第2話 手袋
ぐっすり眠っている彼に声をかけて起こすのも気が引けて、私は彼の手袋を持ったまま、通路を隔てた斜め向かいの席に腰を下ろした。
このまま彼の正面のシートに置いておけば、目を覚ました時に気づくだろうか――そう思い直して立ち上がった、その時。
列車がカーブに差しかかり、車体が大きく揺れた。
足元がふっとすくわれ、体が前に流れる。
よろけたはずみに、通路にはみ出していた彼の膝に、軽くぶつかってしまった。
「あ、すみません」
反射的に謝って身を起こす。
その瞬間、彼が目を開けた。
帽子の影の奥から、まっすぐに視線が合った。
「あの……えっと……手袋が落ちて……」
しどろもどろな言い訳とともに差し出した、私の手元と慌てた顔を見比べてから、彼はようやく状況を理解したように小さく息をついた。
「ああ……僕が落とした手袋を拾ってくれたんですね。ありがとうございます」
日に焼けた頬に、人懐こい明るい笑みが広がる。
いかつい印象の見た目よりも柔らかい声だった。
「いえ……たまたま見えただけなので」
そう答えながら手袋を渡すと、彼の指先が一瞬だけ触れた。
ひやり――
外の冷気を残した温度だった。
手袋を受け取った青年は、斜め向かいの窓際の席に戻った女性に目を向けた。
20代半ばくらいだろうか。
化粧っ気のない顔は寂しげで、少し虚ろな目を窓の外に向けている。
傍らには、ベージュ色のファーの着いたアイボリーのコート。
網棚にはコンパクトな紺色のキャリーケース。
「観光ですか?」
彼は気さくに彼女に話しかけた。彼女がびっくりしたような表情で振り向く。
「え……?あ、はい。旅行で」
「そうですか。この時期に珍しいと思って。泊まりはどこに?」
「……あさひ山荘という民宿です」
「ああ、知ってます。山上さんとこですね。あ、でも駅からはどうやって?」
「歩いて……ハイキングコースになってて」
「知ってますよ。でもこの時期に女性1人は危険ですよ。雪が多いし、もう暗くなるし」
「……タクシーでも」
「このへんのタクシーは夕方には営業終了ですよ」
「ええっ!」
「僕、駅前に車停めてるんで、送りましょうか?」
あまりに自然な口調だったので、彼女はすぐには返事ができなかった。
一瞬だけ迷いが表情をよぎる。
「……あの、ご親切はありがたいです。でも、大丈夫です」
そう言って小さく笑ってみせる。
知らない土地で、知らない人の車に乗る――咄嗟の警戒心のために、親切な申し出を断ってしまったことへの罪悪感を滲ませた、曖昧な笑い方だった。
彼はその様子を見て、無理に勧めることはしなかった。
「ですよね。急に言われても困りますよね」
むしろ彼は、彼女の罪悪感を引き受けて、微笑んで同意した。
「じゃあ、駅で宿に電話してみてください。あそこ、送迎やってますよ。雪の日は特に」
「……そうなんですか?」
「ええ。たぶん今の時間なら、まだバン出してくれます」
彼女の表情が、ぱっと安堵で明るくなった。
「よかった……ありがとうございます」
「いえ。山荘への林道は、夜はほんとに真っ暗になるんで」
車窓の外では、白い景色の中に、早くも夕方の色がにじみ始めていた。




