プロローグ『雨が降る』‐②
とまぁ、ここまではよかったんだけど。いや、よくはないけど……。
「そういえばミーにゃんは、さっき、赤いものを吐いていたような……」
(ま、まずい! あれを見られでもした日にゃあ……)
アタシは大急ぎで隠そうとした。でも、時既に遅し。
ミアンは、アタシが吐いたもののそばに立ち、くんくん、とにおいをかいでいる。
「この甘く香ばしいにおいは…… ぺろっ」
ミアンはなめた。
「にゃああっ! こ、これは赤ジャム! ミーにゃん。一体、どうやって手に入れたのにゃ!」
「く、苦しいわん。ミアン」
アタシの首根っこを押さえて、ぶんぶん、とゆさぶるミアン。その目には狂気すら感じる。
(……本当。食べもののこととなると、我を忘れて目を輝かせるんだから)
アタシの命もこれまでか。その緊迫したさなか、間のびしたようなネイルさんの声がひびく。
「ミアンさん。多分それは、木の実で造ったジャムを丸く固めた、『赤玉ゼリー』です。僕があげました。ミーナさん、美味しかったですか?」
「う、うん。美味しかったわん。……ぐわっ!」
突然、ミアンはつかんでいたアタシを、ぽい、と放りなげ、ネイルさんへと駆けよる。
「ネイルにゃん。ひどいじゃにゃいか。ウチはまだ食べさせてもらっていないにゃよ!」
ぺしっ、ぺしっ、と肉球で『畳』をたたいて懸命に抗議するミアン。心なしか、その目には涙さえ浮かんでいるように見える。
「いや。この前、試食用に造っていた時、たまたま台所へミーナさんが飛んできましてね。『どうしても、食べたい』とおっしゃるものだから、小さく固めたものをいくつか包んで差しあげたんです」
「そんにゃあ! 試食ならウチがするにゃよ。うわぁんにゃ! うわぁんにゃ!」
ミアンはついに赤子のように泣きだしてしまう。そんなミアンをネイルさんは、「おぉ、よし、よし」と抱きかかえる。
(何百年も生きている化け猫が。これって幼児退行現象ってやつかな?)
「ぐすんぐすん。ネイルにゃん、ウチにいじわるをしてはいけないのにゃよ」
「ミアンさん。僕がミアンさんにいじわるなんてするはずがないじゃありませんか。
さぁ、きげんを直してください。それでこれが一応、完成品なんですけど。食べてみますか?」
この言葉を聞いたとたん、ミアンは、ふにゃあ、と笑い、口を大きく開ける。
(今泣いた化け猫が、もう笑っている)
アタシはあきれながら手元に残っている『赤玉ゼリー』をほおばる。もぐもぐ。
ミアンも完成品とやらを、ぽい、と口に放りこまれた。
「むにゃむにゃむにゃ。……ううん。これは美味いにゃよ。生やわらかい中にもほのかに弾力があって、かむと、じゅわぁっ、と赤ジャムの汁が流れだし、その甘さが舌を喜ばせてくれる。香ばしい香りも口いっぱいに拡がって、この胸を、きゅぅん、と、ときめかせてしまう。
さすがはネイルにゃん。心にくいまでの見事な味の演出にゃよ」
「それはよかった。ミアンさんのために造ったかいがありましたよ」
「ありがとう、ネイルにゃん」
ミアンは幸せな表情を浮かべながら、赤玉ゼリーを、もぐもぐ、と食べていた。
「それでね、ネイルさん。実体波についてなんだけど」
アタシはやっと想いだした。
「あれって消す時は別にかまわないんだけど、造りだす時はかなりの霊力を必要とするのよ。それにね。これはアタシも実感していることだけど、霊体のまま動きまわると、みるみる間に霊力をなくしちゃう。実体波をまとった方が霊力を消耗しにくいの。霊力の自然放出分がおさえられているんだと思うわん。それが証拠に、今までアタシはお昼近くになると疲れ始めて、一旦イオラの元へ帰ることが多かったの。それが今じゃ、一日中街の中にいても大丈夫。実体波ってたいしたもんよ」
「なるほど。実体波を造ったり霊体のままでいたりするのは、霊力のむだづかいになるってわけですね。それをやるぐらいなら雨にぬれたとしても、こうやってかわかした方がはるかに楽だと」
「そういうことにゃよ、ネイルにゃん。
ミーにゃん。説明、ご苦労さまだったにゃ。なかなかうまかったにゃよ」
「そ、そう? えへへ」
(めずらしいな。ミアンにほめられちゃった)
雨はまだ降っている。
「ミアン。これって(霊翼竜の)雨神フーレが降らしているのよね。ということは、レミナさんが指示しているわけでしょう? なんでこんな急に降らせるのかな。決まった時間に決まった量を降らせばいいのに」
「それは」「それはですね」
ネイルさんが部屋に戻ってきて話に割りこんできた。お盆には、形が異なる三つのコップが乗っていて、そこから湯気が立ちこめている。
「雨を降らすタイミングやその量って、事前にはレミナさん自身にも判らないらしいです。
陽ざしの強さ、村の状況、フーレの具合、その他さまざまな事情を考慮した上で、常に安定した環境を保てるよう、即座に判断しているとか。それができるからこそ、レミナさんはフーレの使い手なんでしょうね」
ネイルさんはそういいながら、ちゃぶ台へコップを置く。それが終わると、アタシたちと一緒にその場へ座った。
「さぁ、どうぞ。これでも飲んで身体を温めてください」
「ありがとう」「ネイルにゃん。いつもすまないにゃ」
ごくごくごくっ。ぺろぺろぺろ。
実体波をまとう身体中に飲みものの温かさが拡がる。
人の言葉では、『五臓六腑にしみわたる』とかいうらしい。
「ふぅ。なんか落ちついたわん。ネイルさん。この飲みもの、なかなか美味しいよ」
「ウチも、ネイルにゃんの造った食べものや飲みものの味は好きにゃよ」
「お二匹の口にあったようですね。よかった」
アタシは空になった自分のコップを改めてながめた。銀色に光っていて結構おしゃれ。
「これ、アタシが飲むのにちょうどいいけど、売っているの?」
「ああ。それは、レミナさんが造ってくれたんですよ。ほら、いつも病院の休憩室でお茶をする時、ミーナさんだけ紙の上に乗せたおやつを食べたり、大き目のコップからストローですすったりしているでしょう。この間、ミーナさんが帰ったあとに、『あれじゃあ、品がなさすぎるよ』ってレミナさんがいいだしまして。それで造ることにしたみたいです」
「そうなんだ。なんかレミナさんに気をつかわせちゃったみたいね」
「いえ、ラミアさんの話によれば、レミナさんはそういう小物を造るのがとても好きなんだとか。喜んでやっていた、といっていましたよ」
「そうかぁ。それならいいんだけど」
「今、ミーナさんが持っている大きさのコップとお皿は、もう休憩室の戸棚にも置いてあります。この次からはそれでおやつを食べられますよ」
「ふーん。持つべき者は友だちなり、だわん。レミナさん、感謝します」
アタシは脳裏にレミナさんの顔を思い浮かべ、頭をさげた。
「うぅん。美味かったにゃ」
ミアンは身体を、ぶるぶるっとふるわせた。どうやら、飲み終わったらしい。
「では、食器を片づけますか」
ネイルさんは一気に飲みほすと、お盆の上にみんなのコップを乗せて台所へと向かった。
アタシは何気にそのあとを飛んでいく。
「おや、どうしました?」
「いや、男の人が使う台所って、どんなかな、と思って」
「ここは寮ですからね。どの部屋も同じですよ。もっとも食器は、僕が選んで買ったものですけどね」
「白色ばっかりなのね」
「きれいだし、汚れてもすぐにに判りますからね。とはいっても、店で売っているのは、ほとんどがこんな感じですけど」
ネイルさんはアタシとおしゃべりをしながらも手際よく食器を洗い、次々とかわし台に置いていく。
「さてと。終わりました」
洗いものが全部終わると、ネイルさんは部屋へと向かう。もちろん、アタシもそのあとを追おうとしたんだけど、その際、ふと食器棚に目をとめた。
「あれは」
食器棚の一番上は半透明のガラス戸で閉じた状態になっている。その向こうに、なにやら色のついたものがあるのを見つけた。
「なにかな?」
アタシは好奇心から、そのガラス戸をとおりぬける。
「これは……」
そこには、水色の食器が一式置かれていた。まるで、それだけがこの棚のご主人さまでもあるかのように。
「ネイルさん、あれって」
部屋に戻っていたネイルさんに、水色の食器について聞いてみた。
「ああ、見ちゃったんですか。あれを」
「えっ! いけなかったの?」
「いえ、あれは想いでの品なんですよ。だから、あそこにしまって置いたんですけどね」
「そういえば」
ミアンがなにかに気がついたみたい。
「ウチがここに来た時には、もう、あの食器はあったにゃ。特に関心もなかったから、なにも聞かなかったのにゃけれども」
「いわれてみればそうですね。僕もあの食器について話した記憶がありません」
「なんか特別な意味あいがある食器なの?」とアタシは尋ねてみた。
「そうです。でも、話せば長くなってしまいますが」
「かまわないわん。まだ雨が降っているから表には出たくないし」
「ウチも聞いてみたいにゃ」
ミアンも同意する。
「お二体がそうまでおっしゃるなら。といって、ただ聞いているだけでは退屈かもしれません。どうです? おやつを用意しますから、それを味わいながら、ということでは?」
「うん。それがいいわん」「頼むにゃ」
「かしこまりました」
ネイルさんは自分がいったとおり、お茶とおやつをちゃぶ台へ並べてくれた。
アタシたちは再びお茶をすする。ネイルさんは一口飲んだあと、ちゃぶ台へコップを置いた。そのかたわらには、一緒に持ってきた水色の食器が置かれている。
「これから話すのは、僕がミアンさんと出逢う前。中央病院へ勤めだしてから、かれこれ二年近くになろうとしていた頃のできごとです。あれは確か休日だったと思います。僕が……」
まだ外は雨風がふきあれている。そんな中、ネイルさんの話が始まった。