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SF雑感  作者: 犬井作
6/10

「平成ガメラ」三部作≠ファンタジー 監督:金子修介 特撮:樋口真嗣 脚本:伊藤和典


 「平成ガメラ」三部作という壮大な物語は、次のように幕を上げる。


 プルトニウムを積んでいた輸送船「海竜丸」が、水深三千メートル以上もある海域で座礁した。

 その知らせを受けた巡視船「のじま」の船長や乗組員が映る画面と視聴者がにわかに困惑と放射能漏れという恐怖に取りつかれかけた刹那の後、人類を嘲笑うかのように、環礁は太平洋の暗い海へと消えていき――――


 圧巻の、タイトル表示。


 画面いっぱいに広がる「ガメラ」の三文字が、トランペットとヴァイオリンの生み出す重厚な音圧によって我々視聴者の脳裏に刻印される。



 タイトルロゴの後に続く「平成ガメラ」世界の新聞記事は、我々視聴者の脳細胞に刻み込まれたガメラという存在が決して消えないものであると示しているかのようだ。



 平成ガメラ三部作は公開から二十年の歳月が過ぎた今でも多くの人々に愛されている。それは、彼らがガメラに忘れえぬ衝撃を与えられたことをこの上なく明白に物語っている。


 私の心にも忘れられない衝撃を与えたこの映画は、感想を書くために一ヶ月近く間を置かなければいけないくらいに、初見時のインパクトがとてつもなく大きい。

 一ヶ月間熱狂と興奮に彩られた、消化不良を起こした見るに耐えない文章の羅列しか書けなかった。


それほどまでに大きな衝撃を生み出した源はいったい何か。

ひとつは、映像からひしひしと伝わる製作スタッフの情熱だろう。

もうひとつは、三作=合計約五時間にわたって描かれたガメラという存在に対する理解と感動の積み重ねだろう。

しかしこの三部作をひっくるめて「平成ガメラ」とし、「平成ガメラ」とはいったい何ものなのかという疑問に対する答えとしては、この二つの答えは不十分だと、私は思う。


「平成ガメラ」というフィクションが持つ力強さは、なによりもその三作目「邪神覚醒」において発揮される。

「邪神覚醒」というシナリオが成立する、器の大きさ。その器の大きさは、もはや「平成ガメラ」が一介のファンタジー作品に収まっていないことを意味している。


 では、「平成ガメラ」三部作の正体とは一体何か?

 

現実と化した神話。

それこそが、この映画の正体なのだと私は考える。





Atention:以下、ネタバレを含む文章が続きます。一度でも「平成ガメラ」三部作を視聴していない方は、この先を読まないことをおすすめします。






金子修介がメガホンを取り、樋口真嗣が特技撮影をしたこの三部作という大作映画は、他の特撮と一線を画している。

「もしも現実に怪獣が現れたら」という、現実に対するエクストラポーレーションに忠実な脚と、迫力満点の特撮。その両者は徹底したリアリズムに支えられている。


「大怪獣空中決戦」の時から「邪神覚醒」に至るまで、そのリアリズムは一貫している。


 一作目「大怪獣空中決戦」におけるリアリズムは枚挙にいとまがない。

駆け寄ろうとした米森を咄嗟に自衛官、怪獣が現れたら倒してしまおうと考えるのではなく貴重生物だからと捕獲を命ずる役人、防衛出動でないと攻撃できない自衛隊、逃げ惑う群衆、爆炎を上げて倒れる博多の街並み。……フィクションの街に訪れた非日常の瞬間を、カメラは切り取っている。


二作目「レギオン襲来」においては基幹インフラが破壊されることで引き起こされる社会的問題と、その恐怖を中心に描かれる。この作品ではガメラの超自然的な、生物兵器性が描かれる。ビール瓶を食べ尽くすレギオンのエピソードがリフレインすることによって、レギオンは見事に


 この二作を通じて人類の守護者という側面が強く描かれたガメラは、三作目に至り全く別の顔を視聴者に見せる。


三作目「邪神覚醒」において、ガメラは過去に自身が犯した人類に対する罪にたいする罰を受ける。それはカッコいい、ヒーロー的な面ばかりをガメラが持たないということの証明だ。

誰しもが考える、「あれだけ街を破壊しているのだから、その被害に納得しない人がいるに違いない」という想像。その想像は現実と化し、ガメラは、一人の少女の抱いた憎悪によって破滅の寸前までに追い込まれる。

しかしこの苦戦と、人間目線の物語はガメラが真に「人類の守護者」という大きすぎる役割を果たすために必須の儀式なのだと、映画を見終えた私たちは気づく。。

 憎悪という人の業すら背負ったガメラは、ついに、人類全体の守護者として全幅の信頼を寄せられるようになる。

それは人類が神話の英雄に抱く憧れと同種のものに違いない。

 

 理解のできない強力な力を持ち、人類には到底不可能な偉業を成し遂げる英雄。彼らの生涯は得てして華々しく、最期は無惨なものだ。しかし彼らは人々に憧れ、讃え、憎み、愛する。

 三作を通じて描かれたガメラの姿はまさしく神話の英雄そのものだ。


つまり平成ガメラは、「ガメラが怪獣から神話の英雄へと進化していく物語」だと言い換えることができる。

この変身については、映像の力も欠かすことは出来ないが、なによりもその壮大なシナリオにこそ原因があるだろう。


その、脚本によって英雄と成りえたガメラという存在は映像により更なる進化を遂げる。


 特撮というジャンルの都合上、どうしても映像は非現実的なものとなる。海外の劇場版MARVEL映画など、大人向けにリアリズムを物語とカメラワークに導入し現実と虚構の境界線を可能な限り取っ払おうとした映画は多々あるものの、しかしそのどれもが英雄の物語であり、描かれるのは超人的なアクションだ。

 私たちはそれを、どうしてもフィクションとして、一歩引いた目線でみてしまう。

 

 しかし、ガメラは違う。


この三部作は、ガメラの目線で物語るのではなく、人々の目線で、社会の目線でガメラを語ることにより、現実に虚構という変数を代入することに成功している。

「邪神覚醒」のシナリオが成立するのも、「大怪獣空中決戦」「レギオン襲来」が徹底したリアリズムを基盤とした映像を心がけたからに他ならない。もしもそのどこかにあからさまな瑕疵があったとすれば、ガメラに対して憎悪を抱く少女の存在は、「フィクションだから存在しない」の一言で片付けられたに違いない。


崩壊した東京がファンタジー的舞台からリアルな人間ドラマの舞台へと進化し、新しい日本が視聴者の脳細胞中に定着したのは、金子修介と樋口真嗣の二人が境界線の存在しない虚構という現実、という映像を描き出したからだ。


私たちはその映像を目撃することで、映画の視聴者ではなく映画の住人へと変化し、ガメラが去っていった世界に生きる一人の人間へと変身する。現実という確固とした存在に、ガメラという存在が取り込まれ、浸透してしまう。

虚構と現実がシームレスな映像があたえるのは、現実における虚構と現実のシームレスさでもあるのだ。


そうなれば、ガメラは神話の英雄でありながら、現実に生きる存在としても確立することになる。我々はトールやロキ、毘沙門天と同じ位置にガメラを置いてしまう。


 現実と不可分なフィクション。

 

 それこそが、「平成ガメラ」三部作の正体なのだ。

長らくお待たせしました。


文章中でも書きましたが、平成ガメラが僕に与えた衝撃はものすごく、感想を書くのに一ヶ月ほど間を置くしかなかったのです。

今回は、いつもの様に勢いに任せるのではなく、あれこれ考えながら書こうと試みなければもうちょっと早くお届けすることも出来たのでしょうが、……その辺は、ご勘弁下さい笑


次回は押井守でいきます。

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