、その先には漆黒の海原に小さな漁火を灯


した船があちこちに頼りなく漂い、波頭がそれを反射して煌めき、


遥か遠くの水平線と宇宙の果てが暗黒の中で混然一体となって、更


にその上に目を遣ると、空には何百万年前に生まれた光の粒子が


闇の彼方を越えて私たち家族と今ここでめぐり逢った。ペンション


の玄関を潜るとチョイ悪親父が私たちを待っていてくれた。彼は、


うちで用意できなくて申し訳ないと頭を下げたが、むしろ、謝らな


ければならないのは、突然無理を頼んだ私たちの方だと言って手


を差し出すと、彼はその手を固く握り返した。それから、と、私が


切り出すと、私が何を言い出すのか彼は察して、もう、挨拶はこれ


くらいで、ほら、子どもたちも疲れているみたいですから、と、実際、


彼女たちはついさっきまで車の中で電池の切れた人形のようにな


って眠っていた。「あっ!」と、私は妻の弘子とそして子どもたちを


紹介した。すると、チョイ悪親父はペンションのオーナー夫婦を紹


介してくれた。彼らはまだ若かったが東京からペンションを営むた


めに最近ここへ移ってきたばかりだった。私は、箱根で買い求め


た土産を差し出して頭を下げた。チョイ悪親父は、親しくしている


オーナーだから何も遠慮しなくていいですよ、と教えてくれた。そ


のオーナーが、


「それじゃあ、お部屋へご案内します」


と言うと、奥さんが先に立って誘導してくれた。チョイ悪親父は、


「じゃあ、また明日迎え来ますので」


と言って、玄関を後にした。彼のペンションは海水浴場の近くにあ


ったので、海水浴の時は彼のペンションを利用することになってい


た。


 私たちは、風呂から上がって、早速、オーナーの拵えた海の幸の


料理を鱈腹いただいて、部屋に戻ってベットに横になると忽ち電池


が切れた。


「朝食の用意が出来ていますので、いつでもどうぞ」


という、オーナーの奥さんの電話で目が覚めた。ベットに仰向けに


なったまま天井のシーリングファンを眺めながらしばらく身体を動


かすことができなかった。昨夜は気が付かなかったが建物全体がま


だ新しかった。内壁は白で統一されていたが、絨毯とカーテン、そ


れにベットカバーは同じ淡色のグリーンでその色彩が鮮やかに引き


立っていた。先に立ち上がった妻がその緑のカーテンを引いた。そ


して、


「あなた、見てっ!ほらっ、早く起きて」


と、振り返って叫んだ。私は、まだスイッチが入らなかったが、惰


性で起き出して妻の居る窓の側に寄ると、一面に朝日を浴びて銀色


に輝く大海原と、その水平線から立ち昇る力こぶのような白雲、そ


の雲間からようよう顔を覗かせた太陽が、撮影で使うクロマキーの


ブルーバックのような青空を背景にして斜めからの光で壮大な立体


感を映し出していた。二人でしばらくその鮮やかな景色を眺めてい


ると切れた電源が充電されていくのがわかった。妻は隣の部屋に居


る子どもたちをコネクトドアを通って起こしに行った。しばらくす


ると子どもたちの騒がしい声が聴こえてきた。


 慌しく支度を整えて階下のダイニングルームへ降りた。壁の時計


を見るとすでに九時を回っていた。四角い部屋の真ん中にはバイキ


ングスタイルの惣菜が並べられ、それを取り囲むように四辺にテー


ブルが十卓余り配置され、それぞれが好きなものを選べるようにな


っていた。私たち以外の宿泊客は、そのほとんどは子供連れで、す


でに事を済まして片付けられたテーブルで寛いでいた。私たちが入


っていくと、誰からともなく「おはようございます」と声を掛けて


くれた。アルバイトなのか高校生らしき女の子が「竹内様」と書か


れたテーブルに案内してくれた。そして、ひと通り説明してくれた


後に、


「こちらの方はまだ充分時間がありますので、どうぞごゆっくりお


召し上がり下さい」


と、やさしい気遣いのことばをかけてくれた。食事が終わって部屋


に戻ろうとすると、チョイ悪親父の息子だと名乗る青年がフロント


で私たちを待っていた。美咲よりも少し年上かもしれない。なるほ


どチョイ悪風のお父さんに似てイケメンだった。さらに、褐色に日


焼けした顔は精悍だった。そして、何よりも下肢を支える腰とその


上に乗った鍛えられた上半身のバランスがよく立ち姿が整っていた。


彼は、深々と頭を下げてから、


「おはようございます」


私はそれに応えた。彼は、自分の紹介をしてから、


「用意ができましたらいつでも浜までお送りしますので」


と言った。私は、


「ちょっと待ってて下さい。すぐに用意して降りてきますから」


そう言って、みんなを急かして部屋に上げた。それまでは、海には


行きたくないと言っていた美咲は、恐らく、手首の傷跡がまだ目立


つからだと思うが、用意してきたリストバンドで隠して、その上に


日焼け防止用のアームカバーで覆ってちゃっかり身支度を整えて、


己然には、


「待たせているんだから早く着替えなさい」


と追い立てて、何か、急に元気を取り戻した。



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