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SF雑感  作者: 犬井作
2/10

伊藤計劃 = 死者 ∧ 現在形 ≠ Dead Content

From Follower With Love

 以下、独白。



 わたしがSFにハマった原因は伊藤計劃であり、彼の姿勢はそのままわたしの小説を書く上での姿勢となった。他人がなんと言おうと、自分は伊藤計劃のフォロワーである。自分は彼の作品に惚れ、作家としての彼に惚れ、もしかしたら、個人としての彼に惚れている。彼の作品に向かう姿勢やその他もろもろ、自分は彼のスタイルを参考にして、今作品に取り組んでいると言っても過言ではない。サイバーパンク的手法だ、彼自身も説明している通りの。

 けれどもその出会いはつい最近のものだ。

 昨年八月の中頃だった。

 初読の時の感動は忘れられない。時間も自分も全て忘れて物語に没頭する喜びをその時味わった。かつてない快感だった。全身に電流が走ったような、眼前の文字が情景として浮かび上がりその匂いすらも感じられるような、そんな、不思議な感覚。虐殺器官とハーモニーを読んでから、社会はどういうふうに在るのかを気にするようになったから、ある意味伊藤計劃の作品は自分を別人にしてしまった。

 小説に向ける姿勢は彼を真似した。この二年間は、伊藤計劃をいかにして人生に取り組むかに躍起になった期間だったとも言える。伊藤計劃の映画への取り組み方。その生涯がどういう時代背景とともにあり、何故彼が「小島原理主義者」を自称するほどになったのか。その過程でメタルギアシリーズを全てプレイし、SFもたくさん読み、映画もたくさん視聴し、伊藤計劃のブログやホームページを見ながら、彼自身のスタイルを研究していった。

 その過程で思ったのが、「明治文学的な世界は現代文学にはないが、SFにはあるのでは」ということだった。同時に、「現代社会はSF的にしか表現できないのでは」という薄ぼんやりとした感覚も得た。たぶん、これは正しいんじゃないだろうか。

 スマートフォンなんてSF作家でも想像のつかなかったことだ。サイバーパンク的未来は来なかったが、現代はなんともSF的だ。民族の対立は深まる一方で、ネット社会では無国境化が進んでいる。二つの世界が存在し、同じ人間が二つ以上の顔を持つ。サイバーパンクは実際に顔を整形するが、現代はデータの顔を帰るだけでいいのだ。このサイトだって、ユーザを変えれば同一人物でも他人として見ることができる。作品が重複していなければ、だが。

 伊藤計劃が虐殺器官で描いたこともそれに近い。トレーサビリティが発達したのだったら、その隙間=IDチェックのないところを通り続ければその人物の存在はわからないし、IDさえ変えれば別人になり変われる。彼は現代を描き通したのだ。

 そう思った時、心の底から「SFはスゴイ」と思った。

 僕はその時SFというジャンルに惚れ込み、同時に、伊藤計劃にも惚れ込んだ。


 だけれども、伊藤計劃は死んでいる。同じ人間は二度と現れない。

 けど今でも自分は死者(=伊藤計劃)を追い続けている。亡霊を、生活に取り憑かせようとしているのでは、と自問することもある。

 不健全だ。


 ◇


 しかし死して尚活動するコンテンツとして、伊藤計劃はある。

 来年公開の映画、いわゆる「Project-Itoh」がそれだ。それだけではなく、あらゆるところで『伊藤計劃』という言葉が使われる。彼の言を借りると、伊藤計劃はメタルギアソリッドでいうザ・ボスやビッグボスのような「呪い」に変わっている。現実を規定するもの、「伊藤計劃」というワード自体が意味あるものとして、様々な思惑を生んでいく。はてなブックマークでは「伊藤計劃はキリストを超えた。わけあるか。くたばれ。」というのがあって、それに対して「伊藤計劃以後」の著者藤田直哉氏は自身のブログに「伊藤計劃以後とは何か?」という題でその反論を書いている。自分はまだSFにどっぷり浸かったわけではないので細かいことはわからないのだが、SF読みだけでなく一般人まで巻き込んだ「伊藤計劃論争」が今尚続いているらしい。まるで80年代のサイバーパンク・ブームのように。

 藤田直哉氏は「伊藤計劃以後とはなにか?」の中で、


” 伊藤計劃が皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会そのものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います。 ”


 という文章を書いているけれど、わたしの意見は概ね藤田直哉氏と同じで、この論争までがすべて伊藤計劃の「Project」の一つであり、ある意味、彼のブログで紹介している「世界精神型の悪役」の行いとまったくもって等しい。彼は自身の欲望を世界にぶちまけたのであって、それを自覚した上で文脈を捉えないといけないのだ。……きっと、多分。

 だから、伊藤計劃が消費されていく現状を見ながら、天を仰いで亡き人に思いを寄せてみるのも、伊藤計劃のフォロワーとしてはいいかもしれない。「わたしもあなたの文脈に組み込まれてしまいました」と笑い飛ばして、自分の作品を書いていくのがいいのだろう。

 亡霊が生活に取り憑く? 上等だ。伊藤計劃が見ているんだから、いい作品を作ってやろうじゃないか。

 


 わたしの伊藤計劃への愛が伝われば幸いである。

ざ、雑感だから……(言い訳)

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