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SF雑感  作者: 犬井作
1/10

BEATLESS/長谷敏司/読書感想文

いわゆる雑感であります。お付き合いいただけると幸いです。

 「BEATLESS」を読んでいる最中に考えていたことが二つある。

 一つは長谷敏司氏の文体のことと、「BEATLESS」に連なる作品の系譜について、だ。以下、つらつらと雑感を連ねていくので、それを承知のうえで読んでいっていただきたい。


 ◇


 初めて読んだ長谷敏司さんの作品は「メタルギアソリッド スネークイーター」でした。そこで気になった特徴が、この「BEATLESS」にもあった。描写の方法が独特なのだ。情景を描写するにしても、心理を描写するにしても、必ず、物語にどのような意味があるのか、その本質をわかり易い言葉で表しているのだ。「BEATLESS」作品中には「かたち」と「意味」というワードが特殊な意味を持って多々登場する。それはこの作品の中心となるキーワードで、このキーワードを、意図的に描写に登場させている。

 「BEATLESS」著者紹介の欄を読んで初めて知ったが、長谷敏司氏はスニーカー大賞を受賞して作家デビューしている。もとはライトノベルを中心に書かれていたそうだから、作品が解りやすい言葉で書かれ、会話中心でテンポよく進んでいき、プロットがアクション中心でかなりエンタメ寄りだったのも頷ける。それでも、この本質の繰り返し、という文体は特徴的だ。

 頭に、作者の伝えたいことがすっと入ってくる、というのだろうか。

 その物語の、そのシーンにおいて、登場人物がどのような役割を果たしているのか。その登場人物の行動がどういった意味を持つのか。長谷敏司氏の文体ではそれが文章に明示されている。

 戦闘シーンにおいて、各登場人物や各 hIE(インターフェース)――この作品におけるアンドロイドのことだ――がそれぞれどういった戦術を取ろうとしているのかが解りやすい。三人称の利点をあますところなく発揮している、といっても言いすぎじゃないと、思う。

 世界観が文体の特徴によく馴染んでいるのも、読んでいて思ったことだ。人とモノとの関係というのが作品の中心にあって、世界観はその関係をすでに表している。「BEATLESS」作中の、2105年時点での人間の視点がその世界観を誤解している。誤解された世界と、作者の描く正しい世界とのギャップが度々あらわれているような気がして面白い。具体的にどうこうというのはネタバレになりうるから言いたくないんだけれども。この作品がSF大賞受賞一歩手前まで来たのは、芸術的ともいえる文体と物語世界との一致があったことに原因の一端があるんじゃなかろうか。


 ◇


 ここからは「BEATLESS」本編に全く関係ない話だ。僕はこの間GEOのレンタルでに「イヴの時間」という映画を借りてきたのだけれども、これはようするに、アンドロイドが生活に導入されるようになったけれどもまだその扱い方で人々が議論している時代の話だ。

 この映画に登場するアンドロイドの頭の上には、天使の輪っかのような標識が就いている。これの有無がアンドロイドと人間を分けている。「イヴの時間」も「BEATLESS」と同様モノと人との関係を描いているんだけれども、アンドロイドの人間との関係に注目していて、「未来の日常」という異世界を描いているので、これはこれでまた面白いんだけれども、一旦横においておく。


 実は「BEATLESS」には、かつてhIE(作中におけるアンドロイドのこと)の頭の上に標識があったというセリフが出てくる。つまり、長谷敏司氏は「イヴの時間」を意識している可能性が高い、ということだ。

 SFはガジェットを共有することで、ジャンル全体が成長を続けていく。昔のアララギ派とか白樺派とか、そういうものがまだ残っている分野だと思う。

 作者間の繋がりがサイバーパンクという流行を作ったという事実があるように、ジャンル内における作者の地位が高いというんだろうか。「BEATLESS」の繋がりからそんなことを意識したんだけれども、これもまた横に置く話。


 ようするに、「BEATLESS」は「イヴの時間」の未来の可能性を描いているのだ。そういった繋がりが意識できるのがSFの面白いところなのではないだろうか。SFというジャンルは、作者同士の対話でもあれば、作者と読者の対話でもある。エンタメ作品として消費することもできれば、自分の中で消化して新しい形態を生み出す栄養にもなったりする。SFというジャンルの中における「BEATLESS」の位置みたいなものを考えながら読んでいくと、また違った面白さがあるに違いない。


 ◇


 作品の読書感想文をかいたからにはその本編にも触れておこうと思う。未読の方もいらっしゃると思うから、ネタバレはしたくないが、どうにも難しい。ここからさきは未読の方は特に、読まないほうがいいと思う。





 書きたいのは、このストーリーが王道ラノベ的「ボーイ・ミーツ・ガール」という形式を通して、「愛=錯覚」だと描いていることであり、最終的に主人公がその事実を受け入れるということだ。

 だから、下に続く文章はタイトル通りの雑感だ。

 

 物語はヒロイン=レイシアと主人公=アラトの出会いから始まり、その過程ですれ違いなどの紆余曲折を経て、レイシアとアラトの”再会”に終わる。

 まず、物語を読んでいけばわかる通り、二人の関係はモノとヒト=所有物と所有者であり、恋愛感情が働いても、その相手はこころを持たず、そしてクラウドシステムによりあるサーバーに保存されているプログラムに則ってオーナーを喜ばせる行動をとっているだけだ。しかし物語の始まりから、アラトはレイシアに奇怪(グロテスク)な恋愛感情を向けている。彼は作中で何度も描かれるように「チョロい」人物なので、その事実に気づいておらず、レイシアがいわゆる美少女である、自分に好意を向けている(と、錯覚させる行動をとっているだけなのだが)表象にしか目がいってない。物語の後半、クライマックスではその現実を思い知り、しかし、受け入れる。その事実があるからこそ、「BEATLESS」のラストシーンは思わず涙がこぼれ、アラトとレイシアの明るい未来が目に浮かんでくる。

 だが、そのラストシーンは、実質その表象を受けいれ、腹の底に何を抱えていようとも相手を信じて行動するということだ。それに異を唱える人に、物語の主人公遠藤アラトは声を大にして叫ぶだろう。

「それの何が悪い。その”かたち”を愛することがどうおかしい」

 作中でも似たようなことを登場人物に話しているアラトだが、それはあくまでレイシアのすべてを知る以前のことだ。物語の始まりと終わりでは、アラトは全くの別人と言っていいほど成長している。この成長こそが、「BEATLESS」で描かれる技術特異点を突破した世界における人々に求められていることなのだろう。私たちの目から見ると、到底度し難いだろうし、そんなことは現実に起こりうるだろうか。


 だが、きっと、似たようなことを求められる。そう思わせるだけの説得力がこの物語にはあった。

  




 ◇




 「BEATLESS」の面白さとかにテーマに置いた話ではなかったから、思った以上にぐだぐだした内容になってしまった。お目汚し失礼しましたという他ない。すこしでも「BEATLESS」に、そしてSFというジャンルに興味を持っていただければ幸いだ。長々とお付き合いいただきありがとうございました。

投稿予定だった小説の完成が長引きそうだったので、先にこちらから投稿していこうと思いました。投稿作品なしという文字がどうにも辛かったのものでして……

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