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金魚の死に方

作者: 丹波謙虎
掲載日:2026/05/16

 金魚が死んだ日曜の朝、母はそれをきれいだと言った。

 水槽に浮かんでいた赤い体は、昨日まで泳いでいたときよりも、かえって静かに見えた。尾びれは水の中で薄く開き、ほどけたリボンみたいにゆるく揺れていた。白い腹は小さく上を向き、口は少しだけ開いていた。母は台所から網を持ってきた。少しも慌てていなかった。網を水に入れると、ほかの金魚たちが赤い影を散らして逃げた。死んだ一匹だけが動かなかった。網の上にすくわれ、水面から持ち上げられると、尾びれから細い水が落ちた。死んでいるものから落ちる水まできれいに見えてしまうことが、わたしには少し嫌だった。

「きれいに死んだね」

 母はそう言った。それから、金魚をティッシュではなく、白い小皿に載せた。縁に銀色の細い線が入っている。母はその皿を一度布巾で拭いてから、金魚を置いた。まるで果物を一切れ載せるみたいに、丁寧だった。死んだものは、白いものの上に置かれると、急に見られるための形になる。母は小皿を窓際へ運んだ。朝の光が斜めに入り、金魚の鱗を濡れたまま光らせた。

「ほら。見て。尾びれがきれい」

 わたしは見た。尾びれはたしかにきれいだった。薄く、赤く、端のほうは少し透明で、光を通していた。けれど、それを見ることが正しいのかどうか、わからなかった。死んだものの形が整っていることを、最初に褒めるのは、何かが違う気がした。それでも、そのときのわたしは何も言えなかった。金魚がかわいそうだと思ったわけではなかった。悲しくて泣きそうになったわけでもなかった。ただ、死んでもまだ母に見られていることが、いやだった。

 母は水槽をきれいに保つ人だった。水槽は居間の窓際に置かれていた。四角いガラスの箱。底には赤い砂利と白い石が敷かれ、奥には水草が三本、ほどよい間隔で植えられていた。小さな陶器の橋もあった。母はその橋の位置をときどき直した。水草が曲がると、ピンセットで向きを整えた。水の濁りを、母はひどく嫌った。

「水が濁ると、せっかくの赤が台無しになるの」

 そう言いながら、母は水槽のガラスを磨いた。ガラスの外側を拭き、水面の泡を取り、フィルターの音を確かめた。母が水槽の前に立つと、金魚たちは餌をもらえると思って寄ってきた。口をぱくぱく開けた。

「ほら、寄ってきた。かわいいね」

 母は金魚をかわいがっていた。それは本当だった。母は金魚を乱暴に扱わなかった。餌の量もきちんと測った。水替えも忘れなかった。水温にも気をつけていた。金魚が病気になれば、薬を調べ、別の容器に移した。母はいつも丁寧だった。ただ、その丁寧さの中心にあるものが、金魚の命なのか、水槽の美しさなのか、わたしにはわからなかった。生き物を大切にしているようで、その生き物が作る景色を大切にしているようにも見えた。金魚が泳いでいることより、赤いものが透明な水の中を動いていることを愛しているようにも見えた。

 母はきれいなものが好きだった。白い皿。透明なグラス。皺のないハンカチ。よく磨かれた靴。髪の毛が一本も落ちていない洗面台。家は、いつも整っていた。テーブルの上には余計なものがなかった。リモコンは決まった位置に置かれ、雑誌は角をそろえて重ねられていた。玄関の靴はつま先をまっすぐにそろえられ、傘立ての傘も色の順に並んでいた。母の美しさは、生活のあちこちに小さな命令として置かれていた。ここに置きなさい。そろえなさい。濁らせないで。崩さないで。乱れないで。母はそんなふうには言わなかった。ただ、黙って直した。直される前のものが最初から存在しなかったみたいに、静かに、きれいにした。

 わたしの髪も、母にとっては整えるもののひとつだった。小さいころから、母はわたしの髪をよく触った。朝、学校へ行く前、洗面所の鏡の前に立たされる。母は後ろに立ち、櫛を持つ。寝癖を見つけると、スプレーで少し濡らし、指で押さえる。前髪の長さを確かめ、耳の横の髪を内側へ入れる。わたしは鏡の中で母の手を見ていた。

「じっとして」

 母はいつもそう言った。怒っている声ではなかった。むしろ優しかった。優しいから、動いてはいけない気がした。母は鏡の中のわたしを見て、少しだけ満足そうにする。

「うん。かわいい」

 かわいい。わたしは、その言葉をたくさんもらって育った。

「かわいいね」

「将来、美人さんになるね」

「お母さんに似て、顔立ちがきれいね」

「綺麗なお嫁さんになるね」

 言われるたびに、母はうれしそうだった。わたしの肩を軽く抱き寄せたり、髪を撫でたりした。けれど、かわいいと言われるたび、わたしの中に何かが増えた感じはしなかった。むしろ、少しずつ外側だけが厚くなっていくような感じがした。内側はそのまま空洞で、そこに誰も触れない。かわいいという言葉は、わたしの中に入ってくるのではなく、顔や髪や服の上を撫でて通りすぎていった。褒め言葉は、わたしの外側に薄い膜を作った。その膜は光をよく返したけれど、息は少ししづらかった。

 かわいい。きれい。美人になる。女の子らしい。ちゃんとしている。そういう言葉ばかりが、水槽の底の白い石みたいに沈んでいた。

 母は、わたしが泣くと涙を拭いた。けれど、どうして泣いたのかを聞くより先に、目の下が赤くなっていることを気にした。

「そんなにこすったら、目が腫れるわよ」

 母はそう言って、冷たいタオルを持ってきた。わたしのまぶたにあてた。気持ちよかった。母は優しかった。だから、わたしは何も言えなくなった。母の優しさは、いつも正しい場所の少し手前に触れた。痛みそのものではなく、痛みが残した跡に触れた。母はいつも、わたしの中で起きたことではなく、それが外へ漏れた形を整えた。

 母はわたしが怒ると、理由ではなく顔を注意した。

「そんな顔をしないの」

 わたしが口を尖らせると、母は眉をひそめた。

「せっかくかわいい顔をしてるのに」

 せっかく。その言葉が、子どものころから嫌いだった。せっかくかわいいのに。せっかくきれいなのに。せっかく女の子なんだから。せっかく、という言葉のあとには、いつもわたしが消えていた。怒っているわたしも、泣いているわたしも、嫌だと思っているわたしも、その言葉の前では邪魔なものになった。外側の価値を損なうものとして扱われた。わたしの感情は、母の前では水槽の濁りに似ていた。そこに何が溶けているのかではなく、透明ではなくなることが問題だった。

 中学校に入ったころ、わたしは人前で泣かなくなった。泣くと顔が崩れるからだった。そういう顔を母は嫌がった。母にとって、泣いたあとに残るものは悲しみではなく乱れだった。だからわたしは、泣くときはひとりで泣くようになった。風呂場で、シャワーの音にまぎらせて泣いた。湯気で鏡が曇ると、少し安心した。曇った鏡には、顔がはっきり映らなかった。目が赤くても、口元が歪んでいても、輪郭だけがぼやけていた。曇った鏡の中のわたしは、母に見られないわたしだった。

 高校に入ると、母の言葉は少し変わった。

「姿勢をよくしなさい」

「スカート、短すぎない?」

「髪、傷むからちゃんと乾かしなさい」

「食べ方、もう少しきれいに」

「女の子がそんな口をきかないの」

 母は大声を出さなかった。叩いたこともなかった。だから、母のことを誰かに悪く言うことはできなかった。母はいい母だった。きちんと朝食を作り、洗濯をし、学校の行事にも来た。わたしが熱を出せば看病した。でも、母の愛は水槽に似ていた。水槽は外から見ると美しい。けれど、中にいるものは水槽の外へ出られない。どれほど透明でも、ガラスは壁だった。 

 学校で、友達に言われたことがある。

「いいよね、顔が綺麗で」

 昼休みの教室だった。パンの袋を開けながら、その子は何気なく言った。悪意はなかった。むしろ褒めているつもりだったのだと思う。

「得だよね。なんか、黙っててもちゃんとして見えるし」

 わたしは笑った。

「そんなことないよ」

 そう返すことも、もう上手になっていた。その子は続けた。

「私なんか、ちょっと機嫌悪いだけで怒ってるって言われるもん。いいなあ、そういう顔」

 そういう顔。わたしは自分の顔に触れた。けれど、他人から見えるのは表面だけだった。顔とは、他人のためにいちばん外側に置かれたものなのだと思った。授業中、窓ガラスに自分の顔が映ることがあった。わたしの顔は、わたし自身よりも、ガラスに近いものに見えた。向こう側を見せるためにある、透明な板。そこに映っているものは見えるのに、その奥には誰も来ない。

 


 母は昼過ぎになっても、金魚を埋めなかった。窓際の白い小皿の上で、金魚は少し乾いていた。尾びれの端が縮み、赤い色が濃くなっていた。朝よりも生き物らしさが失われ、飾りに近くなっていた。

「埋めないの」

 わたしが聞くと、母は少し驚いた顔をした。

「もう少ししたらね」

「もう死んでるよ」

「わかってるわよ」

 母は笑った。

「でも、こんなにきれいなんだもの」

 こんなにきれい。母は小皿の位置を少し動かした。そのしぐさを見たとき、わたしは急に、葬式のことを思い出した。

 祖母が死んだとき、母はわたしに黒いワンピースを着せた。髪をきちんと結び、白い靴下を履かた。火葬場の待合室で、母は何度もわたしの膝をそろえた。

「ちゃんとしていなさい」

 祖母の顔は、棺の中で白かった。口元は少し微笑んでいるように整えられていた。親戚の誰かが、きれいな顔だね、と言った。眠っているみたい、とも言った。母はその言葉にうなずいた。わたしはそのとき、祖母が本当に眠っているようには見えなかった。でも誰も、苦しかったかもしれないね、とは言わなかった。死ぬ前、祖母は病院のベッドで何度も息を詰まらせていた。口を開け、喉を鳴らし、手を弱く動かしていた。その顔は、眠っている顔ではなかった。けれど葬式の日、みんなは整えられた顔だけを見て、きれいだと言った。死んだ人は、最後にきれいな顔を与えられる。その前にどんな顔をしていたかは、だんだん語られなくなる。母は金魚にも、同じことをしているのだと思った。

 死んだ金魚の口は、小さく開いていた。その口が気になった。生きているとき、金魚はよく口をぱくぱくさせていた。ただ、声は出なかった。水槽のガラス越しに、口だけが動いた。わたしにも、そういう口があった。言いたいことはあるのに、声にならない。声にする前に、母の指が口元を整えてしまう。

「そんな言い方しないの」

「もっとやわらかく言いなさい」

「女の子なんだから」

 わたしの言葉は、口から出る前に、形を直された。

 ある日、小学生のころ、クラスの男子に髪を引っ張られたことがあった。痛くて、わたしはその男子を突き飛ばした。男子は大げさに転んで、先生に泣きついた。家に帰って母に話すと、母はわたしの頭を撫でた。

「痛かったね」

 そう言ってくれた。でもそのあとで、母は続けた。

「でも、突き飛ばすのはよくないわ。女の子なんだから、もっときれいに怒りなさい」

 きれいに怒る。その言葉の意味が、今でもわからない。怒りは、そもそもきれいな形をしていない。そういうものを全部取り除いたら、怒りは残るのだろうか。母は、感情にも身だしなみがあると思っているようだった。悲しみは静かに。怒りはやわらかく。痛みは見えないように。涙は拭いて。口元は閉じて。そうして残った顔だけが、母にとってのわたしだった。


  

 その日の夜になっても、母は金魚を埋めなかった。夕食の支度をするときも、小皿はまだ窓際に置かれていた。味噌汁の湯気が台所から流れてきて、居間の空気に混じった。水槽のポンプの音、包丁の音、皿を置く音。そのすべての中に、死んだ金魚があった。尾びれの端はさらに縮み、白い腹は少しくすんでいた。金魚はだんだん金魚ではなくなり、すっかり死体になっていた。

「やっぱり、明日にする」

 夕食のあと、母はそう言った。

「何を」

「埋めてあげるのを」

 母は小皿を持ち上げた。

「でも、このままだと傷むわね」

「傷む?」

「暑いし。かわいそうでしょう」

 母はそう言って、台所へ向かった。冷蔵庫が開く音がした。わたしは食卓に座ったまま、その光を見ていた。母は小皿を冷蔵庫の中へ入れた。牛乳や卵や味噌や、昨日の残り物が入った保存容器の近くに、死んだ金魚を置いた。冷蔵庫の扉が閉まると、台所はまた普通の暗さに戻った。母は何もなかったように手を洗った。

 わたしは、しばらく動けなかった。

 冷蔵庫の中に金魚がいる。白い小皿の上で、赤い尾びれを広げたまま、冷やされている。食べ物と同じ場所で、傷まないように保存されている。

 夜中、喉が渇いて台所へ行った。暗い台所で冷蔵庫の取っ手に手をかけたとき、指が一瞬止まった。開けたくないと思った。でも冷えた水を飲みたかった。扉を開けると、白い冷気が顔に当たった。奥の段に、小皿があった。ラップはかかっていなかった。赤い尾びれだけが見えた。牛乳パックの横、卵のケースの下、作り置きの煮物の奥に、死んだ金魚がいた。冷蔵庫の光は、水槽の光よりもずっと白く、平らだった。その白さの中で、金魚の赤は妙に鮮やかだった。わたしは水のペットボトルを取ることも忘れて、しばらくそれを見ていた。死んだ金魚は、食べ物みたいに冷やされていた。食べられないのに、腐らないようにされていた。母は美しさを保存したいのだと思った。死んだことよりも、美しい状態が失われていくことに耐えられないのだと思った。


 

 翌日、母は冷蔵庫から金魚を出した。朝食の前だった。トーストを焼く匂いがしていた。金魚は昨日より硬く見えた。尾びれは少し縮み、体の赤は濃くなり、白い腹には薄い影ができていた。母は小皿を両手で持ち、窓際へ運んだ。昨日と同じ場所へ置いた。朝の光が金魚に当たった。

「まだきれい」

 母は小さく言った。

 まだ、という言葉が、わたしの耳に残った。もう死んでいる、ではなく、まだきれい。母の中では、死よりも先に、美しさの残量が測られているようだった。母は金魚の死を悲しんでいるのではなく、金魚の美しさが失われる速度を惜しんでいるように見えた。

 そのとき、かすかに生臭い匂いがした。強い匂いではなかった。けれど、昨日まではなかった匂いだった。水の匂いでも、餌の匂いでも、冷蔵庫の匂いでもなかった。小さな生き物が死んだ匂いだった。母のきれいの中に、初めて濁ったものが混じった気がした。白い小皿も、朝の光も、冷蔵庫の冷気も、その匂いまでは消せなかった。母は気づいていないようだった。あるいは、気づいていても、見ないことにしているのかもしれなかった。母は尾びれの端を見て、少し眉を寄せた。

「少し崩れちゃった」

 その声は、本当に残念そうだった。形が崩れることを悲しんでいるのだと思った。

 もしわたしが壊れても、母はまず髪を整えるのだろう。泣いた理由ではなく、涙の跡を拭くだろう。苦しかった時間ではなく、顔がきれいかどうかを見るだろう。わたしが死んでも、母はきっと、眠っているみたい、と言う人たちの中でうなずくのだろう。そしてわたしの前髪が乱れていたら、そっと直すのだろう。愛しているからこそ、母は直す。愛しているからこそ、見えるところを整える。愛しているからこそ、わたしの苦しみより先に、わたしの形を見る。

 わたしは制服を着て朝食を食べた。トーストの焦げた匂いと、金魚の生臭い匂いが少しだけ混じっていた。母は平気な顔をしていた。ジャムの瓶を開け、バターを塗り、紅茶を注いだ。普通の朝だった。普通の朝の窓際に、死んだ金魚が置かれている。冷蔵庫で一晩冷やされた金魚が、また光の下に戻されている。異様なことは、日常の中に入ると、かえって異様さを増すのだと思った。叫び声や血や暗闇よりも、トーストと紅茶と赤い金魚と白い小皿の組み合わせのほうが、ずっと怖かった。

 母は小皿を見ながら言った。

「今日、学校から帰ったら埋めましょうね」

「今じゃだめなの」

「朝は時間がないでしょう」

「埋めるのに、そんなに時間かからないよ」

「ちゃんとしたいの」

 ちゃんと。母の好きな言葉だった。ちゃんとする。きれいにする。整える。汚さない。乱さない。死んだ金魚を埋めることさえ、母の中ではちゃんとする必要があった。けれど、ちゃんとするとは何なのか、わたしにはわからなかった。金魚にとって、ちゃんとした弔いとは、白い小皿に載せられ、冷蔵庫で保存され、朝の光で鑑賞されることなのだろうか。

 学校へ行く前、母はいつものようにわたしの襟を直した。

「襟、曲がってる」

 母の指が制服の襟に触れた。昨日までなら、そのままじっとしていた。けれど、その朝は、金魚の尾びれを整える母の指と、わたしの襟を整える母の指が同じものに見えた。わたしは一瞬、体を硬くした。母は気づかなかった。襟を直し、肩のほこりを払い、わたしの顔を見た。

「顔色、悪い?」

「平気」

「無理しないのよ」

 母はやさしく言った。わたしはうなずいた。母のやさしさは、水槽の水みたいに澄んでいた。澄んでいるから、底まで見えた。底にある白い石も、赤い砂利も、逃げ道がないことも、全部見えた。

 昼休み、友達が鏡を見ながら前髪を直していた。

「今日、湿気やばくない?」

 わたしは曖昧に笑った。友達はわたしの髪を見た。

「でも、相変わらずきれいだよね。髪」

「そうかな」

「お母さん厳しそう。ちゃんとしてそうだもん」

 ちゃんとしてそう。わたしはまた笑った。わたしの笑い方は、母に直されなくてももう整っていた。口角を少し上げる。否定しすぎない。嫌な顔をしない。相手に気を遣わせない。きれいに笑う。わたしは、きれいに笑うことができた。そのことが、その日はとても嫌だった。

 放課後、靴箱で靴を履き替えるとき、窓ガラスに自分の顔が映った。わたしはその顔に向かって、小さく口を開けてみた。声は出さなかった。ただ、金魚みたいに口だけをパクパクと動かした。ガラスの向こうのわたしも、同じように口を動かした。何かを言いたい形。息をしようとしている形。声のない形。



 家に帰ると、母はまた金魚を眺めていた。小皿は窓際にあった。光の角度は朝とは変わっていた。夕方の光は少し黄色く、金魚の赤を濃く見せた。けれど、生臭い匂いも朝より強くなっていた。部屋に入った瞬間、わたしはそれに気づいた。母の表情は変わらなかった。母は小皿を少し回し、尾びれの向きを確かめていた。

「見て。光が当たると、まだ赤がきれいなの」

 わたしは返事をしなかった。まだ。母はまた、まだと言った。

「匂い、するよ」

 わたしが言うと、母は少しだけ首を傾げた。

「そう?」

「する」

「じゃあ、埋めましょう」

 母はあっさり言った。その軽さも、わたしには怖かった。匂いがしたから埋める。きれいでなくなってきたから終わりにする。金魚の死ではなく、鑑賞に耐えなくなったことが、埋める理由になるようだった。母は小皿へ手を伸ばした。そして、尾びれの端が少し折れていることに気づいたらしく、指先で直そうとした。その瞬間、わたしの中で何かが音を立てたわけではなかった。大きな決意が生まれたわけでもない。ただ、これ以上見ていられないと思った。母の指が金魚の尾びれに触れる前に、わたしは声を出していた。

「きれいに整えないで」

 母の手が止まった。

「え?」

「整えないで」

 もう一度言った。言葉にしてみると、それは自分でも驚くほど小さな声だった。けれど、小さくても、たしかに声だった。母は困ったように笑った。

「何を言ってるの」

「別にきれいに死んだんじゃない」

 わたしは小皿を見ていた。金魚の口は、まだ少し開いていた。

「ただ、死んだんだよ」

 母は黙った。

「苦しかったかもしれないじゃん」

 言った瞬間、胸の奥が熱くなった。怒っているのか、泣きたいのか、自分でもわからなかった。ただ、金魚の開いた口が、わたしの口になった気がした。

「水が合わなかったのかもしれないし、息ができなかったのかもしれないし、どこか痛かったのかもしれないじゃん」

 母は少し顔をこわばらせた。

「死んだものを、そんなふうに言うのはかわいそうよ」

「かわいそうだから、きれいって言うの?」

 母は答えなかった。ポンプの音が部屋に広がっていた。水槽の中で泡が上がり続けていた。生きている金魚たちは、赤い尾びれを揺らして泳いでいた。母の顔は、水槽のガラスに薄く映っていた。その横に、わたしの顔も映っていた。

「きれいって言ったら、苦しかったことがなくなるの?」

 母は、わたしを見た。その目は怒っていなかった。本当に困っている目だった。母にとって、きれいという言葉は悪いものではなかったのだと思う。母はきっと、金魚を侮辱したつもりも、苦しみを消したつもりもなかった。母にとって、きれいは祈りに近かったのかもしれない。せめて綺麗に。せめて乱れずに。せめて見苦しくなく。でも、その「せめて」が、わたしには苦しかった。せめて綺麗に、という言葉は、綺麗でなければ見ていられない、という言葉に似ていた。

「わたしも、そうなの?」

 母は瞬きをした。

「何が?」

「わたしも、泣いたら顔を拭かれて、怒ったらそんな顔しないのって言われて、苦しくても髪を直されて、そうやって見られてたの?」

「そんなつもりじゃないわ」

 母はすぐに言った。

「あなたを大事にしてきたつもりよ」

「知ってる」

 それは本当だった。

「でも、見えるところだけだった」

 わたしはひどいことを言っていると思った。母がわたしを愛していたことを、わたしは知っている。母の優しさも、母の丁寧さも、母の手の温かさも、知っている。それでも、その愛の中で息ができなかったことも、本当だった。母はしばらく黙っていた。そして、いつものように、わたしの前髪へ手を伸ばした。たぶん、癖だったのだと思う。話の途中で乱れた髪を直そうとしただけなのかもしれない。わたしは一歩、後ろへ下がった。母の手が空中で止まった。それは、はじめて母の指を避けた瞬間だった。

 わたしは白い小皿を持った。

「どこへ持っていくの」

「埋める」

「待って。せめて紙に包んで」

「このままでいい」

「汚れるわよ」

 母はそう言った。わたしは答えなかった。庭へ出た。庭といっても、狭い場所だった。物干し台の下に、少しだけ土がある。母が季節の花を植える場所だった。今は花がなく、湿った土だけが残っていた。しゃがみこむと、制服の膝が地面についた。母なら嫌がると思った。指で土を掘った。土は冷たかった。爪の間に入り、指先を黒くした。小石があって、少し痛かった。掘るたびに土の匂いがした。水槽の水とは違う匂いだった。澄んでいない。清潔でもない。けれど、生き物の匂いがした。母は縁側に立っていた。何も言わなかった。

 わたしは小皿から金魚を下ろした。死んだ金魚は思ったより軽かった。尾びれはもう、母が言ったほどきれいには見えなかった。濡れて、乾きかけて、少し崩れていた。冷蔵庫で一晩冷やされても、死は止まっていなかった。体にはかすかな生臭さがあり、赤い鱗には土がついた。でも、そのほうがよかった。死んだものは、きれいでなくていいと思った。苦しかったかもしれないものを、きれいという言葉で閉じ込めたくなかった。わたしは金魚を穴に置いた。土をかけると、赤はすぐに見えなくなった。尾びれの端だけが最後まで残り、それも指で土を寄せると消えた。見えなくなることが、こんなに安心するとは思わなかった。

 母はまだ黙っていた。わたしは土の上を手のひらで軽く押さえた。指も爪も汚れていた。制服の膝にも黒い跡がついていた。髪も少し乱れていたと思う。鏡を見なくてもわかった。

「手、洗いなさい」

 母が言った。いつもの母の声だった。

 家に入る前に、もう一度だけ土を見た。そこには何もなかった。白い小皿も、赤い尾びれも、光もなかった。ただ土があるだけだった。それでよかった。もう、見られなくてよかった。

 洗面所で手を洗った。爪の間の土はなかなか落ちなかった。母ならブラシを使いなさいと言うだろうと思ったが、母は何も言わなかった。鏡を見ると、髪が少し崩れていた。前髪が片方に寄り、頬に一本、細い髪が貼りついていた。わたしは手を伸ばしかけて、やめた。そのままにした。鏡の中のわたしは、きれいではなかった。目が少し赤く、口元も固かった。制服の膝は汚れ、手にはまだ土の色が残っていた。

 母が後ろに立っているのが、鏡に映った。母はしばらく何も言わなかった。わたしの髪にも、襟にも、手にも触れなかった。ただ、鏡の中のわたしを見ていた。でも、母の手は伸びてこなかった。

 居間から、水槽のポンプの音がかすかに聞こえていた。ぶくぶくと泡が上がる音。透明な水が揺れる音。生きている金魚たちは、きっとまだ泳いでいる。赤い尾びれを広げ、口をぱくぱくさせながら、ガラスの中を行ったり来たりしている。水槽の中では、すべてがまだきれいなのだろう。水は澄み、石は白く、赤いものは光を受けているのだろう。けれど、庭の土の中には、もう見えない金魚がいる。白い皿にも、冷蔵庫にも、朝の光にも戻されない金魚がいる。

 わたしは鏡の前で立っていた。きれいと言われたくなかった。かわいいと言われたくもなかった。ただ、ここに何かがあることを、自分だけは信じていたかった。母が小さく息を吸った。何かを言いかけたのかもしれない。けれど、母は何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。

 鏡の中で、わたしの髪はずいぶん乱れていた。そこに、わたしはいた。


【終わり】

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