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SF雑感  作者: 犬井作
5/10

過去 ≠ 「人間そっくり」 = 現代SF 著:安部公房

 あなたは自分が人間であると証明できるだろうか。


 証明は一見、簡単なように思える。しかしその実、非常に困難だ。

「私は母の胎盤から生まれてきた人間だ、これは証明にならないか」と思われた方。では自分が火星から地球と惑星間貿易協定を結びに来たエージェントだったのが、見た目・考え方があまりにも人間そっくりだったために、「自分は地球人であり、人間である」と思い込むようになり、過去の記憶を忘れ自ら改ざんし、地球人だと思いこむようになった火星人でないと証明できるだろうか?

 屁理屈だと言われても、そこに可能性が存在する限り証明とはいえない、というのが、この物語に出てくる男の発言だ。あなたは「人間そっくり」という作品で、自分が何者なのかと問われる。あなたはその問いにどう答える?、


 バカバカしいと断ずる前に、しばらく僕の話に付き合っていただきたい。


 まずは、そう、この物語が一体いつの時代のものであり、安部公房という作家は何者なのかというところから。


 「人間そっくり」は1967年早川書房から刊行されたSF作品だ。小松左京らが現役だった時代、つまり、まだ日本SFが黎明期のうちにあった頃の作品だ。あの頃SFがどんな役割を果たしていたか、当時に生きていない僕は想像することしかできないし、お恥ずかしながら「日本沈没」だったり、星新一のショートショート集を読んだくらいなので想像するための情報があまりに不足しているのだが、その少ない印象から僕が受けたのは、「テクノロジーによって変化する社会」を描くことに主眼が置かれており、哲学的な――あるいは文学的な――その時代に生きる人間の苦悩であったり、魂はどこにあるのか、というテーマはあまり重視されていなかったように思える。

 自分とはなにか。他者とは何か。

 僕は、日本SFの文脈の中で思弁的に世界を描き出す手法は神林長平を待つまで用いられなかったと思っていた。

 この本を読むまでは。


 安部公房は異色の作家だ。

 彼の文学は日本文学の文脈の中に存在しない。彼と同時代の作家を比較した時、その特異性はいっそう際立つ。彼はひたすら思弁を重ね続けていた。

 思弁という文法は日本文学においては夏目漱石もとったものであるし、それなら日本文学の文脈の中にあるだろうと思われるかもしれない。

 しかし安部公房の作品を読んでみると、科学的だという印象を受ける。

 そこで僕は、彼の作風は「スペキュレイティブ・フィクション」に分類することができるのではないか、と考えた。

 こういうジャンル分けじみた分類作業はその作品をステロタイプに押し込めるようであまり好きではないのだが、どうも安部公房を語るとき、日本文学という流れだけを使うのは間違いであるように感じられる。だから、僕の証明作業にしばし付き合ってほしい。

 「スペキュレイティブ・フィクション」という言葉が初めて使われたのはいつかだろうか? 調べてみると、Wikipediaに案の定書いてあった。それによると1947年、ロバート・A・ハインライン氏によって用いられたのが最初だ、という。そしてニューウェーブ運動が'60年代に端を発し、急速にスペキュレイティブ・フィクションは普及していく。

 この「人間そっくり」の巻末に収録されている解説によると、安部公房は当時のSFに強い関心を示していたという。つまりそれは、時期的に見てニューウェーブ運動世代――J・G・バラードやブライアン・オールディスのSFだと推測できる。安部公房は日本文学の思弁よりも、彼らの思弁を取り入れたと考えることは、無理筋ではないと思う。

 安部公房は、おそらく、SF的思弁を文学の文法の中に取り入れることのできた最初期の作家だ。「壁」「箱男」など、一見幻想小説じみた外見をもつ作品群は、冷静な目で見れば思弁的に語られている。思弁のプロセスとリザルトを閉じ込めた物語は一般の理解の埒外にあるように見えて、その実意外な説得力がある。それはすべて彼の思弁のなしうる技だ。


 つまり、安部公房は日本文学の山脈に燦然と輝く作家でありながら、日本SFの黎明期においてすでにスペキュレイティブ・フィクションを描いた異色の作家でもあるのだ。したがって、安部公房という作家は神林長平や伊藤計劃に代表される日本思弁SFの元祖と言っても過言ではないのである。


 彼の死後、SFの文法を文学畑で行った人は僕の知る限り円城塔の登場を待つまで現れなかった。

 安部公房があと十年生きていれば果たしていた功績――科学が浸透していく現代に生きる人々を描くために、文学の中にSFを取り込んだこと――を、円城塔が代わりにやってのけたといったほうが正しいのかもしれない。



 安部公房がいかなる作家であるかということは理解していただけたと思う。

 では、この「人間そっくり」という作品はいったいなんなのか? 


 「人間そっくり」という本に持ち込まれている科学的論理は、<トポロジー>、つまり位相幾何学の論理だ。位相幾何学という単語を聞くと、なんじゃそれはと投げ出したくなるかもしれない。しかしシーザーを理解するためにシーザーである必要がないように、この作品を読む上で位相幾何学を理解しておく必要はない。安部公房がトポロジーという概念を文芸的に変換するために、その変換の前後を作中に示しているからだ。

 そのために、読者は安部公房のロジックに取り込まれ、地球人であるという主人公の男にトポロジー的に同調し、主人公を訪問した「人間そっくり」の火星人だと自称する男により常識を崩される。なのに読み終えるまで手は止まらず、混乱の渦中にあるのに理路整然とストーリーは進み、読了後、自分はいったい何者なのかと、自分は本当に地球人であると言えるだろうかという疑問にとらわれだろう。あなたは囚われるだろうか? 少なくとも僕は、囚われた。

 悩みに悩み、悩んだ末、僕は漸く応えを出した。

 読書感想文なので、野暮かもしれないが、簡潔に記す。

 結論はこうだ。


「囁くのさ、俺のゴーストが」 


 またも引用で申し訳ない。だがこれ以上に、この問いに対する答えとして適切なものはないだろう。

 自分というのは一体何者なのか? という問いを投げかけられた時、最後に信じることができるのは自分の肉体に宿る魂だけなのだ。肉体的な、――空間的なものは、簡単にその信頼性を失う。トポロジー的に変換した時、人間も、人間そっくりの何者かも、同一のものとしてみなされるのだ。「私は母の胎盤から生まれた、生まれた時のヴィデオもある」という主張も、私の魂の正気が認められなければ信頼性がない。私たちは何よりもまず、自らの魂を信じ、自分は何者なのかという定義付けを行うしかない。

 人間そっくりであろうと人間であろうと、俺は、俺だ。

 

 そう断言できる強固な自我こそが、人間の証明になりうるのだろう。



久しぶりの更新です。拙い文章ですが、楽しんでいただいたならば幸いです。

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