押井守:神なき時代に神を描いた映画監督
前文という名の言い訳
2016年5月20日、日本でついに、押井守監督の最新作「GARM WARS: The last Druid」が公開された。
2014年に東京国際映画祭で真っ先に公開され、日本よりも先に北米で公開されたこの映画を、2000年以来押井守ファンは焦がれ続けてきた。
二十一世紀を迎えるその年に、新たなる神話は語られるはずだった。それが資金不足という現実に圧殺された後、20年の時を経てこうして現代の日本に帰還したのは感無量という他ない。その姿が資本主義によりズタボロにされていたとしても、「G.R.M」という計画が再始動したこと、それにこそ意義があるのだ。
行為に意義を問い始めると最終的に実存にいたり、実存の問題は己の自意識によってのみ解決される。
攻殻機動隊シリーズで繰り返される「囁くのよ、私のゴーストが」というセリフが意味するところはそれだ、と思う。
最後に「と、思う」と言い訳してしまう自らのゴーストへの信頼のなさに自己嫌悪しつつ、けれども私は自らのゴーストを信じ、私の考える「押井守」像を記そう。
万人に受け入れられそうにもない、それこそ誰一人に共感されないかもしれない文章を記すことの意義はなんなのかという問いの答えは、自明だ。
囁くのさ、俺のゴーストが。
「疑似体験も夢も存在する情報は、全て現実でありそして幻なんだ。
どっちにせよ一人の人間が一生のうちに触れる情報なんて僅かなもんさ」
――「攻殻機動隊 Ghost in the Shell」より
多くの人々が言及しているように、押井守は常に現実というものを論じてきた。
夢と現実、官僚組織、家族、戦争、オンラインゲーム、……上げていくときりがない。
しかし「Ghost in the Shell」においてバトーが語ったこのセリフは、短いながらも、押井守監督のものの見方を示している。それは次のようにまとめる事ができるだろう。
押井守監督が論ずる現実は、常に幻想という言葉の言い換えにすぎない。
たとえそれが確として存在する現実だったとしても、仮想世界で体験した現実だとしても、存在自体が虚構に依って立つ被造物が体験した現実だったとしても、夢のなかで体験した現実だったとしても、映画の中に存在する映画という現実だったとしても、「存在する情報は、全て現実でありそして幻な」のだ。
なまじ客観的な時間やら空間やら考えるからいけないのだ、人々が体験し観測している「現実」なんていうのは、全て各個人の主観に依った虚構なのである、そう考えればいいじゃないかと、押井守監督は作品を通じて繰り返す。
だからこそ彼の映画の登場人物各人は主観的な現実という構造に気づき、苦悩し、では客観的な現実とはいったいなんなのかと求めてきた。
押井守監督は主観的でしかない人生を、客観的でしかない映画で描き続けた。
その姿勢は、映画の中で客観的現実を獲得しているキャラクターを登場させていることからも伺える。
客観的な現実を獲得しうる存在。ある時は「ティーチャ」と、またある時は「九姉妹」と、そしてまたある時は「夢邪鬼」と名を変え姿を変えてきた「彼」の存在を、私たちはこう称する。
神、と。
客観的な現実は、人間の存在の有無を問わないところで存在している。人為が介入したとき現実から客観性は剥奪される。なぜなら、私たちの意識というやつは現実を再解釈することしか出来ないからだ。それがどれだけ客観的事実に近かったとしても、そこに客観的現実なるものは存在しない。客観的現実を見つめるためには、意識を持たないよりほか手段はない。それを実現しうるものは神だ、というわけだ。
では客観的な現実を獲得しているのは神だけだろうかというと、そうではない。
押井守は明確に、自らの映画の中でこのことを論じている。
「
キム「人形に魂を吹き込んで人間を模造しようなんて奴の気が知れんよ。真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身の事だ。崩壊の寸前に踏みとどまって、爪先立ちを続ける死体」
バトー「電脳化した廃人に成り下がる。それが理由か」
キム「人間はその姿や動きの優美さに、いや、存在においても人形に敵わない。人間の認識能力の不完全さは、その現実の不完全さをもたらし。そして……その種の完全さは意識を持たないか、無限の意識を備えるか、つまり、人形或いは神においてしか実現しない」
トグサ「そろそろ仕事の話しないか?」
キム「いや、人形や神に匹敵する存在がもう一つだけ」
バトー「動物か」
キム「種類の比はあるが、我々の様に自己意識の強い生物が決して感じる事の出来ない、深い無意識の喜びに満ちている。認識の木の実を貪った者の末裔にとっては、神になるより困難な話だ」
」
――「イノセンス」より
神の存在と同様に押井守の映画に常に登場し続けた存在、動物と人形。
彼らに意識は存在しない。少なくとも、人間的な意識は。彼らは無垢に世界を観測する。客観的現実の中に幻想を見出したりはしない。押井守は彼らを神に匹敵する存在だとし、しばしばその無垢な瞳のうちに残酷な現実を描き出す。
特に動物は押井作品の鍵をにぎる事が多い。「機動警察パトレイバー the Movie」では、犬にしか聞こえない音があるとしった篠原遊馬が事件の真相に気づくシーンがあるし、「イノセンス」においては孤独に歩むバトーの良き伴侶としてバセットハウンドが描かれているだけでなく、半人形半人間のバトーに生の実感を与えるものとしても描かれてる。
最新作の「ガルムウォーズ」においては、グラと呼ばれる犬は祝福を与える生命として設定されており、ここまで語れば押井守がいかに動物、特に犬を重要視しているのかということがわかるだろう。
押井守監督は映画に現実を描き出す。
その映像の中には人間の目線だけでなく、必ず神の目線と動物の目線が描かれる。
彼らが見つめるものは何か?
ある時は荒廃した街、ある時は卒塔婆の群れと形容されうる大都市、ある時は娯楽のために生と死を弄ばれるクローンたち。
その全てが、退廃した文明がもたらした悲劇だ。
神は死んだという宣告が成されてから百年と少しが経過した頃から人々はそれを意識し始めた。それからまた百年が過ぎて、文明は幸福だけをもたらすわけではないと誰も彼もが心のどこかで気づいた。
それでも私たちは科学は幸福をもたらすという幻想を捨てきれずにいる。
けれど、人々がすがる幻想とは無関係なところで、地球はまわっている。
現実は人間の思惑などを超越したところに位置しているのだ。
その残酷ながら当たり前の現実を、動物や人形や神、つまり自意識を強く持たないものたち無垢な瞳は見つめている。
それを、押井守監督は示しているのだ。
それは物語の中における上位存在の指摘にとどまらず、映像というメッセージを媒介して、私たちの生きるこの現実における神の指摘へと発展していく。誰もが恐れる行為を、彼はずっと続けてきた。
押井守という映画監督の凄さはそこにある。人として、神はそこにいると指摘する勇気。それを指摘するのみにとどまらず時に迂遠に時に直接的に視聴者に気づかせようとする映画のメッセージ性。
かつて伊藤計劃氏が、小島秀夫氏を「神亡き時代の神の語り手」と評したように、
押井守監督は、小島秀夫氏とはまた別の角度から神を語る存在なのだ。
その押井守が、神々に作られ惑星アンヌンを維持し続ける部族「ガルム」の姿を描いた。ケルト神話や聖書を下敷きにした、新しい神話がそこに生み出されている。
それが何を意味するのか、今の私には想像もつかない。
あとがき
最後に余談を一つだけ。
押井守監督の映像って、フランス映画が源流にあるそうです。なので、日本映画的な見方をしてしまうと、頭の上に疑問符がたくさん浮かんでしまう……のだと思います。押井守監督が海外で受け容れられて日本では有名ではないのは、きっとこの文脈の違いがもたらす映像・メッセージの理解の難しさなのせいだと思います。なんで、日本のアニメを見るつもりではなくて、フランス映画を見るつもりで見たら結構わかりやすいかもしれません。
読んでくださり、ありがとうございました。