髪の毛
私は手に入れた。ずっと欲しかったもの。それを手に入れた場面を思い浮かべると、喜びで脳みそが爆発しそうになるくらいの。
「ゆかり!」
学校へ行って、私はとりあえず彼女に抱きついた。ここで脳みそを爆発させて中にあるものをゆかりにぶっかけてやろう。
そのくらいの勢いで抱きついた。
「どうしたのー」
ゆかりは私に押されながら、困ったように言った。
「あのね、ある人に会ったよ!」
ゆかりの目がカッと開いた。きれいな黒い瞳が熱を帯びて私を見つめる。
「ある人に会ったよ!」
私がもう一度いうと今度はゆかりが私に抱きついてきた。
「会えたんだ! よかったね!」
ゆかりは私の頭をがしっとつかんだ。大事なものを抱きしめるみたく、がしっと。
「会えたよ! それでね、お願い、叶えてもらったよ!」
「ほんと?」
「うん!」
ゆかりは私の頭をくしゃくしゃとなでた。ゆかりの細くて繊細な指。それが私の髪と髪の間にすーっと入る。
「ゆかり、あのね、私、わかったことがあるの」
「何?」
「私は、人間だよ」
ゆかりは「そんなのあたりまえじゃん」と言って私の髪を指で梳いた。ぞわぞわっとした。ぞわぞわっとして、そのあとは気持ちがいい。ゆかりは天才だ。私にとっての天才。天才っていうのは神様からの贈り物なんだって。だからゆかりは私にとっての天才。
「ゆかり、あのね。お母さんが子どもになったの。私がある人にそうお願いしたの。お母さんを子どもにしてくださいって。そしたら、子どもになった」
「それで?」
「それでね、お母さんはとてもかわいいんだ」
「よかったじゃん」
「ゆかりは? ゆかりの方は?」
ゆかりは優しく微笑んだ。とても綺麗に、微笑んだ。協会に置いてある聖母マリアさまみたいだ。
「あたしはね」
ゆかりの声はまるで天から降ってくる笛の音だ。
「あたしは、今とても幸せなの。とても安らかな気分」
ゆかりはある人にお願いした。もう死ぬまで怒りを感じないようにしてください。怒りだけじゃない、憎しみとか悔しさとか、そういう負の感情を感じないようにしてください。
ゆかりは今とっても幸せ。ゆかりのこれからの人生には、幸せしかないの。これからずっとこのふわふわした感覚に包まれながら生きていくの。
ゆかりの顔の線。きれいな線を描いている。ぱっちりとして凛々しい目。
透き通るような唇。
「ゆかり、ありがとう」
「いいの。別に。世の中には幸せになるべき人間がいるの、きっと」
「それが私たちだってことだよね?」
「そうだよ」
私はゆかりが好きだ。心のそこから湧き上ってくるこの感情。
「ゆかり、好き」
私は家に帰った。
「お母さん、ただいま」
お母さんはこどもになった。全ての嫌なことから解放されて。
私はリビングへと行った。お母さん、お母さん。
あれ?
いないよ、お母さんがいないよ。
押入れから出してきたベビーカーにきちんと入れておいたはずなのに。
「お母さん!」
その時けけけけと声が聞こえた。
「誰?」
私は声のした方を振り向いた。そこには一匹のカエルがいた。中くらいの緑のカエルだ。
「けけけけけけ」
「あなたはなんなの?」
「おいらはカエルだ」
「そんなの見ればわかる」
こいつはカエルだ。だけどこいつはカエルじゃない。こいつはカエルと呼ぶにはあまりにも禍々しくて世界を知りすぎている。
「カエル、お母さんをどこへやったの?」
この禍々しい物体が犯人だ。それ以外にない。お母さんをどこかへやったのは、こいつだ。
「お母さんを返して」
「返してほしいか?」
「当然よ」
「よし、わかった」
カエルはぴんと指を伸ばした。カエルの指は、長いのだ。今気が付いた。
「じゃあついてこい。お母さんを返して欲しければ、ついてこい」
私は覚悟を決めた。
私は、カエルの後を追った。