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まず、お断りしておきますが、これは家族の旅行記ではありませ
んので、もとより訪れたところをいちいち取り上げるつもりはあり
ません。それに、箱根伊豆といえば、行ったことがなくとも恐らく
誰もがバラエティー番組等で頻繁に見聞されてるでしょうからその
すばらしさは拙著を待つまでもないので割愛させていただきます。
とは言え、私自身も勤めていた会社から店長会議や研修セミナー、
時には接待ゴルフなどで足繁く訪れながら、実は、その目的以外の
観光地に進んで訪ねることもなく、宿に着くや湯に浸かる程度で早
々に同行と酒を酌み交わしてそのまま酒宴に流れ込んで酩酊の中に
気が付けば慌しく出立の朝を迎えるという、折角の甲斐のない旅行
ばかりしていたことに気付かされた。つまり、家族の中で一番箱根
を訪れながら、箱根のことを一番知らなかった。妻は、名所旧跡を
一度も訪れたことのない私を嘲笑いながら、
「じゃあ何もわざわざ箱根まで来て会議をする必要はなかったんじ
ゃないの?」
私は、
「今から思うと、社内の親睦を図るためなら都内の居酒屋で充分だ
ったかもしれないね」
社命を帯びた旅行は、会社という束縛された視点を解放することが
できずに本来の旅行の楽しさ、気兼ねのいらない自由な視点で旅行
することなどできなかった。
一旦、宿にチェックインして食事をとってから車を預けたまま、
子どもたちが絶対に乗りたいと言っていた芦ノ湖の海賊船とロープ
ウェイに、箱根フリーパスを買って乗ることにした。そして、妻に
は、
「あなたが一番はしゃいでる」
と呆れ返られるほど年甲斐もなく子どもたちと一緒に騒いだ。陽が
傾いて影が伸びきった頃に宿に入った。家族風呂ではなかったので
彼女たちとは分かれて一人になった。洗い場でシャワーを浴びなが
ら、かけがえのない家族と一緒に旅行していることが嬉しくて、何故
か、涙が溢れてきてしかたなかった。
次の日は、主な観光地に立ち寄りながら、とは言っても、己然が
選んだところが主ではあるが、伊豆に向かって車を走らせた。途中、
美咲が車で寄って欲しいところがあると言い出した。妻は、
「美咲!」
とたしなめた。どうやら実父の親戚の旅館が近くにあったようだ。
私は、
「いいよ、行ってみようよ」
そう言ってハンドルを切った。駐車場に車を止めると、美咲はしば
らく玄関辺りを見詰めていたが、
「私一人で行きたいので、ここで待ってて」
と言った。妻は、
「もうやめてったら、美咲!」
私は、
「いいよ、行って来いよ、美咲」
そして妻に、
「いいじゃないか、思い通りにさせてやれば」
そう言うと、美咲はドアを開けて恐る恐る車外に出た。そして、玄
関の方へ歩き出そうとした時、その玄関が開いて中から子供連れの
家族が出てきた。子どもは己然と同じくらいの男の子だった。美咲
は立ち尽くしてしばらくその家族を眺めていたが、その家族が私た
ちの居る駐車場の方へ歩いて来るのに気付くと、再び私たちの車に
戻ってきて隠れるようにしてドアを開けて中に入った。誰もが黙っ
てその家族の様子を車内から眺めていた。妻は、
「前の亭主よ」
それ以上は言わなかった。彼らは、私たちの車の向い側に止めて
あった車に辿り着いた。男の子が、
「パパ、やらせて!」
と言って、父親から電子キーを奪ってロックを解除した。その声は
私たちが居る車内まではっきり届いた。奥さんと思しき人はハッチ
を開けて荷物を詰め込んでいた。美咲は、その様子を瞬きもせず覗
いていたが、その目からは涙が溢れていた。
「お父さん、車出してっ!早くっ!」
美咲の叫びは嗚咽を伴って、彼女が受けたショックがどれ程辛いも
のだったか痛いほど伝わってきた。驚いた私はアクセルを強く踏み
過ぎたために車が前方へ飛び出して、慌ててハンドルを切ったが危
うく妻の「前の亭主」の車に接触しそうになりながら駐車場を後に
した。妻の「前の亭主」は、「コラーッ!」と怒鳴って私たちの車
が見えなくなるまで睨んでいた。
しばらく車内は静まり返り、時折顔を伏せた美咲の咳きだけが響
いた。妻は、居た堪れなくなってカーラジオのスイッチを入れた。
DJがリスナーから届いたサマーバカンスのメールを早口で読み上
げて、リクエスト曲のサザンオールスターズの「真夏の果実」をか
けた。己然は車内の空気を読んでか寝たふりをしていたが、いつの
間にか本当に寝てしまった。切ない曲が沈んだ車内に溶け込んだ。
それぞれがそれぞれの殻に閉じこもって、たぶん、自分はどうあ
るべきかを考えていた。家族は四人だったがイスは三人分しかなか
った。妻と己然が座ればイスはあと一つしか残っていなかった。そ
のイスを巡って私と美咲は譲り合っていた。
十国峠で予定していた昼食をとる頃には、美咲の感情の昂りも消
えて落ち着きを取り戻していた。その後、予定通りケーブルカーに
乗って頂上に着くと、遠く太平洋を見下ろす山頂からの絶景が下界
の煩わしさを忘れさせた。その海風に追われた高原の涼風が遮るも
ののない頂きを勢いよく通り過ぎた。己然と美咲はまるで飛び立と
うとする若鳥のように両手を大きく広げて今にも舞い上がらんばか
りに羽ばたかせた。己然と妻が展望台のトイレに行った時に、私と
美咲は富士山を眺めながら少し話をした。
「お前は父親に見捨てられたと思っているかもしれないけど、それ
は間違いだったと思う時がきっとくる。それは、己然が生まれてお
父さんもよく分ったんだが、お前のパパはお前のことを忘れること
なんて絶対できないさ。いつもお前のことばかり考えているはずさ」
美咲は黙っていた。
「それに、お前はどう思っているのか知らないが、お前はお父さん
にとっても大切な子どもなんだ。なのに父親がいないなんて思うな。
お前のことを心から心配している父親が二人もいるんだから」
「お父さん、ありがとう」
すると、トイレから戻ってきた己然が、
「何て、何て、お父さん、キサにも、何て言ったのか教えて」