(20)
「おーい、弘子!」
キッチンの流しで背を向けて静止している妻を呼んだ。何時もなら
こういう相談を美咲は私に直接言って来ずにまず母に打ち明けて、
妻が私に伝えてきたので、妻が知らないはずはなかった。
「はい」
妻は、エプロンの裾で手を拭う素振りをしながら応えた。私は、美
咲のすぐ後ろに現れた妻に、
「聞いてただろ?」
「ええ、少しは」
「じゃあ、すぐに京都の部屋を引き払うようにして、いや、待てよ、
部屋を探す方が先か?」
「あっ、それなら。ね、美咲」
「えっ、もしかして、もう決まってるの?」
美咲は小さく肯いて弘子の方を振り返った。ほら、いつもこの調子
だ。私が相談を受けた時には実は何もかもが決まっていて、ただ私
はハンコを押すだけだ。妻の説明によれば、実は、美咲は転入する
学校も決めていてその近くに部屋も見付けて、あとは私の承諾をも
らうだけだった。ただ、今までなら美咲は私への相談ごとは些細な
事でも母を使っていたが、今回は自分から私に話すと決めた。
「よし、わかった。それから、美咲、よく話してくれた。お父さん、
本当にうれしかった」
娘は口元を緩めて応えた。そして、イスから立ち上がって自分の部
屋に戻ろうとしてテーブルを離れた。
「ほら、本、忘れてるぞ」
「あっ、それお父さんにあげる」
「なんだ、もう読んだのか?」
「んん、もう読まない」
そして、私は娘にどうしても伝えたかったことを口に出した。
「あのさ、美咲、焦んなくたって何れ人は死んじゃうんだから」
彼女は、私に背を向けたまましばらく立ち止まってから、黙って階
段を上った。