第四話『きずな』‐②
(早くこどもを助けなきゃ。ええと、……どこに?)
「やっと来たのね。ここよ、ここ」
(ここって……、あっ、あそこだ!)
川の中からつきでている岩と岩のせまい間に、こどもは、はさまれていた。これではどちらの川岸からでも死角になる。見つからないのも当然だ。
近づいてみる。こどもは岩にだきついたまま動く気配がない。いっしゅん、だめかと思った。でも水面から顔は出している。
(『死のにおい』を感じない。とすると、気を失っているだけかもしれない)
わたしはこどものそばまで泳ぐと、その身体をだきしめた。
どっくん。どっくん。
命のこどうが伝わってきた。呼吸もちゃんとしている。
(よかったぁ。この子、まだ生きている)
なにかに引っかかることもなく、あっさりと岩の間からこどもを連れだすことができた。
わたしはみちびいてくれた水の妖精へ、お礼の言葉を口にした。
「ありがとう」
「どういたしまして。それじゃあね」
この言葉を最後に、霊覚交信は、ぷっつりと、とだえた。いくら待ってもなにも聞こえてはこない。
(そういえば、名前も聞いていなかったな)
「ねぇ、名前を教えて」
いるかいないか判らない。だけど、そうつぶやいてみた。
答えは……結局、返ってはこなかった。
(母親は心配しているだろうな。早く彼女の元に返してやらなきゃ)
そう思ったのだけれど、ふと困ってしまった。
(どうやって返そうか?)
水の流れに逆らってこどもが水面をうかびながらやってくる、というのはどう考えてもおかしい。水中にもぐって上流まで行ったのち、母親の待つ下流へ流すという方法もあるにはある。だけどそれでは、こどもは呼吸をできないだろうし、下流に流れたものが上流からやってくるっていうのもまた変な話だ。
(なにかいい方法はないかなぁ?)
とほうにくれるわたしの目の前で思いがけないことが起きた。
ががぁん! ががぁん!
とつぜんのできごとだった。土砂くずれのあとがなまなましい頂上の一角より巨大な土のかたまり、いわゆる『つちくれ』が転がりおちてきた。
「あ、あ、あ」
わたしはおどろきのあまり、身動き一つとれず、ぽかぁん、と口を開けたまま。その間も、どんどんこちらへ転がってくる
ががぁん!
はっ!
ついに、わたしの目の前、川が流れている広場に落ちた。
(で、でも、ここからは遠い。まちがっても、こっちには……)
そう思っていた。ところが。
「見ぃっけ!」
霊覚交信でどこからか言葉が伝わってきた、と思っていたら、なんと、落ちたつちくれがこちらへ向きを変えて転がってきた。
「そ、そんなぁ」
あわてて飛びこもうとした。ところが、わたしの両手には気を失ったこどもがひとりいる。
(だめだ。こんな状態の子を水にもぐらせるわけにはいかない)
でも、つちくれは、こっちの事情などおかまいなしにどんどん近づいてくる。
「ねぇ、おねぇ。あそぼっ」
また、なぞの声が。しかも、今度はさっきよりもはっきりと心に感じる。
「まさか……、あの土のかたまりから」
「ねぇ、あそぼ、あそぼ」
つちくれが近づくにつれ、どんどん、心に強く感じてくる。
「まちがいない、あそこからだ。でも、つちくれがどうして……」
だががぁぁん!
つちくれがまるで生きもののように大きく跳びはねる。わたしは思わず目を丸くした。
「ま、まずい!」
上空から、つちくれが、『おねぇっ!』と、さけびつつ、わたしめがけて降下してくる。動こうにも足がすくんで動けない。
(だめぇ、ぶつかるぅ!)
と思ったその時。
すたっ。
上空を飛んできたアーガからひとかげがひとつ、わたしの目の前、川岸近くへまいおりた。
「操りのまい。いでよ操具、『じゅうそうれい(獣爪霊)』!」
黄色い髪をした白い作務衣のその人は呪の言葉らしきものを口にした。前方へと伸ばした両うで、指十本から青白き光をきらめかせる糸状の霊波がつむぎだされる。
「あれは……なんなの?]
霊波の先に浮かびあがる異様なかげ。それが実体となって現われた。見た目はするどいつめを持つ『けもの』の前あし二つ。おそらくこれが『操具』なるものにちがいない。
術師が両うでや指を動かせば、指の先から出ている霊波がしなる。霊波がしなれば、それにあわせて操具が動く。霊波の間を白い光が行ったり来たり。まるで意志と力を伝えあうかのように。
術者が両うでを前につきだす、と、操具がつちくれへと向かっていく。
がぐっ! がぐっ!
操具の指がつちくれにめりこむ。
(あっ! つちくれ全体が……青白くかがやき始めた!)
そう思ったのもつかの間。つちくれはたちまち灰色っぽい姿へと変わった。
ひゅぅぅっ。
一じんの風がふく。つちくれは『ちり』と化し、消えていった。と同時に、術者の呪が造りだした操具もまた、まぼろしのように消えてしまった。
「すごい……」
天空の村に満ちている霊力を自由自在に操れるといわれる呪術師の力。それをまざまざと見せつけられた思いがした。
「けがはありませんか?」
術者はわたしをふり返った。『きびしさ』という名の仮面がはがれ、いつもの『やさしさ』をたたえた表情があらわになる。もちろん、わたしは感謝の言葉を口にした。
「うん。大丈夫。ありがとう、お兄ちゃん」
「どういたしまして。可愛い妹のためならば」
「ふふっ」「ははっ」
わたしとお兄ちゃんは、ほほ笑みながら、おたがいの顔を見つめあった。
わたしはお兄ちゃんのそばに行くと、だいているこどもの顔を見せた。
「お兄ちゃん。この子が」
「判っています。上流で母親がやってきた警護隊と話していましたから。
……さてと。それじゃあ」
お兄ちゃんはこどもをだきかかえると、手をかざした。手のひらから放たれた光がこどもを頭からなめるように照らしていく。足の先まで届いたとたん、光は、ぱっ、と消えてしまった。
「気を失っているだけですね。よかった」
お兄ちゃんは、ほっとしたような顔をした。もちろん、わたしも。
つちくれが消えたあたりに視線をあわせてみた。
「お兄ちゃん。あのつちくれ、ずいぶんと大きかったね。でも、なんであんなすごいのが落ちてきたのかなぁ?」
「それなんですが……。
フローラ。君も頂上で土砂くずれが起きたことは知っていますよね」
「えっ。……うん。知っているよ」
「あれそのものは自然現象なのでどうしようもありませんが……。山の一角がくずれたことで地の妖精たちがざわめき始めたのが原因と考えられます」
「地の妖精が?」
「そう。ふだんはおとなしい妖精さんたちなんですけどね。なにか異変があると、一種のこうふん状態におちいってひがいを大きくしてしまうんです」
「それじゃあ、つちくれも」
「地の妖精たちがさわぎまくったあげく起こした災害の一つ、ってことになりますね」
「ふぅぅん。なんかこわいなぁ。
あっ、そうそう。つちくれからね。こどものような声を感じたの。あれって一体?」
「もちろん、妖精が放った声です。もっとも、今は山にもどっているみたいですが」
「あれっ? つちくれと一緒に消えちゃったんじゃなかったの?」
「フローラ。僕はもちろんのこと、たとえ最高位の呪術師であっても、地をよりどころにしている霊体をどうにかする、なんてことはできません。おとなしくさせるくらいが関の山です」
「じゃあ、これからも」
「いいえ。土砂くずれそのものは、すでに収まっています。それに、地の妖精たちのざわめきも、せまってきたつちくれに呪を用いたことで静まりました。もうこれ以上の災害は起きない、とみていいと思います」
「そうなんだ。よかったぁ」
「本当のことをいいますとね。つちくれを安全に落とすだけなら、あんなおおげさな呪を用いなくても、もっと楽な手段があるんですよ」
「じゃあ、どうして?」
「妖精たちをおとなしくすることが目的だったんです。でないと、二次災害がまだまだつづくことになりますからね。それだけはぜひともさけたかったんです」
「うん。わたしもそう思う。いつ、なにが起きるか判らない、ってのはいやだもの。
でも終わってよかったなぁ。ほっとしたぁ」
「ええ。ただ、ちょっと気になることがあります」
「なんなの? お兄ちゃん」
「地の妖精はあきらかにフローラへと向かってきました。しかも、なにか遊んでほしかったような、そんな声を感じました」
「うん。わたしもそう思った」
「ひょっとすると、フローラは地の妖精に気にいられてしまったのかもしれません」
「えっ。わたしが?」
「地にかぎらずどの妖精にもいえることですが、めずらしいものに興味をひかれるという点については、みな同じなんです。彼らはフローラに、ほかの人間にはない『なにか』を感じてしまったのかもしれません。それで近づこうとしたのでしょう」
「ということは、危害を加えるつもりじゃなかったのね」
「それはそうなんですが……、地の妖精って自分の力がよく判っていない霊体でしてね。向こうは遊び半分でやっていても、こちらにとっては命がけ。なんてことがあたりまえのように起きるんです。現にフローラも危なかったでしょ? 必要がないかぎりは近づかない方が無難な妖精さんです」
「その妖精に気にいられちゃったってわけか……。困ったなぁ。
ねぇ、お兄ちゃん。わたしはどうすればいいの?」
「さきほどもいったようにふだんはおとなしい妖精です。自分がよりどころにしている土とか岩とかに、なにか異常なことでも起きないかぎりは。だから、それほど気にする必要はないと思いますよ」
「それならいいんだけど……。でもなんか不安だな」
多分、うかない顔をしているであろうわたしの耳に、お兄ちゃんのいつになく陽気な言葉が聞こえてきた。
「いや。地の妖精にさえも好きになられるなんて、考えようによっては、すごいことかも。
ふふっ。もてもてですね。フローラは」
「ちょっとぉ。こっちはしんけん(真剣)なんだからぁ。んもぉう」
わたしはふくれっ面をしてみせた。
「あっ、そういえば」
わたしはおくればせながら、一つの疑問をお兄ちゃんにぶつけてみた。
「お兄ちゃんはどうして、わたしがここにいる、って判ったの?」
「フローラ。君は僕に、『助けてぇ』と願ったでしょう?」
「えっ。……うん、そうだけど」
「フローラも知っているはずです。同じ霊覚交信でも、思いが強ければ強いほど、伝える力も強くなります。相手をねむりからさましてしまうほどに、ね。
僕はすぐさま声の感じた方へとアーガを飛ばせたんです。そしたら今度は、『こどもを助けなきゃ』という言葉が真下を流れる川の中から伝わってきました。それで君のいる場所を特定することができたんです」
「そうかぁ。わたしの声は、ずぅっとお兄ちゃんの心に届いていたってわけね」
「そのとおりですよ。フローラ」
(はなれていても心はつながっている……)
わたしにはそれが……とてもうれしかった。
話がひと区切りつくと、お兄ちゃんはわたしにこう告げた。
「フローラ。この子は僕が母親の元へ連れていきましょう」
「うん、お願い。……あのね、お兄ちゃん」
「なんです? フローラ」
わたしはいわなきゃならないことがあった。
「ごめんなさい、お兄ちゃん!」
わたしは思いっきり、頭をさげた。
「急にあやまったりして。……一体どうしたんです?」
「わたし……、わたしね。お兄ちゃんに……買ってもらった作務衣をね。川の中でそのぉ、
……ぬいじゃったのぉ!」
わたしは泣きべそをかいていたかもしれない。ごめんなさい、と言葉をつづけようとしたら、お兄ちゃんは立てた人さし指を、わたしの口元におしあてた。
「この子を助けるために一生けん命だったんでしょ? あやまる必要なんかありません」
「でもぉ……」
「フローラ。それより、だれにも気づかれることなく休けい所までもどれますか?」
「えっ。……うん。できるよ。この姿のままで行けばいいんだもの」
「では、これから僕のいうとおりにしてください。今から、……そうですね。一時間ほど川遊びをしてから、その姿のまま休けい所にもどってください」
「一時間も?」
「ええ。お願いします。僕もそれぐらいにはもどれると思いますから」
「ふぅぅん。判った、お兄ちゃん。それじゃあ一時間後に」
「会いましょうね」
お兄ちゃんは、にっこりとほほ笑えむと、きびすを返して歩き始めた。アーガがつばさを休めている場所へ向かって。
「さぁてと。一時間かぁ」
ざぶん!
わたしは川の中へ飛びこむ。最初はくつと衣服を探そうと思っていた。でもあの水流を考えれば、とうに村の外まで流れだしていてもおかしくはない。あきらめることにした。
「お兄ちゃんのいうとおり、川遊びでもするか」
水の妖精になったのはひさしぶり。とはいっても、身体が大きくなったせいだろう。水の中の風景が小さく見える。泳ぐ速さも段ちがい。なんだか楽しくなってきた。
「うわぁぁい!」
川はばが湖にくらべて圧倒的にせまいのは仕方がない。でも、興味をそそられる部分もある。上流から下流までの長さと流れの速さ。それに、泳ぐにつれて刻一刻と変わる水の中の風景。これらは湖では味わうことのできない体験だ。時間は太陽の位置で大ざっぱに判断するのだけれど、一時間なんてあっという間にすぎてしまった。
「ふぅ。つかれたつかれた」
音楽を聞きにきて川遊びをするとは思わなかった。だけど、楽しかったのですごく満足。でも、『さぁ、そろそろもどろうかな』って思ったとたん、現実の問題が頭をもたげた。
(休けい所にもどってもなぁ。なにも着るものがないんだっけ)
お兄ちゃんの持ってきた荷物に着がえはない。それはつきそってきたわたしが一番よく知っている。
(とはいっても、いつまでもここにいるわけにもいかないしぃ。とりあえず帰ろうっと)
わたしは川をさかのぼる。水の妖精にはなんでもないこと。あっという間に休けい所近くの川岸までもどった。
(人がいっぱいいるぅ。このまま歩くわけにはいかないから、地をはうしかないか)
ぬるっぬるっぬるっ。ぬるっぬるっぬるっ。
わたしはたまり水のような姿となって地面をはい、自分たちの休けい所までたどりつく。霊波シールドにおおわれたこの身体は、自分の意志一つで、ものの上にあがる、あるいは、ものにしみこむ、などといったことが容易にできる。わたしはそのままの姿でしきものの上へ、ぬるっと、あがった。
(ふぅ。やっとついた)
「お帰りなさい、フローラ」
お兄ちゃんは休けい所にもどっていた。しきものにこしをおろし、立てたひざを両足でかかえこむような姿勢で待っていた。
わたしは霊覚交信で話しかける。
「お兄ちゃん、もどっていたんだ」
「とっくにね。フローラ。はい、これ」
お兄ちゃんは自分の後ろにあったものを、わたしの目の前に置く。
「お、お兄ちゃん、これは!」
信じられないものをまのあたりにした。きれいに折りたたまれた作務衣や下着が、くつの横に並べられている。
(どれも川の中でぬいでしまったはずなのに……。お兄ちゃんったら、ひょっとして同じものを二つ買っていたのかな?)
あまりのできごとに、そんな風にさえ思ってしまった。
「お兄ちゃん。これって一体」
「だめもとで探してみたんです。そしたら、くつは河原に流れついていましたし、作務衣は川の水面につきでている岩にからまっていました。どちらも簡単に回収できましたよ」
「そうだったの」
「陽ざしが強いこともありがたかったです。くつは岩の上に、衣服は木の枝に引っかけておいたら、あっという間にかわいてしまいましたから」
(なるほどね。ひとつひとつを聞けば、ふしぎでもなんでもないか)
「さぁ、フローラ。だれもこちらを向いていないようですから、今のうちに作務衣を着こんでください」
「うん、判った」
わたしは、ぬるぬるっと、今の姿のまま下着へ、さらには作務衣へと身体をとおした。すべての衣服に身体がとおった時点で、とりあえず人の形に変えた。だけど……。
「お兄ちゃん。水の身体から人間の身体にもどす方法って判る?」
「と、いきなりいわれましても。大体、フローラはどうやってその姿になったんですか?」
「念じたの。元の姿にもどれって。それだけなんだけど」
「ふぅぅん。だったら、今度は人間の姿になりたい、って思ったらどうです? 案外うまくいくかもしれませんよ」
「……そうだね。うん。やってみる」
わたしはお兄ちゃんの言葉どおりに念じてみた。そしたら……、
あっさりと、ひょうしぬけするくらいに、あっさりと、人間の姿にもどることができた。
(こんなにお手軽でいいのかなぁ)
わたしはこどものことが気になっていた。
「お兄ちゃん。あれからどうなったの?」
「しゅさいしゃ(主催者)側に親分がいっぱい、いたので、あずけてきました」
「親分?」
「正規の呪医を意味します。こういうお祭りにはね。たいてい何人か待機しているものなんです。僕たち見習いは、かんじゃを見つけたら必ず報告して指示をあおがなくちゃなりません。まぁ、一種のなわばりみたいなものと思ってもらえれば」
「お兄ちゃんはいなくてもいいの?」
「ええ。親分があらためてしんさつ(診察)をしますから。その結果、たいしたことがなければ、その場で簡単なちりょうをほどこして、『はい、お大事に』。そうでなければ病院へ運ぶことになります。後者の場合、本来であれば見習いの務め。だから、てっきり任されるものとばかり思っていたんです。ところが、ふたを開けてみたら……、今は人手が足りているから必要ない、っていわれましてね。とどのつまり、報告して僕の役割はおしまい、となったわけですよ」
「ふぅぅん。ねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃん本人としては、どっちがよかったの?」
「フローラは僕が、『一時間ほどしたらもどってきて』っていったのを覚えていますか?」
「えっ。……うん。確かに聞いた」
「実は、かんじゃを病院に運び終わったらその足で市場へ行って、フローラが着られる服をいくつか調達するつもりでした」
「あっ、そうだったんだ」
「ところが行かなくてすむことになったじゃないですか。それなら、ってことで直接、ここから市場へ向かうことにしたんです。アーガで川ぞいを下流に向かって飛んでいましたが、ひょっとして、と眼下を流れる川の方にも目を向けていたところ……、
見つかりました。くつと作務衣が」
「幸運だったってわけね。あっ、そうそう。くつも衣服も、ぬれているところなんてどこにもないけど、一体どうして?」
「フローラが休けい所にもどってきたら、すぐに衣服を着て、くつをはくことができるようにしたかったんですよ。それで見つかった場所の近くにあった木の枝でかわかしてから、もどってきたってわけです」
「そうだったのぉ。お兄ちゃん。わたしのためにいろいろと気を使ってくれて、ありがとう」
わたしは感謝の思いをこめてお兄ちゃんをだきしめた。
「あのぉ、すみませぇん」
休けい所の外から声が聞こえる。お兄ちゃんと外に出てみた。すると、そこにいたのは。
(あれっ。さっきの母親だ)
だきかかえているこどもは目をさましていた。ほおに涙のあとがにじんでいる。どうやら、かなりに泣きじゃくっていたみたい。わたしの顔を見て、『この人、だぁれっ?』、みたいな、きょとんとした顔つきをしていたのは、ちょっとさみしかった。
(まぁ、気を失っていたからなぁ。無理もないか)
こどもの父親? らしき人も、となりによりそっていた。母親と同じぐらいの年にも見える。
「この子が本当にお世話になりました。ありがとうございました」
母親はわたしに向かってお礼の言葉を述べた。
「えっ? ええと」
何事かと思ってお兄ちゃんの顔をふり向く。
「フローラ。僕が教えておいたのです。妹が苦労してこどもを助けたんだって」
「そう……だったの」
わたしは再び母親の方へと視線を移す。
「お礼なんて、いいのいいの。わたしが勝手にやったことだもの」
そういって顔を横にふると、母親のとなりにいた大柄な男性も口を開いた。
「わたしはこの子の父親です。ひとり息子なんですよ。ちょっと目をはなしたすきに川に流されてしまって……。一時はどうなるかと。いやあ、本当に助かりました」
そういって母親ともども、わたしに頭をさげた。
(やっぱり親子なのね。よくにているもの)
「それで、これからどうするおつもりですか?」
お兄ちゃんがたずねると、母親はこどもをあやしながら、こう話した。
「呪医さまの話ではどこも異常はないとのことでしたが、念のため、病院でみてもらったら、とも助言くださいました。それで、運んでいただくことにしたのです」
「僕もそれがいいと思います。それじゃあ、呪医さんに同行してもらえるんですね」
「そうだと聞いております」
「そうですか。それなら安心ですね」
「はい。この子が無事でいられましたのも、全ては早い段階で見つかったことと、すぐにみてもらえたおかげだと話してくれました。全てはおとなりにいる女の子とあなたさまのおかげです。お二人にはとても感謝しおります」
二人は何度も頭をさげたあと、救急のアーガが降りたつ場所へと歩いていった。
仲むつまじい親子のせなか。それを見てこんな風に思った。
親子。元は、といえば、赤の他人である男女二人から始まった。二人が出会い、心や身体をかよわせ、深いきずなを造っていった。それはやがて具体的な形をなし、婚約、結婚を経て二人は夫婦となった。そして新たな命を生みだす出産へと至り、……二人の間にこどもができた。
それが『親子』と呼ばれる家族の姿。
この生まれたこども。それこそが、二人を結びつける一番のきずな。かつて赤の他人同士だった二人の、血が、思いが、結びついた形ある証といえる。これほど強いきずなは、ほかにはない。単なる言葉だけのきずな。心や身体をかよわせて生まれたきずな。戸籍などの書類の上でのきずな。それらをはるかにこえた存在。ほかのどのきずなも切ろうと思えば、かくご次第で切れてしまう。だけど、こどもはちがう。存在するかぎり、きずなは消えない。否定しようしても否定することのできない、切ろうとしても切ることのできない、絶対のつながりなのだ。
わたしは、お兄ちゃんが『お姉ちゃん』と呼んで、したうマリアさんに、『銭湯』という名の、大きな風呂場に連れていってもらったことがある。
確か、並んで頭を洗っている時だったと思う。
『どうしてお姉ちゃんじゃだめなの?』ってたずねてみた。
返ってきた答えは、
『それだと、いつまで経っても先に進めないじゃないですか』、だった。ほんのちょっと涙目な、訴えるような表情が顔にうかんでいた。
あの時は、マリアさんのいっている意味がよく判らなかった。でも今は……、ほんの少しだけど、判る気がする。
『マリアさんもお兄ちゃんとの間に、もっと強いきずながほしいんだな』って。
それはわたしがお兄ちゃんのことを『ネイルさん』から『お兄ちゃん』と呼ぶようになったのと同じ心。わたしもお兄ちゃんとのきずなが、つながりが、ほしかったからだ。
(でも……本当にそれでよかったのかな)
今はお兄ちゃんと同じ部屋で暮らしている。お兄ちゃんが造ったもの……もちろん、わたしも手伝ってはいるけど……を一緒に食べて、お兄ちゃんのすぐ横……二つ並べてしいたふとんの一つ……でねむる。ちゃぶ台で向きあって話に夢中になる、大笑いする、だまって読書にふける。お兄ちゃんが家にいればいつも一緒。そんな毎日がくりかえされている。いまさら呼び名を変えるまでもない、とは思う。思うのだけれど……。
二つのわたしが心の中に。今のままで十分と考えるわたしは『お兄ちゃん』って呼ぶことを、より強いきずなを求めるわたしは『ネイルさん』って呼ぶことを、それぞれ望んでいる。
(どちらにしたらいいの?)
いくら考えても答えは出ない。
今いえることは、
『当分、その答えは見つからないだろうな』、
『これからもずっと、そのことを考えつづけるにちがいない』、の二つだけ。それは判っている。判ってはいるけど……。
(ああんもぉう! 同じ考えが頭の中でぐるぐるとまわっているぅ!
だれかぁ! 答えを教えてぇ!)
親子が立ちさってすぐにまたひとり、わたしたちを訪ねてきた。
「このたびはどうもありがとうございました」
開口一番、こういって、お兄ちゃんに深く頭をさげた。
「ええと。あなたは?」
首をかしげるお兄ちゃんに対し、さきほどの父親よりもずっと年配と見受けられるその人は、『わたしはこの音楽祭のしゅさいしゃです』といったあとに自分の名前を告げ、
「あなた方のおかげでとうとい命が守られました。深く感謝いたしております」と言葉をつづけた。
「いいえ、僕自身はほとんどなにも。全ては彼女のおかげですよ」
そういってお兄ちゃんは、かたわらにいるわたしの方をふり向く。しゅさいしゃさんの目もこちらへとそそがれた。
「ありがとうございました。音楽祭でけが人が出たとなれば、今後の運営にも支障をきたすところでした。深く感謝いたしております」
今度はわたしに頭をさげた。
「いいえ、そんなぁ」
わたしは手を横にふりながらそう答えた。すると、彼は顔をあげて、
「つきましてはなにかお礼を、と考えております。望みのことがあれば、おっしゃってはもらえませんか?」とたずねてきた。
(そういわれても)
わたしは困って、お兄ちゃんを見あげる。
「それでしたら、ひとつお願いがあります」
お兄ちゃんはそういって彼を見つめた。
「音楽祭の続行は、かないませんでしょうか?」
(あっ。それがあったな)
「わたしもそうしてくれるとうれしいな」
今回起きた二つの事故。こどもが流されたことと。つちくれが落ちてきたこと。この二つが原因で音楽祭が中断していた。続行が危ぶまれていたのだ。『せっかくここまできたのに』と二人でがっかりしていた矢先に、しゅさいしゃ自身がやってきた。
このお願いに対し、『どうなるかは判りませんが』と前置きしたあと、
「今、このことで話しあいをしている真っ最中です。わたしからも口ぞえしておきますよ」と、いくらか期待が持てる言葉がもらえた。
「本当ですか?」「本当に?」
わたしはお兄ちゃんと目をあわせて喜んだ。
「ええ。ではさっそく」
彼はわたしたちの前から遠ざかっていく。
(うまくいくといいんだけど)
それから一時間ぐらいあとのこと。とつぜん、場内放送が流れた。広場にいくつか設置してある拡声器から聞こえてくる。当然、主さい者側からのお報せだ。
「場内にお集まりのみなさまへご連絡いたします。
先だってお伝えしました川に流されたこどもは無事、救助されました。また心配されていた頂上での土砂くずれについては当本部でしんちょうに議論を重ねた結果、ほうらく自体は収束されつつあることや、起きたひがいについても会場からだいぶはなれた場所に集中していることから、一応の安全は確保されているとの認識で一致。音楽祭を中止するにはおよばず、との結論に達しました。
よって音楽祭を続行させていただくことといたします。ご来場のみなさま、再開まで今しばらくお待ちください。
なお、関係者各位のみなさまにおかれましては再開に向けて、すみやかに準備をお始めくださいますよう、つつしんでお願い申しあげます」
「うぉぉっ!」「やったぁ!」
「待っていてよかったわぁ」
「さぁ、早く会場にもどろうよ」
「あせらなくったっていいよ。再開までにはまだ時間がかかるみたいだから」
「ミーにゃん、まだ終わってはいないみたいにゃよ」
「よかったわん。来たかいがあったわん」
周りから次々と声が聞こえる。
「お兄ちゃん、よかったね。続行するみたいよ」
「ええと、それじゃあ、今度はどれにぃ……」
お兄ちゃんはわたしの言葉を受けて、予定表をじっくりとながめ始めた。
「にゃあんか今回は、にゃがぁぁいお話にゃった気がするのにゃん」
「本当本当。ちょっとつかれたわん」
「それじゃあ、ひとやすみってことで」
「うん。それがいいわん」
「にゃあ、ネイルにゃん。ちょっと聞きたいことがあるのにゃけれども」
「いいですよ、なんでも聞いてください」
「どうしてフローラにゃんの衣服を休けい所でかわかさなかったのにゃん?」
「ほかにはだれも、かわかしている人がいなかったからですよ。フローラは女性ですからね。はずかしいんじゃないかと思って」
「なるほどね。ネイルさんにしては気を利かした行動だったわん」
「しては、って……」
「ネイルにゃん。まぁ、いいじゃにゃいか。ミーにゃんの口の悪さは今に始まったことじゃにゃし。それより、にゃ。衣服を木に干していたみたいなのにゃけれども、ネイルにゃん自身は、その間、どこにいたのにゃん?」
「ですから、かわかしている木の下で。こかげですからね。すずしかったですよ」
「そうすると、ネイルさんは女ものの服をかわかしている下に、ずぅっといたってことになるけど……。
変な目で見られなかった? あるいは、ひやかされるとかしなかったの?」
「全然。ただ妙な現象がひんぱつしましたが」
「妙な現象? ネイルにゃん。それは一体どういうことなのにゃん?」
「うん。アタシもぜひ聞きたいわん」
「いや、そんなにたいしたことではないんですが……。
どうしてかは判りませんが、僕のそばを男の人が入れかわり立ちかわりきましてね。さそってくるんです。『どう? お茶でも飲みにいかない?』って。しかも、ですよ。今考えると、会場にいた若い男の人のほとんどが」
「……にゃあるほど、にゃん!」「……なぁんか判る気がする、わん!」




