自分
自分のこと。そう、自分の事。
私は一瞬頭が真っ白になった。自分のことになった途端、私はなんの感情もイメージも言葉も出てこない。
自分のことに関して、語れる言葉が出てこない。今まで自分のことを語るなんてしたことないから。
私はただの器みたいな鏡みたいなもので、周りの世界に合わせて私はどんどんどんどん移り変わっていくから。だから自分に関して何も思わない。だって私は鏡だから。
いつからか何も感じなくなった。
小さいころは違った。私は確かに泣いたり喜んだり怒ったりしていた。小さい時の方が、私は感情のなんたるかを知っていた。感覚で知っていたような気がする。でも今はもうわからない。
私はお母さんを助けてあげたいと思っているけれど、だけどお母さんが苦しもうが喜ぼうが知ったことではない。だけどお母さんを助けたいと思うのは植えつけられた倫理観のせいだ。私の中から自然に生まれてきた感情ではない。
ただ自然と植えつけられてしまった倫理観がそうさせるのだ。
私はしばらく言葉に困って、やっと
「わかりません」
と絞り出した。わからないのもわからない。自分のことになった途端、私は思考停止する。別にそれで困ったことなんてなかった。自分のことを他人にきちんと説明することが出来ないと困る環境なんて、私は知らない。
「わからない?」
ある人はなんの感情も感じることの出来ない声音でそういった。
「わかりません、全然。わかるのは、私は私がわからない」
「どうして? 今まで楽しいこと、うれしいこと、辛かったこと、あったでしょ?」
「わからないんです。何も感じてこなかったから」
「なんで? そんなはずないよ」
「出来るんですよ。何も感じないってこと、出来るんです」
私が一番得意だと思っているのはsれだ。何も感じない、何も思わない。ただただ、周りの世界を信号として脳みそに送り付ける。だけど脳みそはそれに対して最低限の反応しかしない。
「だめだよ、どんなの」
ある人は怒ったように言う。
「なんでダメなんですか?」
「何かを感じないと、だめなんだ」
「なんで?」
「きちんと感じれる人のお願いしか、私は聞けないのだよ」
「なにそれ」
ある人は願いを一つだけ、なんでも叶えてくれるという。なのになんだそれは。
私を差別するのか?
「なんできちんと感じれる人のお願いしか聞いたらダメなの?」
「それはね、私が願いを聞いてあげられるのは人間だけだって決まっているからだよ」
「私は人間です」
「いや君は人間じゃないよ。だって何も感じないんだろ?」
「いいえ、人間です」
「違う」
「お願い! 願いを叶えて。私は人間です。だから願いを叶えて」
「残念だったね」
ある人はそういうと私に背を向けた。ある人は天へと手を伸ばし、そしてゆっくりと動かしはじめる。ある人の手はなんどもなんども、大きな大きな円を描く。そして突然、私たちを包んでいたもふもふが薄くなってきた。
私は恐怖を感じた。このもふもふが今にも崩壊しそうな気がしたからだ。
ある人は円を描くのをやめない。もふもふはどんどん薄くなっていく。
「お願い、願いを叶えて! 願いを聞いて!」
薄くなるもふもふ、薄くなるもふもふ、薄くなるもふもふ。
「お願い! ねえ、お願い!」
私は声の限り叫んだ。自分でも驚くくらい、今まで出したことのないような大きな声。まるで自分ではないみたいな大きな声。
「お願い!」
ある人が私を戻そうとしているのがわかった。わざわざ私の願いを叶えに来てくれたのに、私を下に落とそうとしている。
「なんで? なんでよ! 私は本気なんです、本気でお願いをしにきたのに!」
自然とわき出てくる感情があった。きっと突然理不尽な目にあったときに感じるショックというやつだ。私は今、ショックをうけている。もうすぐで手に入りそうだったものがするすると落ちていくのを目の前で見て、ショックなんだ。
ああ、そうか。
「ほら、見てよ! 私こんなに叫んでる、こんなに喚いてる! 私は怒っているの! わかるでしょ、だから私は人間です!」
ある人の手の動きが止まった。大きな円が停止し、もふもふの薄さが元に戻っていく。ある人は私の方を向いてにこっと笑った。
「本当だね、君はこんなに怒ってる。君は人間だよ。仕方ないな、お願いを叶えてあげよう」
そういうとある人は黒いバスローブに手を入れた。
中からは長い杖のようなものが出てくる。てっぺんのところに大きな宝石がついている。
「君の願いを、叶えましょう」
ある人が手を振った。
あたりが橙色に包まれた。