安部公房:灰色の想像力
安部公房が好きだ。
安部公房の文章は灰色を想起する。金属の灰色。路傍のごみの灰色。煤煙に覆われた空の灰色。灰色の音もする。混沌とした色だ。要素が互いに自分を強調した結果生まれたねずみの色合いだ。それは安定を知らない。不安定は落ち着かない。だけど塊でないが故に凄まじいエネルギーを潜ませている。
輪郭を指先でなぞると言葉が浮かんだ。
ぼくの幻想としての、敗戦直後の日本の色。安部公房の灰色は、そんな昭和の、混沌の灰色だ。
2000年以降しか、記憶にない。ぼくは今年で20になった。記憶している街の風景は、どこもかしこも人の手の入った清潔の仮面をかぶっている。公園のビニールテントは撤去され、野良猫が跋扈する都市。アスファルトの割れ目から伸びた雑草や、大きな巣を張った蜘蛛だけが灰色を思わせる。だからだろうか、ぼくはひどく灰色に憧れる。
六法全書を利用して耳の値段を評価する儲け話。人体を最適に活用することを目的にした機械。存在しない秘密によって生じた政治力。水棲人類の発明のための胎児誘拐。箱男。
どれもこれも昭和が生んだ産物だ。
生まれるにあたり、ひとは場所と時間を選べない。「同時代」を生きている空間に書き込まれた意味上のレイヤーだと捉えるならば、時代こそが想像力の土壌である。ひとはその中の種である。時代からは逃れられない。
では個々人は時代の表現形なのか。時代を越えることは不可能なのか。そうではない。時代を捕まえてしまうと、結晶した時間が普遍的価値の呼び水となる。安部公房はそうして、昭和のある風景をくくりつけることで、物語を虚構の彼方へ飛翔しないよう押しとどめると同時に現実という大地へと手繰り寄せることに成功していると思う。
安部公房は講演などで、書きながらテーマを考えるということ、登場人物と作者の間に徐々に合意が形成されてくるということを語っている。お定まりの物語はつまらない、とも。
迷宮を構築する。安部公房はそう宣言していた。
第1作目「終りし道の標べに」からその意欲が窺えるが、強く感じたのは短編集「無関係な死・時の崖」だった。
安部公房は自らの言葉と論理と感性によって詩性を兼ね備えた名短編を多く生み出したが、この一冊は特にハズレなしだった。彼の灰色の想像力が遺憾なく発揮されている。
何が描かれているのか。端的に言えば、時代に生きる人間だ。コンクリートに固められつつある人間の魂を彫刻するような作品がこの短編集に収録されている。表題作「無関係な死」はその代表例だ。
平時にはのうのうと潜在する人間性を暴き出すのは特定要素が極限されたときの重力だ。安部公房は多くの場合状況を極限してブラックホールを生みだす。するとあまりの重力にペルソナは剥ぎ取られ、幻想や迷信は環境の激変に耐えられず死滅し、有機体に宿った意識のそのままがあらわになる。
時として目をそらしたくなるものを安部公房は突きつける。
見なければならない。
安部公房の著作で繰り返し用いられる「見る/見られる」関係性が訴えかける。
その強制にひれ伏し、安部公房が建築した灰色の迷宮をその脳に宿すとき、世界は激変するだろう。
ぼくが安部公房を好むのは、彼の想像力が現実の上空で遊弋し、隙あらばその鋭い嘴で空へ連れ去ろうとしているように感じるからなのかもしれない。
今回も乱文になってしまいました
「なろう」というサイトの目的からいよいよ本格的に外れていきそうな気配が日々増しているので、はてなダイアリーかなにか、ブログを開いてそっちに移すことを検討中です