第一話『水の妖精』‐③
「あぁあっ。楽しかった」
わたしは再びベンチで休んでいた。そこへ、白い作務衣を着た人がやってくる。わたしのとなりへ、少し間をあけて腰をおろした。なにかを手に持ち、ぺろぺろとなめている。
「これ、意外と美味しいな。買ったかいがありました」
わたしは横目で、ちらちらっ、と見ているうちに、何故か急にほしくなってきた。
(だけど、『ください』っていっても、もらえないだろうな)
そうは思ったものの、一度めばえた感情は容易におさえられるものではない。わたしは恐る恐るその人に声をかけた。
「あのぉ」「うん?」
今まで横からしか見えなかった顔が、今は真正面から見える。と思ったその時。
「えっ!」「あっ!」
彼とわたしは同時に叫んでいた。
わたしの顔と身体。これらは、見た目には女の子。それに引きかえ、今、目の前にいる人は、どう見ても男の子。いや、両方とも、もう『子』とは呼べないかもしれないけれど。わたしがおどろいたのは男の子だったからではなく、その顔だ。この公園に来る途中で、わたしは『鏡』なるものに自分の姿をのぞいている。身体は彼の方が少し大きいし、わたしの髪は黒くて短い。だけど……、その顔つきはそっくりといっていい。
(どうしてこんなに……。ああっ! そうか!)
この時まで、どうしてわたしが人間の身体になったのか、さっぱり判らなかった。その答えが今、やっと出た。
(わたしは……、この人を知っている!)
わたしのいた湖『佐那』に、この人は小さい頃から時々遊びにきていた。『釣り』というものらしい。一日に数時間はすごしていたと思う。最初は気にもとめていなかった。でも、だんだんと、この人に関心を持つようになる。来てくれるのが楽しみ。そんな風にさえ思えるようになった。ある日を境に見かけなくなったけど、最近、またその姿を目にするようになる。しゃくなのは一人じゃなくて、二人で来るようになったこと。しかも、相手は女の子。同じ相手とばかりじゃない。少なくとも、二人以上は違う人と来ている。
(また女の人と一緒なんて! ここにわたしってものがいるじゃない!)
そうふんがいしたことも一度や二度じゃない。でも、よく考えてみたら、知っているのはわたしだけ。彼の方は知るよしもない。彼が二人でここへ来るたびに、やるせない思いをつのらせていた。
(そうか。わたしはいつの間にか人間になりたがっていたんだ。顔がにているのは、わたしが彼しか見ていなかった証拠。彼をしたい、『彼のそばにいたい』と思う気持ちが、わたしをこの身体へと変えたに違いない)
「ええと。君は僕の親せき……じゃないですよね」
彼は、へぇぇっ、とつぶやきながら興味深げにこちらを見ている。そのあいまにも例のものをぺろぺろとなめている。
たらぁりぃ。
かっこ悪い話だけど、知らない間に、わたしの口から透明なものがたれていた。
(ま、まずい!)
じゅる。
わたしにだって体裁というものはある。あわてて吸った。それが『よだれ』と知るのもまだ先のこと。
(見られちゃったかな)
恐る恐る彼の方をふり向く。
がりがりっ!
彼は手にしている棒だけを残して、後は全部たいらげてしまう。残った棒は、『ごみ箱』と書かれている箱の中へ、ぽいっ、と放りなげた。
「よぉし、入りました。今日は運がいいみたいですね。
……あのぉ、すみません。ちょっと、ここで待っていてもらえませんか?」
彼はそういうやいなや、わたしの返事も待たず、どこへともなく行ってしまった。
(ひょっとして……、きらわれた?)
わたしがあせったのはいうまでもない。だけど、それは杞憂にすぎなかった。それほど長く待つこともなく、彼が戻ってきた。
「はい、どうぞ」「えっ!」
彼の手には、自分がなめていたのと同じ物が二つ握られていた。その一つをわたしに手渡す。
「すみません。好きな種類がなにか聞くのを忘れたから、適当なものを選んじゃいましたけど」
「ええと。……これ、食べてもいいの?」
「もちろん。そのために買ってきたんです」
「そう。……それじゃあ、お言葉に甘えて。頂きまぁす」
「どうぞ」
わたしは、さっき彼がやったように、ぺろぺろとなめてみる。
「あっ、なんかうれしい」
舌に、ぱぁぁっ、と拡がるこの感覚。今までわたしが感じたことのないものだ。そんな思いを抱いているわたしに、彼は声をかけてくる。
「どうです、この氷菓子。甘さがほどよくて美味しいでしょう?」
「うん!」
(そうか。これは『氷菓子』っていうんだ。後、この感覚は、『甘い』とか『美味しい』って表現すればいいんだ)
わたしはどんどんかしこくなる。氷菓子をなめながら二人で話しあう。
(なんかとても楽しい。このまま時がとまらないかな)
わたしは本気でそう思った。
彼と話すきっかけになった氷菓子。だけど、それはもうなめつくし、影も形もない。棒もごみ箱へ捨てたし、いささか手持ち無沙汰の感がある。話しかけるにしても、なにを話していいのか、判らない。
(どうしょう。……あっ、そうだ!)
「あのぉ、すみません」「はい、なんでしょう?」
「氷菓子をありがとう。とても美味しかった。それで、あのぉ、あなたのお名前は?」
「えっ。……あっ、すみません。自己紹介がまだでしたね」
彼はそういって姿勢をただす。
「僕の名前はネイル。この近くにある病院に勤務しています」
(そうか。この人は、『ネイル』っていう名前なんだ)
わたしは今まで気になっていた人の名前が判り、うれしい気分になる。
「それで、君の名前は?」
「わたしはフローラ。わたしは……」
(困った。なんて自分を説明したらいいんだろう)
「いいたくないのであれば、無理していわなくてもかまいませんよ」
「別にそういうわけじゃないんだけど……、ただ、どんな風に説明したらいいのか……」
(この人には本当のことを打ちあけよう。その方がいい)
わたしはそう思った。
「わたしは……水の妖精なの。名前はフローラ。わたしがいた湖に流れ星が墜ちて、……それで強い霊力が」
しどろもどろで話すわたしに対し、ネイルさんは、
「あっ、もういいです。事情は大体つかめましたから」
といってわたしの肩を、ぽん、とやさしくたたいた。
「じゃあ、そろそろ行きましょう」
「えっ。どこに?」
「僕は今、病院の寮に住んでいるんですよ。誰か同居人がほしいな、って思っていたんですけど……、やっと見つかりました」
「あ、あのぉ、それってつまり、わたし……」
「他に誰がいますか? もちろん、君です」
「だけど、そんな簡単に」
(この人にとってわたしは初対面なはず。軽い。軽すぎる)
これが人間として、ネイルさんと初めて出逢った時の、わたしの素直な感想だ。
「おや、他に行くところがあるんですか? それとも、僕と一緒はいやでしょうか?」
(行くところなんてないし、一緒にいたいのも事実。なら、わたしの答えは一つ)
「お願い。連れていって」
「よかった。断られたらどうしようかと。でも、ほっとしました」
「だけど、いいの? わたしのことをよく知らないのに」
「どうして? これから知ればいいだけの話じゃないですか? 違いますか?」
「それは……そうだけど……」
「そうか……。ごめんなさい。君自身が迷っているんですね。この人についていっていいのかどうかって。まぁ、初対面だから無理もありませんが」
「それは違う!」
わたしは無意識のうちにネイルさんの手を、がしっ、と両手で握っていた。
(初対面なんかじゃない! だって、ずぅっとわたしはあなたを。あなただけを)
「じゃあ、いいんですね。僕のところに来てくれるんですね」
「うん」
「では、改めてお尋ねします。僕と一緒に暮らしませんか?」
「うん。わたしでいいなら」
わたしたちは微笑みあう。ネイルさんが立ちあがった。つづいてわたしも。
「あ、痛たたた!」
わたしは再びベンチへ腰をおろす。
「おや、どうしました」
「あ、足が……」
「ああ。裸足なんですね。どれどれ」
わたしの足を裏返す。
「これは……左右両方とも血がにじんでいますね。痛かったでしょう。すぐに手あてをします」
(そうか。この赤いものは『血』っていうのね。それに、この刺激は『痛い』っていうんだ)
ネイルさんはなにかをつぶやきながら足に手をかざしている。手が蒼白い光りに包まれ、その光が足裏へとおりて拡がる。その光が消えた時、足裏から血のあとや割れ目が消えていた。
「これでよし、と。それじゃあ」
そういって、両腕でわたしを抱える。
「ええと。ネイルさん?」
とまどっているわたしに彼は笑顔で話しかける。
「家に帰る前に靴屋へ行きましょう。なにか気に入ってくれるものがあるといいんですが」
「ネイルさん……」
彼はわたしを抱えたまま歩き始める。まるで未来へと導くように。そっと自分の胸をおさえてみた。なにかどきどきしている。
(これから、どうなっていくのかは判らない。でも、この人と一緒に暮らせるのは間違いない)
それだけ判ればそれでいい。
(ネイルさん。わたしの運命、あなたに託すからね)
わたしはそう決めた。
「ネイルにゃん!」「ネイルさん!」
「……どうしたんですか? お二体とも急に怖い顔をして」
「軽い、軽すぎるのにゃん!」「本当、軽すぎるわん!」
「な、なにがでしょう?」
たじたじ。たじたじ。
「そんにゃ初対面の相手に対し、すぐに、『一緒に住まにゃいか』、にゃんて」
「常識を疑うわん!」
「同居相手を選ぶにゃら、もっと慎重にあってしかるべきと思うのにゃけれども。
ミーにゃん。ミーにゃんはどう思うのにゃ?」
「アタシもミアンの意見にすっごく賛成だわん。未成年とはいっても、もうおとなに近いんだし、もっと分別があってもいいと思うわん」
「ネイルにゃん、少しは反省しにゃさい」「そうよ、反省すべきだわん」
「そうですか……。ですが……」
「なんにゃ? なにかいいたいことでもあるのにゃん?」
「もし、ですよ。仮に、僕がもっと慎重な人間だったとしたら……」
「だったら、なんにゃ?」
「僕はミアンさんに声をかけなかったと思いますよ」
「ふにっ……」
「今みたいに、僕と一緒に暮らしてはいなかったと思うんですが……。
それでもよいと?」
「ふにゃん。そ、それは……」
「ミーナさんとも、おしゃべりすることはなかっただろうし、今日だって、雨宿りすることも、こうして僕と一緒におやつを食べることもなかったと思います。
お二体とも、本当に、本当にその方がよかったとお考えで?」
「ふにゃ! そ、そんにゃことは!」
「ないわん! 絶対にないわん!」
「でも……、さっき、お二体が話したとおりにすると、そうなっちゃうんですが」
「ちょ、ちょっと待ってほしいのにゃ。ミーにゃんと話したいことがあるのにゃん」
くるっ。くるっ。
「困ったにゃあ。ミーにゃん、どうしたらいいと思うのにゃん?」
「ミアン。この際、さっきのはなかったことにしない? そうじゃないと、あとあと」
「ウチもそう思うのにゃん。
ウチはネイルにゃんのそばにいたいし、ここはなかったことにするのが一番にゃ」
「うん」「うんにゃ」
くるっ。くるっ。
「にゃははは。ネイルにゃん。さっきのは冗談にゃよ。にゃははは」
「あはははは。そうね。ネイルさんがいけないなんて、本当はこれっぽっちも思ったことはないわん。あははは」
「そうでしたか。じゃあ、今までどおりでいいんですね。ミアンさんは僕のところにいてくれるんですね?」
ぎくっ。
「も、もちろんにゃよ。あたりまえじゃにゃいか」
「ミーナさんも友だちでいてくれるんですね?」
ぎくっ。
「も、もちろんだわん。あたりまえじゃない」
「ネ、ネイルにゃん。じょ、冗談を真に受けてはいけないのにゃよ。にゃははは」
「そ、そうだわん。アタシたちが相手なのよ。もっと気軽にいてほしいわん。あははは」
「ふっふっふっ。そうですね。ふっふっふっ」
「にゃははは」「あっははは」「ふっふっふっ」
「……ふぅ。よかったにゃあ、ミーにゃん」
「……ふぅ。よかったわん、 ミアン」
「ネイルにゃん。ウチはネイルにゃんに是非とも聞きたいことがあるのにゃよ」
「なんでしょう? ミアンさん」
「フローラにゃんは一日で一体どのくらい食べたのにゃん? さぞかし大変な量だとは思うのにゃけれども」
「アタシも気になってしょうがないわん。ネイルさん。本当のところ、どうなの?」
わくわく。わくわく。
「なにをそんなに期待しているのか判りませんが……、
背格好が僕より少し小柄なだけですから、食べるのは僕と同じ量でしたよ」
「そんにゃあ!」「ありえないわん!」
「ありえないって……、どうしてそう思うんです?」
「だって、ネイルにゃんはいっていたじゃにゃいか」
「なにを? ですか。ミアンさん」
「ほら。前にフローラにゃんのことを、『ある意味、彼女はミアンさんの先輩、といえるかもしれませんね』って。
(天空の村・アタシはミーナ 第二十話『湖底にて』)」
「いいましたね、確かに。でも、それがなにか?」
「『先輩』、にゃんていうものにゃから……、
、ウチはてっきり、大食いの達人かと思ったのにゃん」
「アタシも」
「ミアンさん……。それにミーナさんまで……。
ミアンさん。僕が彼女を、『ミアンさんの先輩』っていったのは、この部屋で一緒に住んでいたからなんですけどぉ」
「あっ! にゃるほど」
「あっ! そういう深い意味があったんだわん」
「別に深くは……」