(19)
「うなされてた」
「・・・ああ。」
日曜の朝、二度寝してベットから起き上がったのは出勤日なら一仕
事を終えて休憩のコーヒーを飲んでる頃だった。妻から言われるま
でもなく微睡みの中に現れた夢想は、電車に飛び込んで自殺したあ
の女性の眼だった。その生々しい眼は靉光が描いた眼とも重なって
私を上から見下ろしていた。顔を洗ってからキッチンでコーヒーを
淹れて、何時もこの時間にコーヒーを飲む習慣が眠りから目覚めさ
せたに違いないと思いながら、その生々しい眼はまだ上から自分を
見詰めているような気がしてならなかった。
「美咲は?」
「ごはん食べて部屋に上がった」
彼女は昼夜が逆転した生活を続けていた。椅子に腰を下ろしてダイ
ニングテーブルの真ん中に調味料などが並べられた端に一冊の岩波
文庫が置かれていたので手に取った。「死に至る病 キルケゴール」
トーストパンと目玉焼きの皿を運んできた妻がそれを見て、
「あっ、美咲が忘れていったんだわ」
「こんな本を読んでるのか」
「病気の本でしょ」
「バカ、哲学だよ」
「えっ、違うの?じゃ、死に至る病ってどういう意味?」
「絶望のことだよ」
「何だ、読んだことあるの」
「いや、読もうと思ったことはあったけど、最初の数行でやめた」
「何で、難しいから?」
「難しい以前の問題、何言ってるのかさっぱり解らん」
そう言って、手に取った本をめくって始めの数行に目を通した。
「うん、やっぱり解らん」
と言うと、妻が、
「ちょっと読んでみて」
「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。
自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係で
ある、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するもの
なることが含まれている、それで自己とは単なる関係ではなしに、
関係が自己自身に関係するというそのことである。」
彼女はすぐに聴くことを諦めてキッチンの方へ逃げた。
「お父さん、その本、返して」
私は驚いて本を閉じて顔を上げると、いつの間にか美咲がテーブル
の前に立っていた。
「あっ!これお前のか」
そう言って本を差し出した。私と娘の関係は彼女が家を出て行って
から少し様子が変わった。親子としての直接的な繋がりが薄れ、彼
女自身の関心が自分のことや友人といったものに移ったからだろう
が、彼女の中ではすでに私は意味のある存在ではなくなった。かつ
てなら絶対に許さなかった私の癖や言動も今では諦めて見過ごすよ
うになり、つまり、どうでもよくなった。それは、親にとっては実
に寂しいことだった。むしろ、これまでのように文句を言って関わ
ってくれることの方が今となっては嬉しかったが、ただ、それと同
時にあからさまな嫌悪感も示さなくなり、意外にも、何でもない会
話なら彼女の方から話し掛けてくることさえあって、今度は私の方
がどう応じていいのかその用意がなかった。
「むつかしい本読んでるな」
美咲は、何も言わずにその本を受け取った。彼女が京都で学んでい
た学校はミッション系だったので、しかも文学部で将来は国語の教
師を目指していたから、それくらいの本を読むことに驚いたりはし
なかった。ただ、自殺騒動の後、それまで彼女に関わってきた者は
どう接していいのか倦ねていた。実際、生きることを捨てようと覚
悟した者がこれまで通りの生活にどれほど興味を持っているのか周
りの者は測りかねて恐る恐る受け応えするしかなかった。それは、
フーテンの寅さんの前で女の話を持ち出さないように心掛ける身内
の者のように、彼女に対してなぜ自殺しようとしたのか聞かなかっ
たし彼女が居なくても触れないでいた。もちろん親であるなら、な
ぜ生きようとしないのかと膝を交えて説得するべきだと言うかもし
れないが、私自身が彼女を改めさせるほどの説得力のある意義を持
ち合わせていなかった。誰も目的を持って生まれてくる者など存在
しないし、そうするより他に生きる手立てを持ち合わせていないで
はないか。我々は異性に欲情して性交し、やがて子どもが生まれて
くれば育てることに何の理屈も求めたりしない。何のために生きて
いるのかという問いは、何故欲情するのか、或いは何故愛するのか
を問うことで、それは理性の預かり知らないことである。もしも、
我々が何らかの使命を受けていて、その本来の目的を見失っている
ならば、恐らく、我々は缶切であるにもかかわらず、缶詰の存在し
ない世界に生まれ落ちたからに違いない。そこで、我々は使命を果
たすべく缶詰を一から作らなければならなくなった。そして、缶詰
を作っているうちに缶切である必要がなくなった。我々は缶詰まで
作れるのになぜ缶切でなければならないのか?ところが、缶切とし
ての使命を捨てた時に我々は目的を失った。使命を捨て去った時に
いったい何が缶切の目的足り得るのか?多分、我々とは目的を失っ
た手段、缶詰のない世界に現れた缶切なのだ。朽ち果てた廃屋の水
屋箪笥の片隅に置き去りにされて目的を果たせなくなった刃の尖っ
た缶切なのだ。目的から解放された手段は新たな目的を見つけるた
めにせめて自由であらねばならない。私は、彼女を傍から温かく見
守る以外に、彼女の人生は彼女に委ねるしかないと思った。確かに、
彼女は日常生活を取り戻していたが、それは世間の建前に従ってい
るだけで、もしかすれば本音は絶望から抜け出せずにいるのではな
いのか不安だったが、実のところは誰も、恐らく彼女自身も解らな
かった。私は、「強くなれ」だとか「頑張れ」だとか、そうなれな
くて苦しんでいる我が子をさらに追い込むことだけは避けようと心
掛けていた。強くなるなら自分の意志で強くなるしかないのだ。他
人に縋って自分の身の丈に合わない見せかけだけの虚勢を張っても、
そんなものは虚栄ばかりの世間の中で見栄を張ることくらいしかで
きない本当の強さとはいえないのだから。私は、美咲には自らの孤
独に負けない精神的な強さを身に付けてもらいたかった。
「お父さん、ちょっといい?」
「ん?」
私が何も応えない間に娘は向いの椅子を引っ張り出してゆっくり座
った。立ち去るものだと思っていた私は、
「なっ、なにぃ?」
「実は、」
そう言ってからしばらく噤んだ。彼女がテーブルに載せた左腕の淡
い空色のブラウス袖口から手首に巻かれた白い包帯がはみ出して
いた。私はとっさにそれから視点を逸らして彼女の背後へ移すと、奥
のキッチンでは背を向けて流し台に佇む妻が、音も立てずに家事を
している振りをして聞き耳を立てているのがわかった。私は、美咲が
何を言い出すのかビクビクしながら固唾を飲んでその後の言葉を待
った。
「わたし、できたらまた一人で暮らしたい」
「京都へ戻るつもり?」
彼女が籍を置いていた学校には一応休学届を出していたが、借りて
いた京都の部屋はまだそのままで、何時までもそのままにしておく
わけにはいかなかった。
「もう京都へは戻らない」
「じゃ学校はどうする?」
「できればこっちの学校に移りたい」
「うん」
彼女が言うには、この秋にこっちの大学の編入試験を受けて京都で
の学生生活を引き払うつもりだと言った。それを聞いて私は少し安堵
した。少なくとも大学に在籍している限り、退学してしまうよりは
迷いが少ないと思ったから。ただ、彼女はもう教職を目指すことは
諦めた。そして、
「心理学を勉強したい」
と言った。私は、彼女が傷付いた左手で握り締めているキルケゴー
ルの文庫本に目を遣った。そこには「死に至る病」と書かれていた。