妖精の香水と農夫の妻
焼きたてのパンの香りに誘われて台所へ入ったエリアスは、食卓を見て思わず足を止めた。
籠にはまだ湯気の立つパンが山のように積まれ、皿には焼いた卵と山羊のチーズ、薄く切った林檎まで並んでいる。
「……今日は誰か来るのか?」
鍋を火から下ろしていたリナが振り返った。後ろで束ねた栗色の髪が、肩のあたりで軽く揺れる。
「どうして?」
「四人分はあるぞ」
「あなたが二人分食べるからでしょう?」
「それでも三人分だ」
「昨日も同じことを言って、最後のパンまで食べたじゃない」
反論しかけたエリアスは、昨夜の食卓を思い出して黙った。
リナは得意そうに笑い、夫の前へ皿を置く。
結婚して五年。二人は森に近い小さな農場で暮らしていた。豊かな土地とは言えず、最初の冬には屋根から雨が漏れ、翌年には山羊が柵を壊して隣の畑へ逃げ込んだ。それでも、春に植えた林檎の木が初めて三つの実をつけた日には、二人で子供のようにはしゃいだものだった。
「今日は北の畑?」
食事の途中でリナが尋ねた。
「ああ。柵の近くに狼の足跡があった。日が暮れる前に直しておきたい」
「一人で大丈夫?」
「柵を直すだけだぞ」
「去年も屋根を直すだけだって言って、梯子から落ちた人がいたわね」
「あれは梯子が悪かった」
「梯子は何も言い返せないものね」
エリアスは肩をすくめ、最後のパンを口へ放り込んだ。
出かけようと玄関へ向かうと、背後からリナに呼び止められた。
「待って。襟が曲がってる」
振り返るより早く、彼女の指がシャツの襟元へ伸びてくる。エリアスは慣れた様子で顎を上げた。
「いつも直してくれるだろ」
「あなたがいつも曲げるからよ」
襟を整え終えたリナの額に、エリアスは軽く口づけした。
「暗くなる前に帰る」
「それから、森の近くに白い花が咲いていたら、少し持ってきてくれる?」
「また増やすのか? そのうち菜園が花畑になるぞ」
「花畑になったら綺麗でしょうね」
「野菜を植える場所がなくなる」
「あなたの好きな芋を減らせばいいわ」
「……探してくる」
リナが笑う。
その顔をもう一度見てから、エリアスは鍬と食料の袋を担ぎ、朝日の差す庭へ出た。
◇
北の畑の柵を修理し終えた頃には、太陽が木々の向こうへ傾き始めていた。
最後の釘を打ち込み、エリアスは柵を揺すって確かめる。これなら、山羊が体当たりしたくらいでは壊れないだろう。
帰り道、森の入口で白い花を見つけた。
リナが喜びそうな、小さな花だった。根を傷つけないよう慎重に掘り起こし、湿らせた布で包んで袋へ入れる。
「これで文句は言われないな」
独り言を口にした直後、木立の奥から低い唸り声が聞こえた。
エリアスは顔を上げた。
狼だ。それも一頭ではないらしい。
耳を澄ますと、獣の唸りに混じって、か細い悲鳴が聞こえてきた。子供の声に似ていた。
逃げたほうがいい。そう思ったのに、足はすでに声のするほうへ向かっていた。
木々の間に三頭の狼がいた。地面の近くで何か小さなものが青く光っている。狼たちはそれを囲み、少しずつ距離を詰めていた。
「おい!」
鍬の柄で木の幹を叩くと、狼たちが一斉に振り向いた。
思っていたより、ずっと大きい。
エリアスは早くも自分の判断を後悔した。猟師でも兵士でもない農夫が、狼を三頭も相手にしてどうするというのか。
それでも背を向ければ追われるかもしれない。彼は腰の袋から火打石を取り出し、拾った枝に乾いた布を巻きつけた。
「頼むから、ちゃんと燃えてくれよ……」
一度目は火がつかなかった。
狼の一頭が前足を踏み出す。
二度目でようやく布に火が移った。エリアスは松明を高く掲げ、鍬で地面を強く叩く。
「向こうへ行け!」
先頭の狼が後ずさった。ところが別の一頭が横から飛びかかってくる。
エリアスは夢中で松明を振った。炎が鼻先をかすめ、狼が甲高い声を上げて退く。勢い余ったエリアスは木に肩をぶつけたが、痛がっている余裕はなかった。
しばらく睨み合った末、狼たちはようやく茂みの奥へ姿を消した。
足音が聞こえなくなっても、エリアスの膝は震えていた。
「……二度とやるもんか」
そう呟いてから、彼は狼たちが囲んでいた場所へ近づいた。
木の根元に倒れていたのは、手のひらより少し大きい少女だった。
銀色の髪に薄紫色の瞳。白い花びらを重ねたような服をまとい、背中には透明な羽が二枚生えている。その片方が、痛々しく折れ曲がっていた。
少女はエリアスを見るなり、小さな手を持ち上げた。指先に青い火花が生まれたものの、すぐに消えてしまう。
「近づかないで……!」
「そんな怪我で何をする気だ」
「私は……妖精よ」
「そうか。じゃあ、その羽は飾りじゃないんだな」
少女は呆れたように瞬きをした。
「怖くないの?」
「さっき狼に食われかけたばかりだ。怖がる順番が違う」
エリアスは鍬を置き、ゆっくりしゃがみ込んだ。
「傷を見せてくれ。勝手なことはしない」
妖精はしばらく警戒していたが、やがて小さく頷いた。
折れた羽の付け根から血が滲んでいる。エリアスは水筒の水で泥を洗い流し、幼い頃に母から教わった薬草を摘んだ。
妖精に人間と同じ薬が効くかどうかは分からない。だが、傷口を汚れたままにしておくよりはましだろう。
「痛い!」
「我慢してくれ。俺だって慣れてないんだ」
「もっと優しくできないの?」
「妻にもよく言われる」
シャツの袖を裂いて包帯代わりにすると、妖精は驚いたように布を見つめた。
「服が破れたわ」
「リナに直してもらう」
「リナ?」
「妻だよ」
そのとき、妖精のお腹が小さく鳴った。
二人は顔を見合わせる。
エリアスは食料の袋を開き、パンを半分に割って差し出した。
「食べるか?」
「……あなたの食事でしょう?」
「家に帰れば夕飯がある。心配するな」
妖精はパンを両手で受け取り、少しずつ食べ始めた。小さな身体のどこに入るのか不思議になるほど、あっという間に食べ終えてしまう。
「もっといるか?」
少女は首を横に振ったが、目は残りのパンを追っていた。
エリアスは笑って、もう半分を渡した。
食べ終える頃には、妖精の身体を包む青い光が少し強くなっていた。立ち上がろうとしたものの、羽を動かした途端に顔を歪める。
「飛べない……」
「家まで送ろうか?」
「人間に妖精の里を知られるわけにはいかないの」
「俺も人間なんだが」
「……そうだったわね」
妖精は困ったように笑った。
仲間が迎えに来るというので、エリアスは木の根元に落ち葉を集め、枝と大きな葉で雨よけを作ってやった。
「じゃあ、俺は帰る。妻が待ってるからな」
「待って」
妖精が両手を合わせると、青い光の中から小さなガラス瓶が現れた。
中には月明かりを閉じ込めたような液体が揺れている。
「これを持っていって」
「何だ?」
「妖精の泉から作った香水よ。使った人の美しさを引き出す力があるの」
「俺には必要なさそうだな」
「そうかしら?」
妖精が真面目な顔で首を傾げたので、エリアスは少し傷ついた。
「ただし、一滴だけにしてね」
その声が急に真剣になった。
「妖精の魔法は、心の奥にある願いにも反応するの。ほんの少しなら、その人が望む美しさを引き出すだけ。でも、使いすぎると何が起こるか分からない。本人も気づいていない願いまで、身体に現れてしまうことがあるから」
「つまり?」
「欲張らないこと」
「それなら最初からそう言ってくれ」
妖精はくすりと笑った。
そして、もう一つ教えてくれた。
妖精は命を救われると、恩人との間に特別な縁が結ばれるという。相手が心から助けを求めれば、その縁をたどって駆けつけられることがあるらしい。
「万能じゃないわ。私にできることしかできないもの。でも、あなたが本当に困ったら、私のことを思い出して」
「ありがとう。でも、そんなものをもらうために助けたわけじゃないぞ」
「だから、返したいのよ」
妖精は微笑んだ。
エリアスは礼を言い、白い花の包みを拾った。
帰り道、破れた袖を見ながら、リナにどう説明したものかと考える。
狼と戦い、妖精を助け、魔法の香水をもらった。
そんな話をすれば、夕食が冷めるまで質問されるに違いない。
実際、その夜はそうなった。
◇
「妖精?」
「ああ」
「本当に?」
「羽があった」
「どのくらいの大きさ?」
リナが両手を広げると、エリアスはその幅を少し狭めた。
「そのくらい」
「可愛かった?」
「怪我をしていたから、そんなこと考える余裕はなかったな」
「それで、その子を助けたお礼がこれ?」
リナはガラス瓶を窓辺にかざした。夕陽を受けた液体が、小さな虹を壁に映している。
「綺麗……」
「お前にやるよ」
「いいの?」
「俺が使っても、畑仕事で泥だらけになるだけだ」
リナは夫のシャツに顔を近づけ、わざと鼻をつまんだ。
「あなたこそ使ったほうがいいかもしれないわね」
「そんなに臭うか?」
「冗談よ」
彼女は笑ってエリアスの頬に口づけした。
その夜、リナは湯浴みの前に香水を一滴だけ使った。
雨上がりの花畑を思わせる香りが広がり、湯気の向こうで水面がかすかに光った。
けれど、それ以上は何も起こらない。
「妖精の魔法って、案外静かなものなのね」
リナは瓶に栓をし、棚の奥へしまった。
翌朝、鏡の前で髪をまとめていた彼女は、寝室の入口から聞こえた夫の声に振り返った。
「……リナ?」
「なあに?」
エリアスは立ち尽くしていた。
妻の栗色の髪も、緑色の瞳も、鼻の上の小さなそばかすも変わっていない。けれど、朝日を受けた肌は柔らかく輝き、見慣れた顔立ちが不思議なほど美しく見えた。
「何よ、そんな顔をして」
「鏡を見てみろ」
「見てるわよ。髪がまとまらなくて――」
リナは言葉を止めた。
鏡に顔を近づけ、頬に触れる。
「……え?」
何度も角度を変えて自分の顔を確かめたあと、彼女は棚のほうを振り返った。
「昨日の香水?」
「それしか考えられないな」
「どうしよう。元に戻るのかしら」
声には戸惑いが混じっていた。
エリアスは隣に立ち、彼女の顔を覗き込む。
「どこか痛むか?」
「痛くないけど……」
「気分は?」
「普通よ」
「じゃあ、とりあえず朝飯にしよう」
「それだけ?」
「腹が減ってるんだ」
リナは呆れたように夫を見た。
「私の顔が変わったのよ?」
「顔が変わっても、お前が朝から俺に文句を言うのは変わらないんだな」
思わず笑いそうになったリナは、すぐに唇を結んだ。
「本当に、何とも思わないの?」
エリアスは彼女の手を取った。
「綺麗になったと思うよ。でも、昨日のお前も好きだった」
リナは少しだけ目を伏せる。
「……そういうこと、もっと普段から言ってくれればいいのに」
「言ってるつもりだった」
「全然足りないわ」
エリアスは苦笑し、彼女の額に口づけした。
それからしばらく、村では妙なことが続いた。
普段は無愛想なパン屋の主人が、リナにパンを渡したあとも延々と天気の話を続けるようになった。旅の商人は、彼女の売る野菜に相場の三倍もの値をつけようとした。
リナはどちらにも困った顔をしたが、エリアスは商人の話を聞くと、少しだけ惜しそうな顔をした。
「三倍なら、今年の柵を全部新しくできたな」
「あなたまで何を言ってるの」
そんな二人の知らないところで、噂は村から町へ、町から王都へと広がっていった。
東の農村には、王国中の貴婦人にも負けない美しい女がいるという。
やがて、その話は国王アルドリックの耳にも届いた。
◇
アルドリックは、欲しいものを手に入れるために苦労した経験がほとんどなかった。
幼い頃から珍しい玩具も美しい宝石も、望めば誰かが用意してくれた。王位についてからは、それがますます当たり前になった。
だから、東の農村に王国一の美女がいると聞いたときも、本人に会えばよいと思っただけだった。
その女性に夫がいると知ったのは、農場へ到着してからだった。
「お前は彼女の使用人か?」
荷車を修理していたエリアスは、油まみれの手を布で拭った。
「夫です」
アルドリックは眉をひそめた。
質素な服に泥のついた長靴。目の前の男は、どう見てもただの農夫だった。
そこへ家の扉が開き、籠を抱えたリナが出てきた。
「エリアス、誰が来たの?」
アルドリックは思わず言葉を失った。
噂は誇張ではなかった。
けれど、彼を驚かせたのは美貌だけではない。リナは相手が王だと知って礼をしたものの、顔を上げると、まるで隣人にでも話しかけるように尋ねた。
「何か御用でしょうか?」
「君を王宮へ招待したい」
「ありがとうございます。でも、今日は仕事がありますので」
アルドリックは返事を待った。
リナは籠を持ち直した。
「ほかに何か?」
王は、しばらくその場を動けなかった。
翌日、花束が届けられた。
リナは礼状を添え、村の礼拝堂へ寄付した。
次に届いた青い絹のドレスは送り返された。エメラルドの耳飾りも、金貨の入った箱も同じだった。
王宮では、使者たちが毎日のように報告を繰り返した。
「今回も、お受け取りにはなりませんでした」
アルドリックは返された宝石を眺め、苛立たしげに指で机を叩いた。
そして、とうとう自ら農場を訪ねた。
リナは菜園で草を抜いていた。
「私からの贈り物が気に入らなかったのか」
「気に入らなかったわけではありません。私には高価すぎます」
「だから贈ったのだ」
リナは不思議そうに顔を上げた。
「高価だから、受け取らなければならないのですか?」
王は返答に詰まった。
「王都に屋敷を与えよう。使用人もつける。今のように畑仕事をする必要もなくなるぞ」
「でも、私は畑仕事が好きです」
「二十部屋もある屋敷だ」
「そんなに部屋があって、どうするんです?」
「好きなだけ宝石を買える」
「宝石より、今年の林檎がちゃんと実るほうが嬉しいです」
アルドリックの指が、手袋の上から強く握り込まれた。
「では、何が欲しい?」
リナは畑の向こうを見た。
エリアスが柵を修理している。作業に夢中で、麦わら帽子が少しずれていた。
「もう持っています」
アルドリックも同じ方向を見た。
そこには、泥に汚れた農夫がいるだけだった。
王は何も言わず馬車へ戻ったが、帰り道も窓の外を眺めることはなかった。
あの男にあって、自分にないものとは何なのか。
その疑問が、頭から離れなかった。
◇
三日後、リナが一人で家にいると、玄関を叩く音がした。
扉を開けると、エリアスが立っていた。
「今日は早かったのね」
「ああ。仕事が早く終わった」
いつものシャツに土のついた長靴。髪の乱れ方まで普段と変わらない。
それでも、リナは何となく違和感を覚えた。
「花は見つかった?」
「花?」
「昨日、お願いしたでしょう?」
「ああ……今日はなかった」
リナは夫の顔を見つめた。
彼は何も気づかない様子で家に入ってくる。
「腹が減ったな」
リナは扉を閉め、夫の前に立った。
「襟が曲がってる」
手を伸ばしてシャツの襟を整える。
「そうか。ありがとう」
その瞬間、リナの指が止まった。
本物のエリアスなら、いつも同じことを言う。
『いつも直してくれるだろ』
リナは一歩下がった。
「……あなた、誰?」
男の笑みが消えた。
「何を言ってるんだ、リナ」
「夫なら、今の返事を間違えないわ」
沈黙が落ちる。
やがて男の姿が揺らぎ、髪の色も顔立ちも変わっていった。
そこに立っていたのは、アルドリックだった。
リナは息を呑んだ。
王が自分の家に入り込み、夫の姿を真似ていたのだ。
「何をしているんですか」
「知りたかったのだ。あの男にあって、私にないものを」
リナは扉を開けた。
「五年間、私と生きてきた時間です」
「時間など、これからいくらでも与えられる」
「あなたと過ごしたいとは、一度も言っていません」
アルドリックの表情が険しくなった。
「私は王だぞ」
「存じています」
「ならば、なぜ私を拒む?」
リナは王の目を見た。
「あなたが王だからではありません。私があなたを愛していないからです」
王はしばらく動かなかった。
やがて何も言わずに家を出ていった。
リナは扉を閉め、鍵をかけた。
震える手を押さえながら、エリアスが帰ってくるまで台所の椅子に座っていた。
帰宅した夫に事情を話すと、エリアスはすぐに村長を訪ね、王宮からの訪問を断るための正式な申し入れをした。
しかし、その手紙に返事は来なかった。
代わりに兵士たちがやってきたのは、三日後の夜明けだった。
◇
エリアスが異変に気づいたときには、すでに農場の周囲を兵士が囲んでいた。
「何の用だ?」
返事の代わりに、兵士の一人が彼の腕をつかんだ。
エリアスは振り払い、近くに立てかけてあった鍬を取った。
だが、相手は武装した兵士が六人。最初の一人を転ばせたところで、別の兵士に顔を殴られ、地面に押さえつけられた。
「エリアス!」
家から飛び出してきたリナを見て、アルドリックが馬を下りた。
「これまで私は、礼を尽くしてきた」
「勝手に家へ押しかけてきたのは、あなたでしょう!」
リナは夫のもとへ駆け寄ろうとしたが、兵士に道を塞がれた。
「屋敷も宝石も与えようと言った。王妃の座さえ考えていた。それなのに、お前は私を侮辱した」
「断ることが侮辱なのですか?」
アルドリックは答えなかった。
「その男は王兵に刃向かった。明朝、処刑する」
リナの顔から血の気が引いた。
「そんな……!」
「ただし、私と結婚するなら話は別だ」
エリアスは地面に押さえつけられたまま、必死に顔を上げた。
「リナ、聞くな!」
アルドリックは彼を一瞥した。
「今夜まで待とう」
兵士たちはエリアスを連れ去った。
リナは追いかけようとしたが、馬車が見えなくなるまで立ち尽くすしかなかった。
◇
王都の牢は、湿った石と古い藁の臭いがした。
エリアスは鉄格子の向こうにリナの姿を見つけると、立ち上がった。片目は腫れ、唇には乾いた血が残っている。
「リナ……」
「ひどい顔」
「鏡を見てないから分からん」
いつもなら笑ってくれる冗談だった。
リナは笑わなかった。
鉄格子の前に膝をつき、夫の手を握る。
「私、王宮へ行くわ」
「駄目だ」
「エリアス」
「絶対に駄目だ。あいつの言いなりになる必要なんかない」
「明日の朝、あなたは殺されるのよ」
「何とかする」
「どうやって?」
エリアスは答えられなかった。
鍬を握ることならできる。柵を直し、畑を耕し、冬のために薪を割ることならできる。だが、王の命令で閉じ込められたこの牢から、どうすれば出られるのか分からなかった。
「……何とかするさ」
リナは悲しそうに微笑んだ。
「あなた、嘘が下手ね」
彼女は夫の手を両手で包んだ。
「私たち、ずっと二人で決めてきたでしょう。どこに住むかも、何を育てるかも。喧嘩したときだって、最後にはちゃんと話し合ってきた」
「ああ」
「だから、今回も私の話を聞いて」
「お前をあいつに渡す話なら、聞きたくない」
「私だって行きたくないわ」
リナの声が震えた。
「怖いの。あの人が何をするか分からないし、もう家へ帰れないかもしれない。でも、あなたを助けられるのに何もしなかったら、きっと一生後悔する」
エリアスは鉄格子を握りしめた。
「俺は、お前を守るためなら死んでもいいと思ってる」
「私は、あなたに生きていてほしいの」
その言葉に、エリアスは何も返せなかった。
リナは鉄格子に額を寄せた。
夫も同じように身をかがめ、冷たい鉄越しに額を合わせる。
「ごめんなさい」
リナが離れた。
「待ってくれ」
彼女は振り返らなかった。
足音が遠ざかると、エリアスは鉄格子を殴った。
拳から血が出ても、もう一度殴った。
やがて力尽き、壁にもたれて座り込んだ。
守りたかったのは、王国でも名誉でもない。
ただ、あの小さな家でリナと暮らし続けることだった。
夜が更けた頃、牢の小窓から青い光が差し込んだ。
「ずいぶんひどいことになってるわね」
聞き覚えのある声だった。
エリアスが顔を上げると、透明な羽を持つ妖精が宙に浮かんでいた。
「お前……!」
「久しぶりね」
「羽は治ったのか?」
妖精は驚いたように瞬きをした。
「最初に聞くことがそれなの?」
「いや、ほら。前は飛べなかっただろ」
妖精は笑った。
「あなたのおかげよ。薬草も、パンも、ちゃんと効いたわ」
エリアスは安堵して笑ったが、すぐに顔を曇らせた。
「悪いが、今はゆっくり話せない。妻が……」
「知ってる」
妖精は彼の手枷に触れた。
青い光が金属を走り、錠が音もなく外れる。
「あなたがあの森で私を助けたとき、私はほとんど魔力を失っていたの。だから、あの香水くらいしか渡せなかった」
「香水のせいで、リナが王に目をつけられた」
「……ええ」
妖精の表情が曇った。
「美しさを与える魔法は、人の心まで変えるものじゃない。あの王が何をしたかは、王自身の責任よ。でも、私の贈り物がきっかけになったことは確かね」
彼女はエリアスの胸に小さな手を当てた。
「今度は、あなた自身に力を貸すわ」
温かな光が身体へ流れ込んできた。
殴られた頬の痛みが和らぎ、手首の傷が塞がっていく。
エリアスは立ち上がった。
さっきまで重かった身体が、驚くほど軽い。
「ただし、一つだけ約束して」
「何だ?」
「この力は誰かを守るためのもの。憎しみに任せて人を傷つけようとすれば、すぐに消えるわ」
エリアスは鉄扉に目を向けた。
「王を殺したくないと言えば、嘘になる」
妖精は黙って聞いていた。
「でも、俺が今したいのは、あいつを殺すことじゃない。リナを連れて帰ることだ」
「それなら大丈夫」
妖精は微笑んだ。
エリアスは鉄扉を両手でつかみ、力を込めた。
錆びついた蝶番が軋み、扉が石壁から外れた。
「……これは便利だな」
「便利だからって、何でも壊さないでよ」
「分かってる。家の扉は大事にする」
妖精は呆れたように笑った。
エリアスは扉を脇へ置き、牢を出た。
◇
リナは王宮の大広間へ続く廊下を歩いていた。
白い絹のドレスは驚くほど軽く、裾には金糸の刺繍が施されている。首には宝石が並び、髪には真珠の飾りがつけられていた。
鏡の前で侍女たちに囲まれていたとき、リナは何度もそれらを外してしまいたくなった。
だが、夫の命がかかっている。
自分がここで拒めば、エリアスは朝を迎えられないかもしれない。
扉の向こうでは、王と貴族たちが待っていた。
リナは一度だけ目を閉じた。
家の台所を思い出す。
焼きたてのパンの匂い。
庭で鳴く鶏。
仕事から帰ってくる夫の足音。
もう二度と戻れないかもしれない。
そう思ったとき、大広間の扉が開いた。
アルドリックは満足そうな笑みを浮かべ、彼女を迎えた。
「ようやく分かってくれたか」
リナは答えなかった。
王が手を差し出す。
その指先に触れようとした瞬間、廊下の向こうから大きな物音が響いた。
続いて、誰かの怒鳴り声。
「止まれ!」
「悪い! ちょっと通してくれ!」
リナは顔を上げた。
次の瞬間、大広間の扉が勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、破れたシャツを着たエリアスだった。
片目はまだ腫れている。肩には新しい傷があり、長靴は泥だらけだった。
彼の後ろで、何人もの兵士が床に倒れていた。意識を失っている者もいたが、命に別状はなさそうだった。
「……エリアス?」
リナの声に、彼は顔を上げた。
豪華なドレス姿の妻を見て、少しだけ眉を寄せる。
「ずいぶん着飾ったな」
「あなたこそ、ひどい格好よ」
「急いで来たからな」
アルドリックが剣を抜いた。
「何をしている! その男を殺せ!」
兵士たちが一斉に動いた。
エリアスは剣の扱いなど知らない。
だから、近くの長椅子を持ち上げて盾にした。
槍が木に突き刺さり、兵士が引き抜こうとしたところで椅子ごと押し返す。別の兵士が横から斬りかかってくると、今度はテーブルをひっくり返して足を止めた。
豪華な食器が床に散らばる。
「おい、危ないだろ!」
エリアスは反射的に叫んだが、危ないことをしているのは自分も同じだった。
リナはこんな状況なのに、少しだけ笑いそうになった。
やがてエリアスは兵士たちを退け、王の前に立った。
「貴様など、ただの農夫ではないか!」
アルドリックが剣を振り下ろす。
エリアスは辛うじてかわしたが、二撃目が肩をかすめた。痛みに顔をしかめながらも、次の一撃で王の手首をつかむ。
剣が床へ落ちた。
「ええ、農夫ですよ」
エリアスは王を押し返した。
「それから、リナの夫です」
アルドリックは玉座の階段に倒れ込んだ。
エリアスは落ちた剣を拾い、王へ近づいた。
牢で殴られた痛みが蘇る。リナが泣きながら別れを告げた顔も。
この男がいなければ、何も起こらなかった。
剣を握る手に力が入る。
そのとき、胸の奥にあった温かさが急に薄れた。
妖精の言葉を思い出した。
『憎しみに任せて人を傷つけようとすれば、すぐに消えるわ』
エリアスは立ち止まった。
王は床に座り込んだまま、彼を睨んでいた。
「どうした。殺せばいいだろう!」
エリアスは剣を下ろした。
「俺は、お前を殺しに来たんじゃない」
床に剣を置き、振り返る。
リナがいた。
彼はゆっくり妻へ歩いていった。
抱きしめた瞬間、身体から不思議な力が抜けていくのを感じた。膝が折れそうになり、リナが慌てて支える。
「馬鹿。こんな無茶をして」
「お前を迎えに来ただけだ」
「知ってるわ」
リナは泣きながら笑った。
その背後で、何かが床を引きずる音がした。
アルドリックだった。
王は階段を這い、近くに置かれた小箱を開けていた。兵士たちが農場から没収した品々が入っている。
その中から、小さなガラス瓶を取り出した。
リナが息を呑んだ。
「それは駄目!」
王は瓶を掲げた。
「これが、お前を美しくした魔法か」
「一滴しか使っていません!」
「一滴であれほどの美しさを得たのなら、全部使えばどうなる?」
エリアスが止める間もなく、アルドリックは瓶の中身を頭から浴びた。
甘い花の香りが大広間に広がった。
しばらく、何も起こらなかった。
アルドリックは勝ち誇ったように笑った。
「見ろ。やはり私こそ――」
そこで声が途切れた。
王の身体が青白く光り始めたのだ。
指が縮み、足が細くなり、深紅のマントが床へ落ちる。
王冠が石段を転がった。
誰もが息を呑んだ。
やがて大きな衣服の下から、一匹の緑色の蛙が飛び出した。
「ゲコッ」
大広間は静まり返った。
エリアスは蛙を見た。
リナも見た。
「……一滴って言ったよな」
「言ったわ」
「全部使ったな」
「使ったわね」
二人は顔を見合わせた。
こんな状況で笑ってはいけない。
そう思ったのに、リナの肩が震え始めた。エリアスも口元を押さえたが、とうとう堪えきれなくなった。
笑い声が広間に響いた。
蛙は不満そうに鳴いた。
◇
それから数日後、エリアスとリナはようやく村へ帰ってきた。
王宮では、国王が突然蛙になったという前代未聞の出来事をめぐり、大臣たちが大騒ぎしているらしい。
けれど、そんなことは二人には関係なかった。
帰ってきた農場では、案の定、山羊が柵を壊していた。
「ほら、言ったでしょう?」
リナが笑う。
エリアスは壊れた柵を眺め、深いため息をついた。
「王様より、こいつらのほうが手強いかもしれないな」
「王様には言わないでおきましょうね」
「蛙にどうやって伝えるんだよ」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
翌朝、台所には焼きたてのパンの香りが満ちていた。
エリアスは食卓を見て、思わず足を止める。
「……今日は誰か来るのか?」
リナが振り返った。
「どうして?」
「四人分はあるぞ」
「あなたが二人分食べるからでしょう?」
「それでも三人分だ」
「昨日もそう言って、最後の一個まで食べたじゃない」
エリアスは反論しかけたが、やめた。
リナは笑いながら近づき、夫の襟元へ手を伸ばした。
「また曲がってる」
「いつも直してくれるだろ」
「あなたがいつも曲げるからよ」
彼女の指が襟を整える。
エリアスはその手を取り、しばらく離さなかった。
「……どうしたの?」
「いや。帰ってこられてよかったと思って」
リナは少し驚いたように夫を見た。
それから、静かに微笑んだ。
「私もよ」
窓の外では、白い花が朝の風に揺れていた。
エリアスは妻の額に口づけし、椅子に腰を下ろした。
パンはまだ温かかった。
そして今日は、二人とも急いで食べる必要がなかった。
――完――
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
もしお時間があれば、この物語についての感想やご意見をお聞かせいただけると嬉しいです。良かった点、改善点など、どんなご意見でも大歓迎です。
また、もしこの物語が評価に値すると感じていただけたら、ぜひ評価をお願いします。
私の物語を読んでくださり、心から感謝申し上げます。




